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リタイアーのよもやま話

才能

2015-11-19 23:23:43 | 読書

 

先日は、才能について次の

ようなことをブログに書い
た。

藤原: オリンピックのメ
ダリストになるのには、100
万人に1人くらいの確率で
す。

ファーストリテイリングの
柳井正さんや、ソフトバン
クの孫正義さんのような天
才レベルを目指したければ、
挑戦してみてもいいでしょ
う。ただ、お2人には1000
万人に1人……いや、1億
人に1人くらいの希少性が
ある。

以上。

斎藤一人氏は、才能につい
てこう語っている。

○1000人に1人、
1万人に1人

あのね、〝すごいいい女〟
って、1000人に1人ぐ
らい、いるんですよ。

学校のなかには、〝すごい
いい男〟も1000人に1
人ぐらいいて、すごい足の
速い子も、すごい歌のうま
い子も、1000人に1人
ぐらい、いるんですけれど。

それと同じように、1000
人に1人ぐらい、英語の文法
を覚えるのが得意な生徒がい
るのです。英文法達人がいま
す。

それで、〝すごいいい女〟は
1000人に1人なんだけれ
ど、〝うんとすごい、いい女〟
になってくると1万人に1人
ぐらいになる。

それと同じように、英文法の
達人は1000人に1人だけ
ど、天才級になってくると1
万人に1人です。

 

ところで、才能について、
松本人志や北野武が興味深い
ことを言っている。

松本人志氏が、とある本で言っ
たことである。

 僕はただ笑いの才能がある
から、お笑いをやっているの
ではない。

 まず才能があり、そして、
好きだから、お笑いを追求し
ているのだ。

 笑いの才能があるかないか
というのは、一瞬でわかる。

 それは紳助さんが僕を見た
ときに、すぐにわかったよう
に、僕たちは笑いの才能は
見ればすぐにわかるのだ。

 ただし、才能があるってこ
とと、好きっていうのが、一
致しないと、ちょっとつらい
ことになる。

 たとえば、野球の上手い人
は、野球が好きだと思う。

 それが自分の才能をいちば
ん発揮できる場所だから、好
きなのは当然だろう。

 同じように、僕には笑いの
才能があって、これこそが自
分の才能を発揮できるところ
だから、笑いが好きなのだけ
れど。

 でも、それ以上に、それと
はまた違う部分で、やっぱり
笑いが好きなのだ。

 いってる意味、わかります?

 好きなら才能はあるか。

 それは絶対に違う。好きで
も、才能のない人間はいる。

 さっきも書いたけれど、才
能がなかったらそれは辞めな
いといけない。

 好きならやっていいのか、
好きだったらやる権利はある
のか。

 僕はそんな権利はないと思
う。

 才能がなかったら、辞めな
いと迷惑だ。

 一所懸命やってる奴にも迷
惑だし、見てる側にも迷惑だ。

 才能がないにもかかわらず、
やろうとするのはワガママと
いうか、その人のエゴだと思
う。それは、自分の才能を信
じるということとは違う。

 昔、こいつ才能ないなあと
いう後輩がいて、いったこと
がある。

 「辞めろ。辞めた方がええ
よ、絶対に無理やから」っ
て。

 「いや、好きなんですよ」 

ってその男はいっていたけれ
ど。

 好きならやっていいのか。

 それは違うだろう。


以上。


ところで、北野武氏は、才能に
ついてこう言っている。

 俺ひとりを作るために
何万人死んだと思ってんだ

 俺も綾小路も売れた。その
陰に何人の落伍者がいたこと
か。10人や20人じゃない。
何百人とか何千人の中の、た
った2人だ。

 綾小路が売れて嬉しかった
気持ちのなかには、お互いほ
んとうに運が良かったなあと
いう気持ちもあった。売れな
い芸人は、ほんとに辛い。人
間性まで、否定されるような
気分になる。地獄のような戦
場で、2人だけ生き残った兵
隊の連帯感とでも言えばわか
ってもらえるだろうか。

 「東京の芸能界で、ビート
たけしをひとり作るために、
何万人が死んだと思ってんだ」

 若い衆には、よくそう言う。

 浅草に帰れば、昔の先輩に
「お前さえいなかったら」と
言われる。

 「お前みてえなのが出てき
たから、こっちはすっからか
んになっちまったよ」「たけ
しが出てきたときは、俺やめ
ようと思ったもん」

 そんなことを、いまだに言
われながら酒を飲んでいる。

 そういうことを言ってくれ
る人は、まだ現役で芸人を続
けているわけだけれど、実際
にこの世界を抜けていった人
もかなりいる。

 弱音を吐いてしまえば、ず
いぶん悪いことをしたなあと
思う。足の引っ張り合いみた
いな汚いことをしたつもりは
ない。あれは食い物における
殺生みたいなものだった。豚
や牛を殺して、俺たちは生き
ているわけだ。

 漫才で売れるか脱落するか
なんて、せいぜい何千分の一
の確率だが、生命はその最初
から、はるかに厳しい殺し合
いを生き抜いている。

 最近の研究では、精子にも
それぞれ違う役割があること
がわかっているらしい。

 まず「エッグゲッター」と
いう精子がいる。これは文字
通り、卵子をゲットする、つ
まり受精するのが役目の精子
だ。

 そのエッグゲッターに襲い
かかって殺すのが、キラー精
子。自然界は必ずしも一夫一
婦制じゃないから、雌の子宮
には他の雄の精子が入ってい
る可能性もある。キラー精子
は他の雄の精子を殺して、自
分たちのエッグゲッターを有
利にするわけだ。さらには、
敵のキラー精子から、エッグ
ゲッターをガードをする役割
の精子もいる。

 生命は精子の段階から、敵
と味方に分かれて、猛烈に争
いながら、卵子を目指す。卵

子にたどりついて生き延びる
のは、そういう何億個もの精
子のなかのたった一匹でしか
ない。

 生きることは、殺すことな
のだ。

 芸人だって、同じことだ。
しがない芸人としては、他人
のことを考えて、受けないネ
タをやるなんてできるわけが
ない。俺たちの漫才がウケ
過ぎて、先輩が霞んでしまお
うがどうなろうが、そんなこ
とを斟酌する余裕はなかった。

 喰っていくには、自分の漫
才で勝負するしかないのだ。

 それでも自分だけが出世し
ていったとき、後ろめたさみ
たいな気持ちをちっとも感じ
なかったと言えば嘘になる。

 人間はそんなに強くできて
いない。

 寄席には符丁があって、い
ちばん最後に出る人を「トリ」
という。その前に出る芸人は

「バラシ」といって、漫才か、
手品のような色物と決まって
いた。

 トリの師匠の噺に集中でき
るように、今までさんざん笑
っていたお客を、いったん平
たくする、つまり落ち着かせ
ることを、符丁で「客をバラ
す」といったのだ。

 「お前たちは「バラシなの
に、客を余計かき混ぜてどう
するんだ」

 よく師匠たちに怒られたも
のだ。

 自分の前の芸人が、あまり
にもウケていたら、後に出る
人はやり難いに決まっている。

 けれど、いくら怒られたっ
て、こればかりは仕方がない。
そのうちトリ前のバラシを外
されて、俺たちは4番目くら
いに出されるようになった。
間をあければ安心だと思った
んだろうけれど、そうはいか
なかった。

 俺たちの漫才を見終わると、
客が席を立ってしまうのだ。
ツービートの漫才が目当ての
お客があまりにも増えて、ト
リの師匠が出る頃には空席だ
らけになっていた。

 ショーの前座をやったとき
も、同じことが起きた。『内山
川洋とクールファイブ』のシ
ョーの前座を、俺たちは半年
契約でやることになった。最
初の頃は何も問題はなかった
のだけれど、そのうちツービ
ートの人気が爆発しまう。

客席は満員になるのだが、
前座のツービートの漫才が終
わったら、メインのクールフ
ァイブの歌を聴かずに、お客
がどんどん帰ってしまうこと
になった。

 だけど、内山田さんは偉か
った。俺にこう頼んだのだ。

「タケちゃん。悪いけど、順
番を変えてくれ」

 自分たちが、先に歌うと言
うのだ。それじゃ、クールフ
ァイブが俺たちの前座ってこ
とになってしまう。

「だって、これは夕-ルファ
イブのショーじゃないの?」

 俺がそう言ったら、内山田
さんはもう笑っていた。

「いいよもう、お前らのショ
ーで」

 この人、すごい人だなあと
思った。

以上。

才能のある人の才能についての
厳しい話である。


次の話は、千田氏が才能につい
て語っていることである。

これは、才能のない人に関する
話だ。

100m走を

11秒フラットで走るレベルの
才能は、一番質が悪い。

プロとして活躍するために必要
な才能とは、どの程度なのだろ
うか。

たとえば100m走でオリンピ
ックを目指している人のタイム
が、11秒フラットというレベル
ではお話にならない。

100mを11秒フラットで走
ることができると聞くと、凡人
にとっては恐るべき運動能力だ。

恐らく学生時代の運動会ではス
ーパースターで、地域の大会で
も活躍していたに違いない。

ところが、その程度の才能では
オリンピックはおろか国体選手
にも程遠い。

野球選手とかアメフト選手で1
00mを11秒で走ることがで
きれば俊足がウリになるが、純
粋に100m走のスプリンター
としては補欠の価値すらない。

厳しいが、これが才能の世界の
現実なのだ。

ここでは100m走の話を、あ
なた自身に置き換えて考えても
らいたい。

絵画の世界、音楽の世界、ダン
スの世界、モデルの世界、お笑
いの世界……、

どんな世界を選んでも最低限の
才能は求められる。

最低限の才能は努力に無関係で
スタートラインとして必要なの
だ。

その際に思い出してもらいたい
のが、この100m走の話だ。

自分は11秒フラット程度の才
能なのに、100m走に執着し
てはいないだろうか。

その道でプロとして活躍できる
才能もないのに。

いつも周囲と比較し、嫉妬し、
落ち込んで苦しんではいないだ
ろうか。

だったらあっさりその道で純粋
なプロになるのを諦めて、コー
スをずらすことを考えよう。

野球やアメフトに活かせないだ
ろうか。

否、野球やアメフトだって同様
に気の遠くなるような才能が求
められる。

だったらまったく関連性のない、

あなたの好きな分野と結びつけ
られないのかを考えるのだ。

100mを11秒で走ることが
できる芸人や俳優なら、きっと
それだけで際立つ。

純粋に勝負できない才能は、コ
ースをずらすか他の何かと結び
つけるのだ。

特別な才能だとうぬぼれるな!

中途半端な才能は、捨てるかず
らせ!

以上。

又彼は、別の本では、次のよう
に語っている。

映画にハマったからといって、
映画の仕事に
夢中になれるとは限らない

 

「映画が好きだから、映画監
督になりたい」

「ロックが好きだから、ロック
ンローラーになりたい」

「漫画が好きだから、漫画家に
なりたい」

 そう思い込んでいる人は多い。

だが憧れでぼんやりイメージし
ている仕事と、現実の仕事はま
るで違う。

 映画が好きだから映画監督と
いう什事に夢中になれるかとい
えば、夢中になれない人のほう
がずっと多いのではないか。

 ロックが好きだからロックン
ローラーという仕事に夢中にな
れるかといえば、夢中になれな
い人のほうがずっと多いのでは
ないか。

 漫画が好きだから漫画家とい
う仕事に夢中になれるかといえ
ば、夢中になれない人のほうが
ずっと多いのではないか。

 受動的に味わうのと能動的に
表現したり創作したりするのと
では、むしろ対極の関係にある
といえる。

 映画監督もロックンローラー
も漫画家も、極めて孤独で地味
な仕事だということはあまり知
られていない。

ここで私は、あなたに夢を諦め
ろと言っているのではない。

逆だ。夢を叶えるなら、本当に
夢中になれるものを目指したほ
うがいいと話しているのだ。

 映画に夢中になっているのな
ら、むしろ評論家という仕事に
夢中になれる可能性がある。

 ロックに夢中になっているの
なら、むしろステージの演出家
という仕事に夢中になれる可能
性がある。

 漫画に夢中になっているのな
ら、むしろ編集者という仕事に
夢中になれる可能性がある。

夢中になれることを仕事にす
るには、単なる憧れではなく、
本当に自分のやりたいことは何
かをきちんと見極めておく必要
がある。

本当に夢中になれる仕事って、
単なる憧れとは違う次元のもの
だ!

以上。

ところで、

橘玲氏は、とある本でこう書い
ている。

千田琢哉とは、全く違う話だ。

才能のない人についての話だ。

以下、その内容である。

 

「好きを仕事に」という残酷
な世界

 【マックジョブ】

 サービス分野における、低賃
金、低地位、低尊厳、低恩恵、
未来なしの仕事。満足できる職
業をもったことのない人にとっ
ては、しばしば満足すべき職業
選択と考えられている(ダグラ
ス・クープランド『ジェネレー
ションX』〈角川文庫〉)。

 映画『アンヴィル! 夢を
諦めきれない男たち』は、50
歳になってもロックスターを目
指すカナダのヘヴィメタル・バ
ンドを描いたドキュメンタリー
だ。

 1984年8月、西武球場。
スーパー・ロック’84のステー
ジに登場したアンヴィルは、ボ

ン・ジョヴィ、スコーピオンズ、
ホワイトスネイクなど口ック史
上に金字塔を打ちたてたビッグ
ネームとともに演奏し、大観衆
を熱狂させた。

 それから20年が過ぎ、バン
ドのリードギタリストでボーカ
ルのリップスは毎朝、殺伐とし
た郊外の倉庫に車で出かけてい
く。

そこは学校向けの配食サービス
会社で、リップスは衛生用の手
袋とビニール帽を身につけ、チ
キンやマッシュポテトやマカロ
ニやそのほかさまざまな食材を
盛りつけているのだ。

 やがて彼のもとに、見知らぬ
プロモーターからヨーロツアー
の依頼が来る。5週問のツアー
はスウェーデンのロックフェス
で快調に幕を開けたものの、そ
の後はトラブルの連続で、プラ
ハでは道に迷ってクラブへの到
着が遅れ、支払いが受けられず
にオーナーと取っ組み合いにな
り、駅に寝泊まりしてようやく
たどり着いたトランシルヴァニ
アのロックコンサートは、1万
人収容の会場に174人の観客
しかいなかった。

 さんざんな目にあってカナダ
に戻ってきた彼らは一文無しに
なり、おまけに仲たがいでバン
ドは空中分解手前。それでもリ
ップスはロックスターになると
いう夢をあきらめず、レコーデ
ィングのための金策に奔走する
……。

 このドキュメンタリーが世界
じゅうでヒットしたのは、いく
つになっても夢を追いつづける
という生き方にみんなが共感し
たからだ。

 年をとって髪の毛も薄くなり、
音楽は古くさく、ボーカルは音
程が外れ、いまさらなにをやっ
てもメジャーヒッ卜なんて無理
にきまっている。だったらなぜ、
そんなムダなことをするのか?

 リップスはいう。

 もちろん、ロックが好きだか
ら。それ以上に人事なことが、
人生にあるのかい?

途中、カット。

 阿部が指摘するように、バイ
ク便ライダーたちは劣悪な労働
環境で酷使され、交通事故で半
身不随になったり、排気ガスで
肺を悪くして引退していく。

しかし彼らは、すべての矛盾を
「自己責任」と受け止める。だ
って、好きでやったことだから。

 これはたしかに理不尽だ。で
も、だったらどうすればいいの
かのこたえはない。

 大人たちはしたり顔でいう。
「正社員として就職し、趣味の
バイクは休日に楽しめばいいじ
やないか」。でも彼らは、勉強も
できなければ、机に向かって事
務仕事をすることもできないか
らこそ、「好きを仕事に」する
しかなかったのだ。

 ここでの問題は、好きなこと
が常に市場で高く評価されるわ
けではないということだ。

だからといって、市場で高い
値段がつくことこと(言語的知
能や論理数学的知能)を努力
によって好きになることもでき
ない。

 バイク便ライダーは、この世
界の不都合な真実をぼくたちに
教えてくれる。

 仕事と趣味を両立させられる
のは、きわめて高い能力を持っ
たひとだけだ。「やってもでき
ない」のなら、それがなんであ
れ、好きなことで生きていくし
かない。そうでなければ、マッ
クジョブで日々の糧を得る退屈
な人生が待っているだけだ。

 映画『アンヴィル!』で印象
的な場面は、起死回生のレコー
ディング費用を妻や姉などの家
族が援助するところだ。彼女た
ちはずっとドン・キホーテみた
いな男たちに振り回されてきた
にもかかわらず、彼らの子ども
じみた夢をいまでも応援してい
る。

 これはもちろん、美しい家族
愛の物語だ。でもボーカルのリ
ップスが夢をあきらめないほん
とうの理由を、ぼくたちはもう
知っている。

 映画の冒頭で、リップスが配
食サービス会社に出勤する様子
が描かれていた。衛生帽をかぶ
って一日じゅうチキンのから揚
げやハンバーグを容器に詰め込
むのは、これ以上ないくらい
退屈で単調な作業だ。もしも夢
をあきらめてしまえば、リップ
スに残されているのはこのマッ
クジョブだけなのだ。

 この事情は、リップスの家族
にしても同じだ。彼が夢をあき
らめないかぎり、ロックミュー
ジシャンの妻や姉を演じること
ができる。だから彼女たちは、
とぼしい蓄えを取り崩して実現
するはずのない夢を応援するの
だ。

 グローバルな能力主義の世界
では、夢をあきらめてしまえば、
マックジョブの退屈な毎日が待
っているだけだ。だからリップ
スには、夢をあからめることが
許されない。死ぬまで口ックし
つづける以外に生きる術がない
からこそ、滑稽なまでに必死に
なれるのだ。

好きなことを仕事にすれば成功
できるなんて保証はどこにもな
い。

それでもぼくたちはみんな、好
きなことをやってなんとか生き
ていくほかはない。

 ジャイアンはプロ野球選手を
目指したが、どこからも指名し
てもらえなかった。シズカちゃ
んは音楽学校を卒業したものの、
コンクールで賞を取ることがで
きなかった。何年かして、二
人は偶然、高級住宅地の喫茶店
で再会した。

 ジャイアンは少年野球チーム
のコーチとして、子どもたちの
指導をしていた。シズカちゃん
はホームパーティに呼ばれて、
ピアノを弾いていた。

 二人が幸福だったのかどうか、
ぼくにはわからない。でも彼ら
は、「好き」を仕事にして、この
残酷な世界を生き延びていたの
だ。

 

以上。

 

松本人志は、

好きならやっていいのか。

 それは違うだろう。

それで、才能のない人の身
のふり方について書かれた
ものをあげてみた。

橘玲氏は、

好きなことを仕事にすれば成功
できるなんて保証はどこにもな
い。

それでもぼくたちはみんな、好
きなことをやってなんとか生き
ていくほかはない。
と、語った。

リップスは言った。

 もちろん、ロックが好きだか
ら。それ以上に人事なことが、
人生にあるのかい?

しかしである。
彼が、死の直前、その人生を

納得するのだろうか。

どうだろう。

 

その時にならないと、答えは

でないことだが。

 
これらの文章を読んで、愕
然としている。

このような考えがあるのだと。

というのも、私自身が才能は
ないのに、好きに拘って生き
てきたことがあるからだ。

 結局、アマチュアでもやり
遂げることができなかった。

わたしの大学時代に、先輩に
苦学生の先輩がいて、才能は
ないのに、大学まで進学した
先輩がいた。それこそ、実直
という言葉が似合う先輩だっ
た。

だいぶ前だが、なんとなく気
になって、ネットでその先輩
のことを検索したら、なんと
その先輩が出てきた。

結局、プロで通用する才能で
は無かったが、アマチュアで
ずっと活動してきたようだ。

わたしは、その記事を読んで
脱帽した。

才能は無くても、アマチュア
ながら、好きをやり通した情
熱である。 

残念ながら、私には、その情
熱も体力も無かったというこ
とで、胸に寂しいものがよぎ
った。

ところで、わたしの後輩で、
才能のある後輩がいた。

ただ、素人以上プロ未満の
才能だったのだろう。

千田氏の言葉を借りたら、
100メートルを11秒で走る
才能ということだ。

何でも、この11秒フラット
で走れるのは、非常に困りも
ののようだ。

結局、彼は、その中途半端な
才能のおかげで、人生をメチ
ャクチャにしてしまった。

仕事をやめ、才能を試そう
と、賭けに出たのだ。

しかし、この賭けは、まとも
な人間ならやらない。それこ
そ、無謀な試みだった。

私に相談があれば、絶対にや
めさせるはずだったのだが。

もっとも、残念ながら、わた
しの才能は、100メートルを
11秒には、遥かに届かない貧
弱なもので、これでは、彼を
説得できたか疑問だが。

結局、奥さんを自殺させてし
うという最悪の結末になった。

彼は、死ぬまで、一目を忍ん
で生きていくことになりそう
だ。

わたしより、ずっと才能はあ
ったはずだが、素人以上の才
能が仇になった。

私の業界の大先輩で、やはり、
仕事をなげうって、大学に再
入学して、自分の才能を試し
てみようと、試みた人がいる。

帰郷したものの、定職につい
ている様子も伺えない。

時折、道で見かけるが、いつも、
三揃えで時代離れしたフアッシ
ョンで完全に時代に浮いている。

見果てぬ夢を追い続けている。
いつまでも、夢の途中にいる。

どうやって、生計をたてている
のか不思議でならない。

彼を見かける度に、本人のかつ
ての同僚が鬼籍に入りつつある
中で、彼は、どう自分の人生を
思っているのか。と思うと非常
に複雑な気分になる。

わたしは、好きでも才能が無
かったばかりに、退職まで
辿り着くことができた。

結局、千田琢哉氏の考え方に
そった生き方になった。


 好きならやっていいのか。

 それは違うだろう。


この言葉、厳しい言葉だが、
極めて優しい言葉でもある。

好きでも、職業として、選択
するだけの才能にも、必要と
諸々の才能にも欠けた自分を
納得させようとまだ、苦闘し
ている。

しかし、とえあえず、年金生
活に辿り着き、気の向くまま
本を買いあさり、気の向くま
まコーヒーを飲み歩き、気の
向くまま、バイクで走り回っ
ている。

かなり贅沢な生活ではと、思
いながら。

補足。

 

北野武は、

 俺ひとりを作るために

 何万人死んだと思ってんだ

と語ったが。

彼の文庫本「時効」、今回読み
直して、考えこんでしまった。

斉藤一人氏の言っていた。

1万人に一人の頭脳の持ち主だ
とびっくりしている。

もし、北野武の本を読んでない
方が、いたら、お薦めである。

たけしん、ハイ!(新潮文庫)

と、セットで読んで貰えること
を希望する。

本当の才能とは、どういうもの
かを、教えて貰える気がする。

わたしは、「ビートたけし」は

嫌いだが、「北野武」には、敬服

するものがある。


The Water Is Wide

2015-11-19 01:46:03 | 風景

わたしが時々通うカフェの室内写真で
ある。

K湾に臨み、北向きなので、朝方は
右側後方から、朝日を受ける。

窓の左手水平線に、かすかに見える
のは、北部の連なる山々だ。

そのため、屋内には朝日が入らず、
順光になり、海や山がの景色が
綺麗に見える。

 



この2枚の写真は、参考のため、全く別
の所から撮った写真を使っているので、
このカフェからの風景とは、向き的には
同じでも、イメージが違う。

2枚目の方は、半分しか写っていない
が、雰囲気は出ている。残りの左半分
がないのは、残念だ。

カフェの2階から、見下ろす波打ち際
近くの、海面の波の表情が、スロー
ビデオを見ているような、のどけさが
あって、見とれてしまう。

このような波は、この場所でしか、見た
ことがない。美しく思われてならない。
いつまで見ても、飽きない不思議な
波である。

それから、北部の山々が連なって
霞んで遠ざかっていく様は、えも
言われぬ情趣を感じて、いつ来
ても、そのワイドな風景に、ため
息をついている。

昔、パノラマ写真というのが
あったが、全くその世界に入り
込んでしまう。

この横広がりの壮大な風景に
ただただため息をついている。

「海を見た午後」を作曲したユー
ミンなら、きっと、ラブソングの一
曲も作曲できるのではといつも
思う。

わが市は、県内でも廃れていく
地域にあるが、わたし個人的
には、県内で唯一詩的で情趣
があると思っていて、一人誇
らしく思っている。

もっとも、このワイド感を愉し
める人、そういそうにないの
が、残念である。 

このブログで取り上げた大きな
理由の一つであるが、実は
この風景、このカフェの2階
の真ん中からちょっと右寄り
の位置から、見ないとため息
をつくような説得力のある
風景としては、見えてこない。

1階に降りて見ても、隣の
ベランダから見ても、この
k湾を望む他の位置から
見ても、この風景は語り
かけてこないのである。

この2階のカフェの窓枠
という額縁から見ないと、
こう風景は、訴えてこない
のである。

そして、この雰囲気にあう
BGMが流れてくることも
いよいよとこの情趣を盛り
上げてくれる。

カエサルは、言った。

多くの人は、見たいと思う現実
しか見ていない。 

これは、ローマ共和制の限界を
理解できず、現実を都合のいい
ように解釈して、死んでいった 
ライバルや宿敵のことをいって
いる。

が、全く関係のない風景につい
てもどう見えるかは、その人の
風景を観る力によって、見え
方が違ってくる。
と、勝手に解釈している。

もっとも、このパノラマ的な見え方は、
私自身が、最近見えるようになった
ので、自分自身びっくりしている
のであるが。