ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

異端の歴史家

2007-06-12 10:37:07 | Weblog
 画は異説の大御所、八切止夫氏です。

 小生,初見でありますが、なか々面白いので、
  
 八切止夫「姓の方則」より
 
 みなさんは履歴書を書くときに、どうして「本籍」を書くのだろうと疑問に思ったことはありませんか? 現住所は履歴書に必要だが、本籍なんか書かなくても、採用には関係ない、とは思いませんか? ところが、絶対に書かされる。これはどうしてだろうか、

 出版社の小学館と集英社はオーナーが同じ大賀一族で、たしか小学館の子会社から集英社は大きくなって、肩を並べるまでになったはずである。小学館の関連会社、というか下請会社(編集プロダクション)には妙な習慣があって、会社名に小学館の頭文字から「し」「しょう」「小」または「S」をとってネーミングする。集英社もやはり「し」をもらっている。有名なところでは祥伝社も「しょう」をもらっている。
 例えば日立やトヨタといった大企業が関連会社に日立なんとか…と付けるのとは、ちょっと違う。親会社の名前の頭の「音」を頂戴した名前をつけるのは、要するに親会社に忠誠を誓うほどの意味がある。「仲間にしていただいています」あるいは「臣下の礼をとっています」という印がこれだ。

 この奇習はどこからきたか。
 サムライ社会でもこれはあった。山内一豊が土佐に入国すると、長宗我部の残党による「浦戸一揆」を鎮圧し、残党らを「郷士」として武士の一段低い身分にした。幕末になって、この郷士のなかから坂本龍馬や中岡慎太郎が出たわけだが、彼らの苗字が、坂本の“さ”、中岡の“な”というように、藩主山内家の “や”にあわせているのである。どこが? かといえば、家臣は「あかさたなはまやらわ」の50音横列に苗字を統一させられた。本来、坂本龍馬は「陰姓」といって、先祖から伝わる苗字「梅谷」だったが、「坂本」という「さ」を頭にもってくる苗字を名乗らされたのである。
 岡山の藩主「池田家」ならば、「い」の横列をとって、家臣はみんな「いきしちにひみいり」の音を頭にいただく苗字をつけた。
 明治以降、明治5年の壬申戸籍作成のときに、陰姓を持っている者はそれに戻すことが許されたのである。もし明治以後も龍馬が生きていたら、「梅谷龍馬」としたはずである。
 
 在日朝鮮人の場合も、「金田、金本、金井、金原…」という苗字を「かね」と読ませる場合は、在日だとわかるようになっている。だから「金原」を「きんばら」と読む人は日本人で、「かねはら」と読ませれば在日(帰化)とわかるのである。
 こういうことは、誰が始めたかはわからないが、大昔からあった。たぶん藤原政権が、日本にいる種族を分別すために始めたことだろうが、原住民同士でも姓で同じ種族かそうでないかをわかるようにしたと思われる。なにしろ日本列島は人種の吹きだまりで、太古から北方系、南方系、支那系、インド系、アラブ系、アイヌ系など雑多の人種が漂流ないし侵略できていた。同じアジア系なので、アメリカとちがって肌の色では区別がつきにくい。しかし種族が違えば戦争だから、狭い日本列島のなかで仲間かそうでないかの判別が重要になる。そこで、「あかさたな系」「いきしちに系」「うくすつぬ系」など苗字でわかるようにしたのだろう。

 この“法則”を発見したのが作家・八切止夫であった。「八切姓の方則」と呼ぶ。彼によれば、「あかさたな系」は古代海人族(南方系)、「いきしちに系」が韓国系、「うくすつぬ系」が支那系、「おこそとの系」は沿海州蒙古系となっているそうだ。「えけせてね」は、藤原氏が反抗する者どもを差別するためにつけたと八切止夫は書いていたと思うが、例えば「江戸、江藤、蝦夷、恵那、江田」といった苗字は、藤原政権の追及迫害を逃れた人が隠れた(追いつめられた)土地からきたのであり、「エの民」と呼ばれたようである。
 鎌倉の東慶寺は「縁切り寺」として有名である。北条政子が女性解放のために設けたもので、女がここに駆け込めば、大名だろうと手出しはできなくなる掟であった。江戸時代には上州(群馬)新田郡に設けられた満徳寺が縁切り寺だった。寺の山門には「あかさたな」「いきしちに」の額が掲げられていて、もし同列の者ならば駆け込んでも拒絶されたそうである。つまり例えば「伊藤」という姓の夫から、「木村」という苗字の女が逃げてきても、同じ「いきしちに」の列の者はダメとなるのだ。「安藤」という夫から、「上田」という女が逃れたいのなら、「あ列」と「う列」なので、離婚成立となる。

 これは同族は大事にする、争わないとする掟(同堂同火の禁)があったからだろう。だから渡世人は、他の組に行くと、「お控えなすって。手前生国と発しますは…」と名乗って、同族かどうかを確認しあったのだ。なぜ「生国」かといえば、この姓別が種族見分けるためであり、元は居住地を権力者によって限定されたからである。だから「手前は、上州なんとか別所の者で」と言うだけで種族がわかり、一宿一飯の恩義に預かれる次第となった。われわれがビジネスでやたら名刺を配る習慣も、もしかしたら、この伝統を受け継いでいるからかもしれない。また履歴書に、本来どうでもいいような「本籍」を書かされるのも、その名残ではないか。しかし今や本籍地は自由に変更できるので、お上のほうもこの区分けを重視しなくなった背景があるのであろう。これもまたGHQの指令か…。
 また今も「よそ者」という言い方が残る。これは権力者によって居住限定された庶民が、その居住地で同族か否かを判別し、警戒したからであろう。八切止夫が引用しているが、浪曲「佐渡情話」に「惚れちゃいけない他国の者に、末は烏の泣き別れ」とあるように、よそ者とは悲恋に終わるのである。

 ところで、われわれには苗字があるが、これはよほどの事情がないかぎり戸籍上絶対に変えられない。養子縁組や婚姻により相手の姓を名乗る以外に、好きに変更はさせてもらえない。そうお上が決めているからである。自分の苗字が嫌だから、もっと恰好良い苗字にしたいと願ってもダメである。これはどうしてなのか、といえば、まさにわが民草が強いられてきた、この50音横列の種族区別の歴史を踏襲しているからである。今はまずそんなことを気にする人はいないけれど…。
 戦前は内務省警保局には、苗字一覧表が地域別に揃っていたと、八切止夫は書いている。お上が統括の必要上、その苗字一覧が役立ったのだろう。今は、そんなことはみんな忘れて、自由に縁組みできるようになって、同族だのなんだと言わなくなったのはまことにめでたい。http://plaza.rakuten.co.jp/yamanoha/

さて、はて ?


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