画は合成にて「子連れ狼(萬屋錦之介版)第三部」です。
名優金田龍之介さんの怪演(?)阿部頼母を見ることができます。
◆毒薬の大家
阿部頼母(あべ たのも)は、『子連れ狼』に登場する人物で、代々公儀御口唇(くち)役を務める旗本阿部家当主。公儀御口唇役・阿部監物(けんもつ)の子。別名を怪異(かいい)という。御口唇役とは、将軍の食事の毒見役のことである。
◆一代の頼母役者・金田龍之介
子連れ狼の原作者(作画)・小島剛夕は、頼母の容姿を、当時、名悪役として知られた金田龍之介をモデルに描いたという。また、時代劇・子連れ狼 (萬屋錦之介版)の阿部頼母役に金田がキャスティングされると、そのことを知ってか知らずか、金田は非常な熱演(怪演)をして好評を博した。一説に、金田は阿部頼母を演じる為に抜歯をしたともいわれる。
さて、毒薬の話も三日目、
日本の毒薬と言えば「石見銀山」でしょう。
◆石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物(亜ヒ酸)を大量に含んでおり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。
この「石見銀山」ひょっとしたら日本史、さらに
世界史を変えたかもしれませんよ。
○近刊(七月下旬刊予定)
鹿島著
「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎(増補版)」
第三版、新国民出版社発行
復刻の話があるようですね。
太田龍の時事寸評 参照 http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi
この本大変な内容を含んでおり,真偽のほど、はかりかねますが、
◆孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である。
孝明天皇の死亡は、慶応2年12月25日(1867年1月30日)である。
公武合体派の孝明天皇の突然死により、岩倉具視、大久保利通らの王政復古派は勢いづき、
今日では偽文書とされる「倒幕の密勅」を、新天皇の名で薩摩・長州に対して発した。
以降、事態は朝廷側対幕府側との全面対決へと急展開してゆく。
孝明天皇の突然死については、早くから毒殺だと語られてきた。
しかしこれに関して、明治政府側から書かれた研究書や小説は一切触れることはない。
「毒殺説もある」と記してあるものは、むしろ良心的な部類である。
孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが
光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が
昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの
容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。
「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、
痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、
同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、
砒素(亜砒酸)だと断定している。
当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。
・・・・・・・・
たら、れば、なのですが
孝明帝がご健在ならばと考えてみましょう。すると、
明治維新は起こらなかった。
おそらく、坂本龍馬の説いた公武合体型の政体になり
上院に徳川氏をはじめとする諸侯を参集し、下院に
選挙で選ばれた議員を置く体制になるかとおもいますね。
孝明帝はあくまでも攘夷ですから、イギリスなどの関与
を拒否し続けるかと。
さすれば、大陸、半島とかかわることも無くなり、
日清戦争、日露戦争もおきず、もちろん半島の併合も無い。
したがって、大東亜戦争も無い。
世界史がガラリと変ってしまいます。
小生の毒薬話の〆といたします。
パンドラの箱をあけることになるんですよ。
名優金田龍之介さんの怪演(?)阿部頼母を見ることができます。
◆毒薬の大家
阿部頼母(あべ たのも)は、『子連れ狼』に登場する人物で、代々公儀御口唇(くち)役を務める旗本阿部家当主。公儀御口唇役・阿部監物(けんもつ)の子。別名を怪異(かいい)という。御口唇役とは、将軍の食事の毒見役のことである。
◆一代の頼母役者・金田龍之介
子連れ狼の原作者(作画)・小島剛夕は、頼母の容姿を、当時、名悪役として知られた金田龍之介をモデルに描いたという。また、時代劇・子連れ狼 (萬屋錦之介版)の阿部頼母役に金田がキャスティングされると、そのことを知ってか知らずか、金田は非常な熱演(怪演)をして好評を博した。一説に、金田は阿部頼母を演じる為に抜歯をしたともいわれる。
さて、毒薬の話も三日目、
日本の毒薬と言えば「石見銀山」でしょう。
◆石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物(亜ヒ酸)を大量に含んでおり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。
この「石見銀山」ひょっとしたら日本史、さらに
世界史を変えたかもしれませんよ。
○近刊(七月下旬刊予定)
鹿島著
「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎(増補版)」
第三版、新国民出版社発行
復刻の話があるようですね。
太田龍の時事寸評 参照 http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi
この本大変な内容を含んでおり,真偽のほど、はかりかねますが、
◆孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である。
孝明天皇の死亡は、慶応2年12月25日(1867年1月30日)である。
公武合体派の孝明天皇の突然死により、岩倉具視、大久保利通らの王政復古派は勢いづき、
今日では偽文書とされる「倒幕の密勅」を、新天皇の名で薩摩・長州に対して発した。
以降、事態は朝廷側対幕府側との全面対決へと急展開してゆく。
孝明天皇の突然死については、早くから毒殺だと語られてきた。
しかしこれに関して、明治政府側から書かれた研究書や小説は一切触れることはない。
「毒殺説もある」と記してあるものは、むしろ良心的な部類である。
孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが
光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が
昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの
容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。
「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、
痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、
同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、
砒素(亜砒酸)だと断定している。
当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。
・・・・・・・・
たら、れば、なのですが
孝明帝がご健在ならばと考えてみましょう。すると、
明治維新は起こらなかった。
おそらく、坂本龍馬の説いた公武合体型の政体になり
上院に徳川氏をはじめとする諸侯を参集し、下院に
選挙で選ばれた議員を置く体制になるかとおもいますね。
孝明帝はあくまでも攘夷ですから、イギリスなどの関与
を拒否し続けるかと。
さすれば、大陸、半島とかかわることも無くなり、
日清戦争、日露戦争もおきず、もちろん半島の併合も無い。
したがって、大東亜戦争も無い。
世界史がガラリと変ってしまいます。
小生の毒薬話の〆といたします。
パンドラの箱をあけることになるんですよ。
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