とある本にあった内容である。
贅沢について、わりとまとまった文章だったので、
興味深いものを感じた。
真の贅沢に慣れておく
誰にでも「贅沢したい」という気持ちがある。
この気持ちを大切にしたい。
年を重ねるにつれて、年齢相応の贅沢を身につけて
いくことは、その人の評価や信頼につながる。
とかく日本人は、贅沢を「いけないこと」のように
扱うが、贅沢も必要なときがあるのだ。
贅沢とは、モノでも人間関係でも、あるいは行動
においても、「分を超える」ことを意味する。
それがなければ進歩もない。喜びもない。贅沢願望
こそが、人を成長させる原動力ともいえるのだ。
ただ、近頃は本当の贅沢の意味がわからずに、他
人との比較で「贅沢ごっこ」をしているようなとこ
ろがある。贅沢の尺度をすぐお金に換算するのは、
あまりよい趣味とはいえない。だが現実に、そうい
う人は少なくない。
「贅沢とは、居心地がよくなることです。そうで
なければ贅沢とはいえません」
これは、フランスのデザイナー、ココーシャネル
の言葉だ。
ただ、ココ・シャネルはこうもいっている。
「贅沢は貧しさの反対語と考えている人もいるけ
ど、それは間違い。下品さの逆です」
下品さの逆なら、上品ということだ。贅沢願望は
「上品でありたい」ということにほかならない。
上品と下品を並べて、「下品でありたい」と思う人は
いない。
身の丈に合った贅沢願望は、いくつになっても持ち
続けていたい。
とくに年を重ねたら、「上品」を身にまといたいもの
だ。
以上。
「真の贅沢に慣れておく」というテーマの文章である。
残念ながら、この提案を真に受けることができる人と
いうのは、わたしの周囲には、わたしも含めて見当た
らない。
年金収入でも、所得が400万?以上ないと、できない
のでは。もちろん、この金額には根拠はなく、正確で
はない。ただ思いついただけだ。
著者が、どの程度の経済的なランクにいる人を念頭に
この本を書いたのかは知らない。そこが残念だ。
この主張を鵜呑みにするには、かなりの経済力が必要
ではなんて、思っている。
ところで、
贅沢と浪費や見栄とどう違うか、そこのところを考え
ることは、そうあるものではない。
しかし、「贅沢」が下品の反対であるなら、「贅沢」の
中身は、「上品」ということになり、そこのところで、
贅沢と浪費や見栄とを区別することが可能かもしれな
い。
とはいうものの、贅沢でも、品がないこともあるから
やっかいだが。
つまり、真の「贅沢」であるということが、肝要なの
だろう。もしかすると、「粋」というのもその贅沢の
一つか?
著者は、
年を重ねるにつれて、年齢相応の贅沢を身につけて
いくことは、その人の評価や信頼につながる。と言っ
ていたり、この本の別の箇所では、年をとるほど服装
には気を配れ、年とったら、そこそこにみっともない
服装を心がけること。と激している~。のだが、
しかし、現実問題として、
時にして、そのような心がけが、見え見えであるのは、
見ている者として、痛い気分になる。
もしかしたら、贅沢というのは、物質的な以前に、精
神的な贅沢性・貴族性・高貴性が先行していなくては、
厭味になったり、痛いものになったりするかもしれな
い。
贅沢が似合うになりうるには、これも教養が一朝一夕
で身につかないように、付け焼き刃ではできないので
はなかろうか。
閑話休題
贅沢について、書かれた文章があったので、それを
紹介してみたい。
以下、その抜粋である。
それから、遊びであっても分不相応なお金を使っ
てはいけない。きれいに使うためにも、自分の身の
丈を知っておくことだ。
身の丈に合うというのは、一見、「地味のすすめ」の
ようだが、そうではない。お金のある人間は、ある
ように使うのが身の丈に合った使い方だ。
漫画家の赤塚不二夫さんは、それができた人だ。
人気漫画家で収入も多かったころ、連日タモリさん
を連れて遊び歩き、散財しただけでなく、住んでい
た高級マンションを彼に明け渡して、自分は木造二
階建てのアパートに寝泊まりして仕事をしていた。
理由を尋ねられると、「タモリのあのすごい才能
を生かすには、ぜいたくを知らなきやダメだ」と答
えた。
その後、順調に売れ出しタモリさんは、逆に赤塚
さんが落ち目になると、みずから設立した会社の顧
問になることを要請し、毎月30万円ずつ律儀に振
り込んだという。
それだけでなく、赤塚さん所有のベンツやキャン
ピングカーを買い取って、赤塚さんのプライドを傷
つけないかたちで支援した。だが、赤塚さんのほう
は、タモさんが振り込んだお金には一銭も手をつけ
ていなかった。それを知った人が理由を尋ねると、
赤塚さんはこう言ったという。
「芸人なんて二年で飽きられる。そのときはこの
金でタモリを食わせてやるんだ」
こんなふうに書くと感動話に聞こえるだろうが、
彼らのあいだでは、これらのすべてがギャグ(遊び)
のうちなのである。
以上。
桁外れな世界の話しで、凡人の世界の話しではない。
贅沢には、こういう側面もあるのか?である。
ところで、
少し前のヤフーの記事に、
「今年の地球資源は使い尽くした」、環境NPO
【8月21日 AFP=時事】国際環境NPO、グロー
バル・フットプリント・ネットワーク(Global
Footprint Network、GFN)は20日、地球が1年
間で再生できる自然資源を人間が使い尽くした
日を意味する「アース・オーバーシュート・デー
(Earth Overshoot Day)」を同日記録したと発
表した。その責任は中国、米国、カタールが負う
ところが大きいという。
というのがあった。
「贅沢」という美意識は、風前の灯火のような気も
する。
贅沢や豊饒から文化は生まれるが、吝嗇から
文化は生まれない。
ということを言う人もいたが。
人類は、後退するのか、新たなる中世に入るのか。
どうなるんだろう。