画は Leonard Tsuguharu Foujita
(藤田 嗣治 Fujita Tsuguharu,1886~1968) 作
「母子像」です。
☆さて、MLB 松坂やっと意地を見せた
といったところでしょうか。
岡島は酷使状態ですな。
金に汚いアメリカ人、
こいつらにとやかく言われたくないものです。
本日の道新の一面に藤田 嗣治画伯の幻の大作
「構図」「戦争」それぞれ二枚の修理が終わったとの記事あり。
縦横3mの大作のようですね。いずれ日本にも来るとのことです。
藤田画伯は浮世絵の伝統を受け継ぐ名人です。(江戸っ子)
面相筆による線描を生かした独自の技法、見事な腕前。
その藤田画伯の終焉の地フランス
◆高山正之の異見自在より
アジアの「日の丸」観 「迷信」打破の旗振り役
[1999年07月10日]
一九四〇年(昭和十五年)、パリが陥落し、ドイツ肝いりのビシー政権が誕生すると、日本はそのビシー政権に、北部仏印に軍を出したいと通告した。
日本は当時、重慶の蒋介石政府にてこずっていた。重慶を落とすにはその糧道、いわゆる援蒋ルートを叩き潰すのが最も効果的で、それにはこの仏印進駐が作戦上どうしても必要だった。幸いというか、その仏印を握るフランスに同盟国ドイツの息のかかった政権ができた。友だちの友だちはみな友だちである。当然、友好的に受け入れてくれるものと考えた。
しかし、当のビシー政権を含めた欧米はそんな単純な受け止め方はしなかった。日本の仏印進駐は「十五世紀、バスコ・ダ・ガマの到来で始まった白人によるアジア支配に初めて亀裂を入れる」(英歴史学者クリストファー・ソーン)ことになるからだ。
ビシー政権は英国に置かれたドゴール仏亡命政権に泣きつき、ドゴールは米国に助けを求めた。米国はフランスに特使を派遣し、相談のうえでドイツを通じて日本に再考を促すよう働きかけた。
アジアの植民地は欧米諸国の大きな財産だ。「だれにも侵させない」という暗黙の了解があって、たとえお互い戦争していてもその点では助け合っていたわけだ。
しかし日本はそういう思惑にはまったく鈍感で、通告通りさっさと仏印へ向かい、国境にある仏軍の要塞から激しい砲火を浴びることになる。
かくて日本軍との間で戦闘が始まる。最初のうちこそ数倍の兵力を持つ仏軍の勢いはよかったが、やがて突撃を繰り返す日本軍の前に戦意を失い、ドンダン要塞は数時間で陥落した。日本側十五人、仏側四十人が戦死した。
この攻防を一人のベトナム人が間近で見ていた。道案内をした反仏活動家、陳中立(チャン・チュンラップ)である。
彼の知る故郷は仏植民地政府の下で百年悲惨のどん底にあった。人々は高額の人頭税に泣き、そのために十歳の子供が炭坑でトロッコを押さねばならなかった。人頭税だけでなく葬式にも結婚式にも課税された。阿片も政府が売りつけ、国中に中毒患者があふれていた。「ニョクマムのビン法」というのもあった。ふたのない容器は非衛生的という口実で「仏製のビンを強制的に買わせて」(A・ビオリス著「インドシナSOS」)金を巻き上げていた。
人々は当然、反発するが、そうすれば植民地軍が徹底的に殺しまくり、首謀者はギロチンにかけ、生首を街中にさらした。
白人にはかなわない、というのが百年の歴史の教訓だった。その白人が今、自分たちと同じ肌の色の日本軍の前に逃げまどい、両手を挙げているのである。
陳はその場で同胞に決起を呼びかけた。あっという間に二千人が集まり、彼らはハノイの仏軍をやっつけに山を下りだした。
しかし、その数日間のうちに事情は変わっていた。ビシー政権は日本の進駐を認め、友好関係が樹立された。つまり日本軍は陳を支援できなくなっていた。「勝てる相手ではないと何度も忠告した。でも、白人には勝てないというのが迷信だと分かっただけでも大きな力になると笑って出ていった」とベトナム協会の西川捨三郎氏は当時を思いだしていう。
日仏の小競り合いと日本軍の勝利のニュースはすぐにタイにも伝わった。そして驚いたことに、英仏に領土を好き放題奪われてきた“おとなしい国”が突如、領土回復を図って仏印に攻め込んだのである。講和条約は東京で開かれ、タイは希望を一部かなえた。
オランダ領インドネシアにも同じ現象が起きた。この国の人々もまた百年、ご主人様の「ビンタにおびえながら働かされ、食事がきちんと与えられる刑務所の方がましとさえ考えていた」とR・カウスブルックは「西欧の植民地喪失と日本」の中で書いている。
その地で日本軍はあっという間にご主人様をやっつけてみせた。八万二千人の連合軍がこもるバンドン要塞はたった三千人の日本軍の前に降参した。人々は陳のいう「迷信」から覚めていった。
日本が敗れて消えたあと、戻ってきたオランダと人々は戦った。四年間戦って約八十万人が殺されながら、戦いを放棄しなかった。そして独立を得た。
◇
日の丸をめぐって「日本に侵略された東南アジアの国の人々はどう思うだろう」といった否定的論調が国会や新聞で目につく。
この文章には誤りがある。当時は「国々」などアジアにはなかった。あったのは欧米諸国の植民地だけで、侵略された主体はそういう宗主国になる。
おかげで彼らは植民地を失ったのだから日の丸にいい感じはもっていないのは当然だが、この論調はそういう意図ではない。
どうしても「現地の人々が日の丸をうらんでいる」風にしたいらしいが、歴史はむしろ「日本の侵略」で、人々が宗主国と戦う自信を得ていったようにみえる。
陳中立に聞きたいところだが、彼の軍隊はハノイを前にして仏軍に待ち伏せされ全滅している。しかし、迷信を捨てた人々はその遺志をつぎ、さらに四十年戦って独立を果たす。
☆西欧人には弱みをみせてはならぬということです。
彼ら勝つ見込みが薄くなれば存外ネバリがない。
自主防衛がいかに基本的なことで大切なことか。
日米安保は国家を国民を腐らせる体制です。
自国は自国民で守る、この気概を失ってはならんと思います。
(藤田 嗣治 Fujita Tsuguharu,1886~1968) 作
「母子像」です。
☆さて、MLB 松坂やっと意地を見せた
といったところでしょうか。
岡島は酷使状態ですな。
金に汚いアメリカ人、
こいつらにとやかく言われたくないものです。
本日の道新の一面に藤田 嗣治画伯の幻の大作
「構図」「戦争」それぞれ二枚の修理が終わったとの記事あり。
縦横3mの大作のようですね。いずれ日本にも来るとのことです。
藤田画伯は浮世絵の伝統を受け継ぐ名人です。(江戸っ子)
面相筆による線描を生かした独自の技法、見事な腕前。
その藤田画伯の終焉の地フランス
◆高山正之の異見自在より
アジアの「日の丸」観 「迷信」打破の旗振り役
[1999年07月10日]
一九四〇年(昭和十五年)、パリが陥落し、ドイツ肝いりのビシー政権が誕生すると、日本はそのビシー政権に、北部仏印に軍を出したいと通告した。
日本は当時、重慶の蒋介石政府にてこずっていた。重慶を落とすにはその糧道、いわゆる援蒋ルートを叩き潰すのが最も効果的で、それにはこの仏印進駐が作戦上どうしても必要だった。幸いというか、その仏印を握るフランスに同盟国ドイツの息のかかった政権ができた。友だちの友だちはみな友だちである。当然、友好的に受け入れてくれるものと考えた。
しかし、当のビシー政権を含めた欧米はそんな単純な受け止め方はしなかった。日本の仏印進駐は「十五世紀、バスコ・ダ・ガマの到来で始まった白人によるアジア支配に初めて亀裂を入れる」(英歴史学者クリストファー・ソーン)ことになるからだ。
ビシー政権は英国に置かれたドゴール仏亡命政権に泣きつき、ドゴールは米国に助けを求めた。米国はフランスに特使を派遣し、相談のうえでドイツを通じて日本に再考を促すよう働きかけた。
アジアの植民地は欧米諸国の大きな財産だ。「だれにも侵させない」という暗黙の了解があって、たとえお互い戦争していてもその点では助け合っていたわけだ。
しかし日本はそういう思惑にはまったく鈍感で、通告通りさっさと仏印へ向かい、国境にある仏軍の要塞から激しい砲火を浴びることになる。
かくて日本軍との間で戦闘が始まる。最初のうちこそ数倍の兵力を持つ仏軍の勢いはよかったが、やがて突撃を繰り返す日本軍の前に戦意を失い、ドンダン要塞は数時間で陥落した。日本側十五人、仏側四十人が戦死した。
この攻防を一人のベトナム人が間近で見ていた。道案内をした反仏活動家、陳中立(チャン・チュンラップ)である。
彼の知る故郷は仏植民地政府の下で百年悲惨のどん底にあった。人々は高額の人頭税に泣き、そのために十歳の子供が炭坑でトロッコを押さねばならなかった。人頭税だけでなく葬式にも結婚式にも課税された。阿片も政府が売りつけ、国中に中毒患者があふれていた。「ニョクマムのビン法」というのもあった。ふたのない容器は非衛生的という口実で「仏製のビンを強制的に買わせて」(A・ビオリス著「インドシナSOS」)金を巻き上げていた。
人々は当然、反発するが、そうすれば植民地軍が徹底的に殺しまくり、首謀者はギロチンにかけ、生首を街中にさらした。
白人にはかなわない、というのが百年の歴史の教訓だった。その白人が今、自分たちと同じ肌の色の日本軍の前に逃げまどい、両手を挙げているのである。
陳はその場で同胞に決起を呼びかけた。あっという間に二千人が集まり、彼らはハノイの仏軍をやっつけに山を下りだした。
しかし、その数日間のうちに事情は変わっていた。ビシー政権は日本の進駐を認め、友好関係が樹立された。つまり日本軍は陳を支援できなくなっていた。「勝てる相手ではないと何度も忠告した。でも、白人には勝てないというのが迷信だと分かっただけでも大きな力になると笑って出ていった」とベトナム協会の西川捨三郎氏は当時を思いだしていう。
日仏の小競り合いと日本軍の勝利のニュースはすぐにタイにも伝わった。そして驚いたことに、英仏に領土を好き放題奪われてきた“おとなしい国”が突如、領土回復を図って仏印に攻め込んだのである。講和条約は東京で開かれ、タイは希望を一部かなえた。
オランダ領インドネシアにも同じ現象が起きた。この国の人々もまた百年、ご主人様の「ビンタにおびえながら働かされ、食事がきちんと与えられる刑務所の方がましとさえ考えていた」とR・カウスブルックは「西欧の植民地喪失と日本」の中で書いている。
その地で日本軍はあっという間にご主人様をやっつけてみせた。八万二千人の連合軍がこもるバンドン要塞はたった三千人の日本軍の前に降参した。人々は陳のいう「迷信」から覚めていった。
日本が敗れて消えたあと、戻ってきたオランダと人々は戦った。四年間戦って約八十万人が殺されながら、戦いを放棄しなかった。そして独立を得た。
◇
日の丸をめぐって「日本に侵略された東南アジアの国の人々はどう思うだろう」といった否定的論調が国会や新聞で目につく。
この文章には誤りがある。当時は「国々」などアジアにはなかった。あったのは欧米諸国の植民地だけで、侵略された主体はそういう宗主国になる。
おかげで彼らは植民地を失ったのだから日の丸にいい感じはもっていないのは当然だが、この論調はそういう意図ではない。
どうしても「現地の人々が日の丸をうらんでいる」風にしたいらしいが、歴史はむしろ「日本の侵略」で、人々が宗主国と戦う自信を得ていったようにみえる。
陳中立に聞きたいところだが、彼の軍隊はハノイを前にして仏軍に待ち伏せされ全滅している。しかし、迷信を捨てた人々はその遺志をつぎ、さらに四十年戦って独立を果たす。
☆西欧人には弱みをみせてはならぬということです。
彼ら勝つ見込みが薄くなれば存外ネバリがない。
自主防衛がいかに基本的なことで大切なことか。
日米安保は国家を国民を腐らせる体制です。
自国は自国民で守る、この気概を失ってはならんと思います。
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