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リタイアーのよもやま話

多すぎて選べない

2011-04-03 23:10:23 | 社会

文藝春秋スペシャル 季刊春号(2011)

これからの常識ー老後の真実

という本に、面白い話があった。

以下、その話である。

 

多すぎて選べない

友野典男(明治大学教授・行動経済学)

 

地下鉄のような名前のハンドイッチ屋が苦手である。

具材を決めパン決め、野菜を選び、ドレッシングまで自分
で選択しなければならない。

お任せしますと言ってみたくなる。

某コーヒーチェーン店にはコーヒー以外にもカップの
大きさやミルクの種類も選べて、何と8万7千通りの
注文の仕方があるそうだし、某大手製菓会社のホーム
ページには、3百65日毎日違うチョコレートが食べら
れると書いてある。

楽天市場には2千万種以上、大手デパートには60万種、
コンビニには3千種の商品が並んでいる。

こんなに選択肢がたくさんあると、自由で自律的で豊かで
快適な生活が送れそうだが、そううまくはいかない。

アメリカの心理学者シーナ・アイエンガーの実験が面白い。

スーパーで、六種類のジャムと24種類のジャムを
テーブルに並べて買い物客に試食してもらった。

陳列テーブルのある通路を通りかかった人のうち40%が
6種類のジャムのテーブルを、60%が24種類のジャム
のテーブルを訪れた。

最初はジャムの種類が多い方が魅力的なのである。

しかし6種類ジャムを見た客のうち実際に購入した30%で
あったが、24種類のジャムを見た客のうち購入したのは
たっ3%に過ぎなかった。

同様に選択肢が多すぎると選べないという証拠は数多い。

どうやら人は、選択肢が多すぎると選択できないようである。

選択肢が多いと全てを吟味して選ぶことが難しいから、
「間違ったものを選んでしまったのではないか」とか
「もっと良いものがあったに違いない」などという
後悔や失敗の気持に悩まされることになるし、選択に
時間がかかるとロスをしたというストレスを感じる
からだ。

このように選択肢が多すぎると満足が小さくなることを、
アメリカの心理学者バリー・シュワルツは「選択のパラド
ックス」と呼んだ。

「選択肢は多い方が良い」と思っていた私の目から大きな
ウロコが落ちた。

溢れるほどの物があって自由に選べる豊かな社会に
あれほどあこがれ、それが現実になったというのに、
なんと皮肉なことだろうか。

過剰な情報や過剰な選択肢に悩まされるようになった
のは、わずかここ数十年ぐらいのことであり、選択
肢が多いことを夢見ていた頃には想像もできなかった
事態である。

しかしすでに当時それを見抜いていた慧眼の持ち主も
いた。

アルビン・トフラーは1970年の著書『未来の衝撃』
において、「将来の人間が選択の欠如によって苦しむより
は、むしろその過剰なためにどうにもならなくなる可能性
のほうが大きい」と予言している。

選択とは、単に生活上必要なものを選ぶことではなく、
自己表現の一種であると言われる。

「あなたは、あなたが選んだものでできている」(日産の
テレビ・コマーシャル)という表現が端的に表わしている。

これも最近の現象であろう。

では誰に対して自分を表現しているのだろうか。

意識しているのはもちろん他者の目である。

自分の欲しいものを自分で選択するという個人的営みの中
にも他者が存在するのだ。

「本当に欲しいモノを考えて買いなさい」というアドバイス
をよく耳にする。

本当に欲しいモノなんてあるのだろうか?

本当に欲しいのは、他者からの承認、賞賛、愛なのではない
のか。

それらを直接買うことはできないから、モノを持つことで
間接的にそれらを得ようとするのであろう。

モノで優越感を感じたり、仲間はずれを避けたり、恥をかき
たくないからなのかいずれにせよ他者の目を気にする。

さらに言えば、自分がなくなる。

経済が発展して社会が豊かになると、個人主義が進み、自立が
求められ、他者との関係は稀薄化する。一方、商品の数はます
ます多くなり、選べない。

選ぶためには、人がどんな評価をしているのか、流行っている
のか、どう見えるか、社会で自分がどんな位置にいるのかを
確認しなければならない。

つまり選択はますます他者を必要とするようになる。

自己啓発本が次々出版され、占いが流行り、新興宗教が
はびこる。

自分で決定も評価もできないから、何をどう選択するのかの
決定を他者に委ねるようになる。

経済学では、市場は人々の欲求充足のためのシステムである
と考えられている。

しかし、同時に市場は欲求を作り出すシステムでもある。

新製品を売り、流行を作り出し、CMや広告を多量に流す。

そこに含まれるのは、今持っている物はもう世間から遅れて
います、早く次の物を買わないと笑われますよ、ダメ人間と
言っているようなものですよという暗黙のメッセージであり、
所有物への不満をあおり、新製品を買わせる。

さらに不健康だ不衛生だ不吉だ美的でない知的でない損をする
と言って人を不安に陥れ、新たな欲望をかき立てる。

物への欲望を捨てましょうというありがたい忠告も、物に
こだわる自分は時代遅れなのか、ダメ人間なのかと不安に
させ、指南書をも売りものにする。

人の欲求を満足させるどころか、不満と不安を作り出し、
欲望を煽って物を買わせ、さらに選択できないほどの商品を
溢れさせて、賢一い選択方法までも売ろうとするのが現代
の市場の姿だ。

選択のパラドックスを超えて、市場経済のパラドックスと
言ってよいだろう。

「モノを持つのが幸せの近道」というウロコが、私を含む
多くの人の目から落ちて欲しい。


以上。

 


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〈共有〉からビジネスを
生み出す新戦略

レイチェル・ボッツマン
ルー・ロジャース

小林引人=監修・解説
関美和=訳

NHK出版

を読んだ時、日頃、私自身の苛立ちの解を得たようで、
びっくりしたが、

今回の話は、あまりにも、見事な洞察で、やはり、専門家
の存在は有り難いものだ。

と感じ入ることになった。

答えは、求めていれば、いつかは授かるものだ。

ところがである。

アルビン・トフラーは1970年の著書『未来の衝撃』
において、「将来の人間が選択の欠如によって苦しむより
は、むしろその過剰なためにどうにもならなくなる可能性
のほうが大きい」と予言している。

という記述があった。

この話は、驚きであった。

この本は、若い頃、読んでいたのだが、この部分についての
記憶については、まったくないのである。

わたしの苛立ちが、何十年もの昔に予言されていたなんてね。

信じられない話である。

 

友野氏は、かく語っている。


本当に欲しいモノなんてあるのだろうか?

本当に欲しいのは、他者からの承認、賞賛、愛なのではない
のか。

それらを直接買うことはできないから、モノを持つことで
間接的にそれらを得ようとするのであろう。

モノで優越感を感じたり、仲間はずれを避けたり、恥をかき
たくないからなのかいずれにせよ他者の目を気にする。

さらに言えば、自分がなくなる。

経済が発展して社会が豊かになると、個人主義が進み、自立が
求められ、他者との関係は稀薄化する。一方、商品の数はます
ます多くなり、選べない。

選ぶためには、人がどんな評価をしているのか、流行っている
のか、どう見えるか、社会で自分がどんな位置にいるのかを
確認しなければならない。

つまり選択はますます他者を必要とするようになる。

自己啓発本が次々出版され、占いが流行り、新興宗教が
はびこる。

自分で決定も評価もできないから、何をどう選択するのかの
決定を他者に委ねるようになる。

以上。

わたしたちは、多くの富みを手にいれることができる社会を
享受している。

そして、よりわたしがわたしらしくなれるよう気がした。

が、豊かさを、手に入れたように見えながら、実は、わたし
たちは、自己疎外を強いられるというパラドックに陥って
しまった。

いつも、他者の存在に、自己が埋没していく。己とはと、
問いただせば問いただすほど、己はどこかに行ってしまう。

探せば、探すほど、いよいよ私の目の前から、ますます
逃げていってしまう。

なんという皮肉だろう。

こんな豊かな社会にあって、まるで、荒野に放りだされた
ようだ。


又、友野氏は、かくも語っている。


しかし、同時に市場は欲求を作り出すシステムでもある。

新製品を売り、流行を作り出し、CMや広告を多量に流す。

そこに含まれるのは、今持っている物はもう世間から遅れて
います、早く次の物を買わないと笑われますよ、ダメ人間と
言っているようなものですよという暗黙のメッセージであり、
所有物への不満をあおり、新製品を買わせる。

さらに不健康だ不衛生だ不吉だ美的でない知的でない損をする
と言って人を不安に陥れ、新たな欲望をかき立てる。

物への欲望を捨てましょうというありがたい忠告も、物に
こだわる自分は時代遅れなのか、ダメ人間なのかと不安に
させ、指南書をも売りものにする。

人の欲求を満足させるどころか、不満と不安を作り出し、
欲望を煽って物を買わせ、さらに選択できないほどの商品を
溢れさせて、賢一い選択方法までも売ろうとするのが現代
の市場の姿だ。

以上。


このような現実を見据えると、なんとも私たちは、「なぶりもの」
にされているようだ。

これでは、次から次へと、ドロップアウトする者が出たとして
しても、不思議なことではない。

 

しかし、こんなに選択肢が、増えたのは、ある意味で個人主義
が発展し、他者との差異性に囚われ、自分の個性やオリジナル
性に拘る文化が醸成された結果でもある。

ところが、これが、自己のアイデンティティーを揺るがしている
というのは、なんともいいようもない皮肉である。

あまりにも増えすぎた膨大な選択肢にあっては、比較のしようも
なく、個々の選択肢の優位性そのものも喪失してしまっている。

増えすぎた選択肢に、私たちそのものが、疎外されてしまった。

自己を追求した結果が、自己疎外に繋がり、自己の追求ができ
なくなる。というなんともいいようもない皮肉であり、パラ
ドックスでもある。

彼は言っている。

「モノを持つのが幸せの近道」というウロコが、私を含む
多くの人の目から落ちて欲しい。

以上。

この動きそのものに、ストップをかけることは、可能だろう
か。

どうだろう。

この動きを止めることは、経済の動きに停滞を強いること
になるのではないだろうか。

「すべての経済はバブルに通じる」というのが、あったが、
わたしは、文明そのものもマクロ的にみれば、バブルではない
かと思っているが、どうだろう。

己の欲望を果てしなく肥大化させられ、 疲れ切っても尚、
「快楽の踏み車」に乗って、死に至るまで走り続ける時代。

死に至るランニングハイ状態のこの時代。

いつ、どこで、どのように、リセットされるのだろう。

 


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