一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

言葉は仮にたてるもの

2009年05月30日 | Weblog
 言葉は仮にたてるものだという言葉をみつけました。本物が出来上がるまで仮につかうけれども、本物が出来上がったらもう毀してしまうものです。ということは言葉は、本物がみつかったときは必要なくなります。

 言葉は仮にたてるものなのに、私たちは仮にたてた言葉の上に起こす所の実際有ると思う妄想 にふりまわされています。

 たとえば、「私は価値がある」という刺激を求めてのエネルギーで私たちは動いているようにみえます。学問を必死になってやることもあれば、人助けを一所懸命にやることもあります。

 それは、こうだから私は価値があるという、言葉がその人の行動のエネルギー源になっている場合には、もうそれは仮にたてた言葉の上に起こす所の実際有ると思う妄想にふりまわされていることです。

 妄想にふりまわされている人かどうかの証拠は、言葉でつっついてぐらつくかどうかです。私はこうだから価値がある、と思っている価値をあんたはそんな価値がないよ、といろいろなカタチの言葉で言われてぐらつくときは言葉が実際有ると思ってしまっているときです。

 言葉は仮にたてるもので本物がみつかったときは言葉は必要なくなります。あんたはそんな価値がない、と言葉で言われてもぐらつきません。だって本物がみつかってしまって、言葉はもう必要ないのですから。

 本物とは 「事 體事(ものがら)妄分別の戯論を離れる法相の體事」といわれています。言葉を離れてその静けさのなかから湧いてくるなにかです。命のもとめているのは言葉とは別のものです。

 私は単純に縁で目の前に現されたものを見ていて、自分のなかから湧いてくるやりたいこと、やるべきことをやっています。人にどんな嫌なことを言われても言葉よりも目の前に現されたことを大事にします。目の前に現されたものは言葉ではぐらつきませんから。

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