一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

洗練された究極の生き方(たまたま)

2010年04月10日 | Weblog
 私は宇宙の過程の本を読んでいて、私たちはたまたま酸素のある大気に産み落とされたから、坐禅が必要なのかなと、ちょっとひらめきました。これが窒素だけの大気に生まれていれば坐禅なんか必要なかったでしょう。

 酸素は、もとから地球にあったわけではなく、もともとの大気は窒素と二酸化炭素だったということです。最初の有機物でできている生きものたちが後先かんがえることなく有機物を体内に取り込んでいったせいで、食料不足が起こり、生きものたちはたくさん死んでいった。そんな中、豊富にある無機物からうまく有機物を作り出す生きものが生まれました。彼らは太陽からの光をエネルギー源として海水中の二酸化炭素と水からデンプンなどの炭水化物と呼ばれる有機物を作り出しました。たまその過程で酸素を排出しました。これが光合成です。

 光合成がはじまる前は、窒素と二酸化炭素の大気だったのが、窒素と酸素の大気に変わりました。

 でも酸素は生きものにとって猛毒でした。酸化です。生きものの近くに酸素があると細胞の中の有機物を酸化して分解してしまいます。

 その猛毒の酸素のなかで、「たまたま」、酸素の反応性の高さをうまく利用した生きものがうまれました。自分の持っている水素や炭素とうまく反応させて、ATP(アデノシン三リン酸)という分子を作り出したのです。ATPはエネルギーとして直接つかうことができるすぐれた分子です。この反応がいわゆる呼吸です。

 この「たまたま」がなければ酸化される世界のなかで生き残れなかったわけです。

 ということは、逆にいえば、生きる根源はその「たまたま」にあると見ていいと思います。

 生きる根源は、呼吸で作り出されるエネルギーです。

 呼吸でつくられたエネルギーで、酸化されるのをあえて先回りして壊し常に再構築を行うということです。常に流れを作ったのです。法は水が去ると書きます。水が流れているようにすべてが流れているのが法です。水をつかもうとしてもつかめません。つかんだものは、もう流れ去ってないからです。つかめていれば、酸化されてしまうからです。

、でも私たちは酸化されるのをあえて先回りして壊し常に再構築を行うだけのエネルギーを呼吸で作らなくてはならないということを忘れています。

 彼女にデートに遅れたというだけで、ねちねちと責められる機会があります。だんだん不愉快になってきて怒りがわいてきます。怒るというのは相手の言葉をつかんでしまっていることです。つかんでしまっては、酸化なのです。またなにかをつかんでいるときは浅い呼吸になっていると思います。

 このねちねちと責められたことに対して言葉に言葉で返しても、酸化に酸化をかえすようなもので、もっと酸化が重複されてしまいます。

 私はこの「たまたま」がなければ生き残れなかった「たまたま」を優先順位一番として、坐禅でエネルギーを充電して原点に戻りたいと思います。


 
 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。