一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

壊される前に壊す

2007年10月01日 | Weblog
 ある人に薦められて福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」を読んでみました。その中で、生命とは自己複製するシステムである、と定義されると同時に、
 
 生命とは動 的 平 衡(ダイナミック・イクイリブリアム)にある流れである

と再定義されるといっています。

 海辺の波打ち際の砂浜に砂で作られた弓形の模様は波が寄せてはか返し同じ形を保ったままじっとそこにあるように見えても、砂粒はすべて波と風に奪い去られて、現在この形を作っている砂粒は新たにここにもられたもので、砂粒はすっかり入れ替わっている。
 この砂浜の模様のように人間の肉体というものも、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということである。
 では、なぜこのように分子レベルで分子が瞬間瞬間入れ替わっている理由は、

 秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

と書いてあります。
 私は、この部分の‘絶え間なく壊されなければならない’に、とても興味をそそられました。秩序を守るために、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築をおこなうためというのです。流れが流れつつも一種のバランスを保ち、つまり平衡状態を保つ再構築をおこなうためです。
 「正法眼蔵」のいっていることも、まったく動的平衡です。瞬間瞬間平衡で日常生活を送っていくことが目的です。仏教でも刹那消滅の道理という基本思想があります。世界のいっさいが瞬間、瞬間に生まれては消え、生まれては消えしてるというのです。これは、まさに、「生命と無生命のあいだ」が裏打ちしてくれています。この道理は「現在の瞬間」の実在しか認めない仏教の道理として私は捉えていました。でもこの本を読んで、もう一つの捉え方もあるというのに気が付きました。壊れる以前に壊さなければならないと言うことです。良寛さんをみてもいっさい余計な考え、ものは持っていませんでした。絶え間なく壊れる以前に壊していたからではないでしょうか。


参照:福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書

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