ぼちぼちやりま!

悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。
事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。
焦らず慌てず、静かに時の来るのを待つ。

琵琶湖周航の歌

2009-11-30 21:25:00 | 旅行
竹生島に琵琶湖周航歌の歌碑がありました。

    作詞 小口 太郎
    原曲 吉田 千秋

われは湖の子さすらいの 旅にしあればしみじみと
のぼる狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば

松は緑に砂白き 雄松が里の乙女子は
赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや

浪のまにまに漂えば 赤い泊火なつかしみ
行方定めぬ浪枕 今日は今津か長浜か

瑠璃の花園珊瑚の宮 古い伝えの竹生島
仏の御手にいだかれて ねむれ乙女子やすらけく

矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと
古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと

西国十番長命寺 汚れ(けがれ)の現世(うつしよ)遠く去りて
黄金の波にいざ漕がん 語れ我が友熱き心


よく調べもせずして、勝手な感想なんですが、なんか、この歌詞には事件性を感じるのですよね。乙女子が仏の御手に抱かれてやすらけくと願うのは何故か、何があったのか? サンゴが琵琶湖にあるのか? 瑠璃石が琵琶湖周辺でとれるの? 長命寺は西国31番札所では? などなど。
しかし、どうしてなのでしょうか、この唄を聞くたびに、けだるいノスタルジィの世界に浸ってしまうのは!?

エコ、安全・安心、道の駅

2009-11-26 15:23:54 | 日記
「エコ」「安全・安心」「道の駅」なんて書くと、ひょっとして流行語大賞かと思われるほどのはやり言葉だけど、生憎これらの言葉に一抹の胡散臭さを感じている。可憐な果実のような純粋さが感じられないのだ。

   ***

「エコカー」に「エコ家電」なんてものは、大企業の儲け主義に力を貸す旧政府の単細胞的陰謀しか感じられないけど、群がる大衆も格差の波になんとかすがっている働き蜂かエセブルジョアに見えてくる。マスコミ含めてまるで「エコメタボ症候群」に罹っているよう。なんで彼らプチブルに、庶民の血税をつかわなあかんのか。こんな施策は単なる先物買い、エコ特典が終了したときの大不況の責任をだれがとるのか。

そもそも今はやりの「エコ」というカタカナを政治的に用いる時、何かを隠そうとする人為操作を感じるし、ややもすると詭弁にしか聞こえない。濁点を加えれば「エゴ」、1を足せば「エロ」。エコロジィかエコノミィか判別しがたい使い方。こんな2文字よりも「もったいない」「ばちがあたる」という伝統的日本語のほうが、はるかに的確に正直に事実・実態を日本人の心に訴えるに。

   ***

「安全・安心」なんて言葉も、発する本人すら言葉の罠に陥ってしまいそうな、いい加減な言葉である。言葉が軽すぎるのだ。本当のプロなら安易にそんな言葉は使えない。
「安全・安心」の対する相手は、人が作った法律ではなくて、とてつもない自然現象なのだ。ところが、どれだけその自然現象が理解しえたというのか。近代科学はタカダカ100年の知見でしかない浅学分野、だからこそ言葉を発する者はもっと謙虚にならなければいけない。医学しかり、工学しかり、理学しかり。これまでこんな言葉を不用意に使ってどれだけ痛い目にあってきたことか。

   ***

「道の駅」もなんだかアヤシイ。立地のいい場所に、大きな駐車場を持ち、観光バスも止まるきれいな無料トイレ。その成り立ちから建設工事に至る地権者や道路族を巡っての黒い噂は置いておくとしても、今や地域の商店街やスーパーを超える巨大八百屋兼土産物屋兼雑貨屋兼小売店兼食堂兼・・・にまでならんとしている。関西の道の駅で青森産のリンゴや中国産のおもちゃを置いていても全く平気なのだ。
当初は「有機野菜」とか「完全無農薬」なんて言葉を売り物にして、スーパーに並ばない曲がったキューリや不揃いな野菜を細々と売っていただけのように思うのだが。どうも最近は農薬たっぷりの大手資本が混ざってるような気もしたりして・・・。
明らかな流通・商業形態の変化に危うさと不気味さと、それでもちょっとの期待を感じるのはオイラだけ?・・・巨大企業「ノーキョー」がどう関わってるのか知らないが・・・

岸和田市音楽団 第34回定期演奏会

2009-11-23 10:56:52 | 日記
11/22 岸和田市音楽団定期演奏会に行ってきた。
時間の都合で第2部の中程で席を立つことになった。

振りかえれば立ち見席で一杯だったので、
交替してあげれたとすれば、途中退場も失礼にはならなかったか。

吹奏楽は華があっていい。
楽しい。ナマはいい。心の洗濯になる。
ミス・サイゴンやナスカが聴けなかったのが残念。

だけど十分楽しめました。次回も期待しています。

秋の観心寺・金剛寺

2009-11-23 10:13:17 | 旅行
日本は四季ではなく二季であるという人がいる。寒い冬と暑い夏には季節の分水嶺たる極地点があり、春や秋はその極地への単なる移行時期だというのである。
例えて言えば、季節が振り子のように右に左に揺れ、振幅が最大になる時が冬や夏であり、振り子が下に来るころが春か秋なのだということか。力学的に見れば、冬や夏の振幅最大点は振り子の速度はゼロ、春や秋のあたりは速度が最大になっている。これゆえあっという間に春秋は過ぎていき、冬と夏はその極地をゆっくり体感できるという証明にはなる。

一方、普通の日本人の通常の感覚でいえば、四季とは円運動のようなもので、12時が冬とすれば6時が夏、3時が春で9時が秋。春・秋は通過点ではなく確固たる地点を有しているのだ。しかし流れる如くに移ろいやすいのは春と秋。世がせわしなくなるほど、今日へのゆとりがなくなるほど、四季観から二季観の人が増えていくのかもしれない。

   ***

少しはアクセクしない生活が送れるようにはなったけど、
それでも旬の秋を観に行きたくて、
新聞欄で【みごろ】とあった観心寺と金剛寺に出かけた。

早朝の雨は底冷えを予感させるものだったが、
午後からは小春日和となり、
季節感は、振り子説よりも円運動説を支持したくなるような、
ゆら~りとした一日だった。

小さな秋を、小さな幸せを見つけることができた一日だった。


   天空に 紅葉が舞って 秋を知る (YASU)

ぬれ落ち葉 焚火だ祭りだ 舞いあがれ (YASU)

白い人参

2009-11-21 11:09:14 | グルメ
混み合った人参の間引きをしていたら、白い人参が出てきました。
結構珍しいものらしく、埋めなおしてタネを採って栽培すれば売れるかも、と思ったのですが漬物にしてしまいました。味はあま~い人参でした。

ところで、昔々、牛蒡と人参と大根は同じ色だったんですって。
ネットで見ていたら山形弁での御話が載っていたので無断転写します。

***

牛蒡と人参と大根で、ある日、旅さ行ったんど。
んで、あるどごさ泊まって、
宿の爺さんが、「風呂さ入っておくやい」っていうもんだがら、
お前入って来い、そなた入って来いて、「まず、人参、先入って来い」

「ほだが」なて、人参、先一番に行ったけずも。
ほうして、風呂さ行って、なかなか熱いげんど、
水、どっから汲んで埋めるもんだが水さっぱり見当だんねし、
大きい音立てて聞いてるのもと思って、
人参は熱いのを我慢して、じゃぶっと入ってはぁ、
わらわら上がって来た。

「いやいやええ湯だった、まず。次は牛蒡入って来い、まず」
牛蒡、「ほだが、おれ先入ってくんべ。大根、おれ先に入ってくんぞはぁ」
ほして牛蒡は風呂場さ行って、風呂さ入ったど思ったらば、
いや、熱くて入らんにぇ。
「いや、人参、入んねで、ちとあちこち拭いできて、
赤くなってきたんだな、こりゃ」

ほうして、牛蒡、入りもしねで、そのまま帰って来て、
「いや、ええお湯だった、ええお湯だった。大根入って来い」
「ほだが、ほんじゃ、おれ最後に入れでもらうがはぁ」
なて大根入りに行った。

ほうして行ったらば、煮立つみでに熱いお湯だったもんだがら、
「ははぁ、こりゃ、人参も牛蒡も入ったふりして、
さっぱり入んねがったな。はて、風呂釜近くだもの、
探せば水あんべした」
て、ちょうど戸開けて見だれば、ちっちゃこい川流っでだ。
そっから水汲んできて、
ええ塩梅に埋めで、ゆっくり大根は入って、頭のてっぺんから足の先まで、
きれいに洗ってきたけど。

ほだから、人参は熱いお湯さちょこっと入ったばりで赤ぐなって、
牛蒡は、入ったふりして入んねで、
大根はゆっくり入ったばきれいになったんど。
最初は牛蒡ど同じような色であったげんど、人参も大根も、
それがらそういう風に色が変わってきたんだど。
どーびんと。