ヤフーの記事である。
沢村賞のマー君が口にした佑ちゃんと
の“因縁”
やはり心にずっと引っかかっていたという
ことか。2年ぶり2度目の沢村賞選出が決
まった楽天・田中将大投手(24)が28
日、都内のホテルで会見に臨み、夏の甲子
園決勝で早実・斎藤佑樹(日本ハム)に敗
れた“あのシーン”について触れた。
会見では今季最も印象深かった試合に、
自身が初の胴上げ投手となった9月26日
の西武戦を挙げ「優勝の瞬間、自分がマウ
ンドにいられると思っていなかったので最
初に『抑えで行くぞ』と言われた時はびっ
くりしましたけど、あの場にいられたこと
はすごく感慨深い」と語った。
続けて「今までは散々甲子園の決勝で空
振り三振しているところばかり使われてき
たので(リーグ)優勝の瞬間、また新しい
1ページができてよかった」とも。
本来であれば自身が主役となるはずだっ
た2006年夏の全国高校野球選手権大会
決勝。しかし、延長引き分け再試合の末、
スポットライトの中心にいたのは青いハン
カチでさわやかに額の汗を拭う早実・斎藤
だった。
それ以来、プロで圧倒的な実績を積み重
ねても、自身が最後の打者となったあの映
像から逃れることはできなかった。
だが、西武・栗山、浅村を渾身のストレ
ート8球で連続三振に斬り、歓喜のガッツ
ポーズを決めたリーグ優勝の瞬間が、田中
を“呪縛”から解放してくれたということ
か。
すでにプロでは圧倒的な差がついた。に
もかかわらず、田中にとっては、あの優勝
シーンを味わえたことで、ようやく佑ちゃ
んから“卒業”できたということなのかも
しれない
以上。
歴史の残る、記憶に残る名勝負、あの甲子
園の最後の2試合を、わたしは偶然にも、
病院のテレビで観戦した。
最後に三振で討ち取られた田中選手の表情
は、何を考えていたのだろうと、今でも思
いかえすことがある。機会があれば、聞い
てみたいものだと、今でも思う。
勝った斉藤選手、タレントなみの盛り上が
りようで、家族も浮かれてしまった。
そういうことがあって、わたしは田中選手
が楽天に入団して以来、楽天の隠れファ
ンである。
なかなか勝てない楽天、今年はめざましい
活躍となった。
甲子園が終わった後、田中選手は、「負ける
選手」だったのかと、思い返す。
それは、三振をした後の田中選手の表情に
ひっかかるものがあったからだ。
その後、やはりというニュースで知ることに
なった。
ネットを検索したら、その当時の資料が残っ
ていた。
次のようなのがあった。
焦りが田中のフォームを崩し、ボールのキレ
を失わせた。
監督の香田は5月に復帰したものの、秋の
時点での充実ぶりは見る影もなかった。限り
なく完璧に近づいたチームは、夏本番を2カ
月後に控え、基礎工事からのやり直しを余儀
なくされた。
急ピッチの作業は焦りを呼んだ。田中も例
外ではない。
「もっと速い球を投げよう、もっといい変化
球を投げようという意識が悪い方へ出てしま
った。春、甲子園に出られなかった悔しさも
あって、欲を出し過ぎたのかも」
夏の甲子園へと続く南北海道大会、田中の
ストレートが無名の選手にいとも簡単にジャ
ストミートされるシーンを何度となく目にし
た。田中を追いかけ続けていたスカウトも首
を傾げた。
「あんなにいいフォークがあったのに、どう
して投げなくなっちゃったんだろう」
フォームが崩れ、体の開きが早くなり過ぎ
ていた。それによって、もっとも影響を受け
たのは、真っ直ぐとフォークのキレだった。
それでも、やはり一時は全国の標的となっ
たチームである。底力を見せつけて駒大苫小
牧は最初の関門、南北海道大会を突破する。
ただし、いかんせん突貫工事だ。時間とと
もにその無理が歪みとなって表れた。
チームの一体感」の無さを危惧した香田監督
の策。
甲子園入りするなり、田中が熱中症にかかり
ダウン。その上、「ウイルス性胃腸炎」を併
発してしまった。
「初戦を迎える2日ぐらい前まで、38度以上
の熱と、1時間に一度便意を催すような状態で
した。試合当日はもう大丈夫でしたけど、試
合中は異常なほど汗が出てやばかった」
初戦の南陽工戦、田中は14三振を奪った
ものの、一方でストレートの四球3つを含む
6四球と荒れた。調子の悪さを押し隠し、力
任せに投げているだけのように映った。その
晩、田中は香田にこう諭されたという。
「他の選手はおまえの背中を見てプレーし
てるんだから、調子の悪さを顔に出したり
して、周りに気を使わせるな、って。試合
に出ている以上、体調の悪さは言い訳には
できませんからね。そう言われてすごい反
省しました」
以上。
これは、ネットにあった話しである。やは
り、田中選手は大きなハンディを背負って
のあの甲子園の試合となっていたようだ。
そういうこともあって、あのハンディがな
かったら、どういう試合になっていたのだ
ろうと、いつも、興味深く思いかえすこと
があった。
今回の
沢村賞のマー君が口にした佑ちゃんと
の“因縁”
というニュースを読んで、やはり、あの敗
戦は、彼の大きな「トラウマ」になってい
たのだと知ることになり、当時の彼の気持
ちを知り得ることになった。
斉藤選手が、プロに入団し、2軍でくすぶ
り、そのうち、プロの世界から消えていく
のではと、いう気もするようになって、な
んとも皮肉な状況になってきた。
もし、あの甲子園の時に、苫小牧の野球部
にごたごたがなくて、万全の調子で、決勝
戦に望んでいたら、斉藤選手が勝てなかっ
たかも知れない。
結局、斉藤選手としては、いわゆる「敵失」
の勝利だった可能性が高い。そういう意味
では、彼は運が良かったのだろう。もちろん
斉藤選手が努力したことは、事実だが。
ただ、その時の幸運は彼を不幸にし、不運の
田中選手は、「トラウマ」苛まれながらも、
そのトラウマを克服することで、野球の世界
史に残る選手になった。
ここまで、差がついたら、斉藤選手は、静か
に野球の世界から消えていくことになるかも
知れない。
ところで、あの時に、田中選手に不運がなく
て、勝っていたら、これほどの精進はなかっ
たのかも。
あの日があったから、現在、彼がママウンド
に立つと、ナインに神がかり的なものを発す
るのかもしれない。
そして、野球の世界史に残る選手になること
はなかったかも知れないと思えば、複雑なも
のが胸に迫る。
甲子園での敗戦投手は、「神の子」となり
かつての「神」を超えた。
「人間万事塞翁が馬」
「禍福は糾える縄の如し」
の故事とは、こういうことを言うのかと、
やはり、複雑なものが胸に迫る。
ダルビッシュもそうだが、甲子園の決勝戦
で負けた選手が、世界に出て行く。
人生だな~。