伊東静雄(1906-1953)を読んでいる。堺の住人で司馬遼より先に菜の花忌として慕われた、昭和初期の詩人である。弊衣破帽の住吉中学校教諭時代は、学生からコジキとあだ名されるくらい蓬髪だった。初期の作品は難解、『わがひとに与ふる哀歌』も背景の時代性や経済性、健康問題も絡んでいて、一読では理解しがたい。少年期の三島由紀夫は彼を絶賛し日参したらしいが、伊東の方は当時の三島のことを「俗物だ」と一蹴していたらしい。
「ああ島が見える/そこからひばりが立ってゐる/雲雀が立つのは畠のある証拠だ/はたけのある所には人が住む /人の住む所には恋があるんだ 」 という詩には「そこには又必ず悲劇がある 」という末詞が必要だと伊東はいう。
感性が鈍ってきたおじさんは、若いなあ、いいなあと思う。後期はセガンティーニの風景画のような作品も残している。非常にわかりやすいものもある。戦前戦中戦後の日記も興味深い。病に倒れてからも家族を思い、当時の日々の暮らしぶりが巧まずに伝わってくる。
堺東駅の東側、反正陵の近くに住んでいたらしい。今度散歩してみようと思う。
「ああ島が見える/そこからひばりが立ってゐる/雲雀が立つのは畠のある証拠だ/はたけのある所には人が住む /人の住む所には恋があるんだ 」 という詩には「そこには又必ず悲劇がある 」という末詞が必要だと伊東はいう。
感性が鈍ってきたおじさんは、若いなあ、いいなあと思う。後期はセガンティーニの風景画のような作品も残している。非常にわかりやすいものもある。戦前戦中戦後の日記も興味深い。病に倒れてからも家族を思い、当時の日々の暮らしぶりが巧まずに伝わってくる。
堺東駅の東側、反正陵の近くに住んでいたらしい。今度散歩してみようと思う。
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