前回のブログの「所不能知」で(アタマより現実の目の前に見えるものに従って生活する方に賭けて遊んでみたい。)と書きました。そのことを考えながら猫を見ていたら気が付いたのです。私は心の奥底で、今の生活じゃないもっとましな将来の自分の幸せを期待して、賭けていたのです。問題なのは今の生活を多少否定していることです。腹をくくってないことです。
猫は、将来の幸せのために今を生きているのかなと考えたら、絶対にそんなことはない、と確信したのです。今、目の前のことだけで完結しています。それってすごい自立だと思ったのです。未来からの自立です。人間は将来のえさをおいて頑張ります。今、目の前の汚れた皿を洗うのも将来楽しいことをするため、勉強するのも大学受験のため、だけでは今がみじめだと思うのです。
「正法眼蔵 弁道話」の巻に次のように書いてあります。
「靜中の無造作にして、直証なるをもてなり。」(注1)(静かに、何もしないで、ジーッと坐っていることが坐禅だと。それが釈尊のさとりだといっておられる。そのことを、直接の体験であると。坐禅をしているときには理屈はいらない。頭で考える、自分の心で感じる、そんなことは要らない。静かな中にジーッとすわっていることが「さとり」。だから直接の体験だと。」(注2)「さとり」のために坐禅をするのではなく、坐禅していることが「さとり」であるというのです。
未来からの自立のためには、今を完結しなくてはいけません。そのためには現実の行為の場で坐禅のときの直接の感じで生活していくことだと「正法眼蔵」では言っています。今を、いさぎよく生きることを、猫が教えてくれています。
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻9版」金沢文庫20頁
注2:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫104頁
猫は、将来の幸せのために今を生きているのかなと考えたら、絶対にそんなことはない、と確信したのです。今、目の前のことだけで完結しています。それってすごい自立だと思ったのです。未来からの自立です。人間は将来のえさをおいて頑張ります。今、目の前の汚れた皿を洗うのも将来楽しいことをするため、勉強するのも大学受験のため、だけでは今がみじめだと思うのです。
「正法眼蔵 弁道話」の巻に次のように書いてあります。
「靜中の無造作にして、直証なるをもてなり。」(注1)(静かに、何もしないで、ジーッと坐っていることが坐禅だと。それが釈尊のさとりだといっておられる。そのことを、直接の体験であると。坐禅をしているときには理屈はいらない。頭で考える、自分の心で感じる、そんなことは要らない。静かな中にジーッとすわっていることが「さとり」。だから直接の体験だと。」(注2)「さとり」のために坐禅をするのではなく、坐禅していることが「さとり」であるというのです。
未来からの自立のためには、今を完結しなくてはいけません。そのためには現実の行為の場で坐禅のときの直接の感じで生活していくことだと「正法眼蔵」では言っています。今を、いさぎよく生きることを、猫が教えてくれています。
注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻9版」金沢文庫20頁
注2:西嶋和夫「正法眼蔵を語る 弁道話」金沢文庫104頁