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リタイアーのよもやま話

女子バレー

2013-08-31 22:59:51 | 日記

女子バレーの中国戦を見た。

これまで全勝の中国に対して、善戦したという
感想をもった。

次回、対戦した時には、もっと点数をとることが
できるのではないかと思った。

その中で、個人的に興味深い選手がいた。

セッターの宮下選手である。

前々から、何かとニュースになっていたので、ネット
で写真を見た。
なんと可愛いいこと。

調べてみると、身長176㎝で、前任者の竹下選手と
比較する、大柄になっている。
しかし、選手が並んでいると、そう大柄に見えない
こともあって、やはり、可愛く見える。

タレントではないので、美貌に注目するのは不謹慎
だが。

わたしは、中学1年の頃、ちょっとだけ、バレーを
やった。わたしがひ弱な生徒であったので、いつの
まにか止めてしまったのだが。

そういうこともあって、バレーの国際試合はよく見る
ほうである。

木村佐織が、確かティーンでレビューしたと思うが、
あの時には、まったく、新米であった。当時の彼女が
チームの戦力になっていた記憶はない。ただ、ひたす
らにあどけない可愛いさが、目立っていた。

残念ながら、その美貌に魅了されたのだが。

しかし、今回の宮下選手は、セッターというポジショ
ンだけに、しっかりと年上の先輩を仕切ろうとしてい
る。

そして、ブロック、サーブ、レシーブと八面六臂の活
躍で、彼女に最年少の選手という臆した気配は見
当たらない。

彼女が、18歳にして、このメンバーに抜擢された理由
がわかったような気がする。

これだけの能力には、だれも嫉妬もしようもないし、
妬みようもない。

いや、これだけの能力であれば、埋もれようが
ない。 

あらためて、人間の素質と才能とはこういうものかと
教えられる思いがした。

今日の中国戦を見ているうちに、特に、彼女が今まで
の選手と違うことに気付いた。

それは、彼女の「目つき」である。彼女の「目つき」
が他の選手と全く違うのに気付いた。

今まで、バレーの試合は、よく見てきたが、そのよう
な「するどい動物的な目つき」の選手はいなかったよ
うに思う。

彼女の可愛さもファンであるが、彼女の「するどい動
物的な目つき」にも魅了されてしまった。

なぜ、彼女の目線に「するどい動物的目つき」を感じ
たかというと、実はこのような「目つき」の選手を前
にも見たからだ。

それは、多くの人が思い出すと思うが、女子柔道の松本
薫選手である。彼女の目は「オオカミの目」と言われた
が、宮下選手の「目つき」見て、松本薫選手を思いだし
た。

宮下選手の目は「オオカミの目」ではないが、やはり、
「するどい動物的な目つき」は、わたしの心を魅了し
て止まない。

その目つきに、彼女が他の選手と全く違う次元で、
プレイしているように思われてならない。

彼女は、これから、少なくとも10年以上は、選手とし
て活躍するはずである。

彼女がどのように変わっていくか、楽しみでしようがな
い。


人は想像によって、人生から完全な満足を得られぬことの埋め合わせをする

2013-08-31 13:53:45 | 読書

モーム語録にあった文章である。

【文章1】

人は想像によって、人生から完全な満足を得ら
れぬことの埋め合わせをする。

人間の避け難い運命と考えて、もっとも根本的
な本能の多くを満足させることを諦めるのだが、
諦めるのはなかなか辛い。そこで、名誉欲、権
力欲、愛欲などが阻まれると、人は空想を用い
て自分を欺く。

現実に背を向けて、何のさまたげなしに欲望を
満足させるような作り物の楽園に向かう。そし
て虚栄心からこの心的作用に特別な価値を持た
せ、想像力の駆使は人問の最も崇高な行為であ
るように思い込む。しかし、想像することは失
敗することである。

現実に直面して敗北したことを承認することだ
からだ。   

 

【文章2】

本音と建前を合致させるのはとても難しい。
大多数の人々は実際の行動と説く事が違う。

そのことが指摘されると、それは自分の欠点で
あり、自分の主義主張に近づくのが願いだと主
張する。そういう振りをするだけだ。人は好む
ように行勤し、主義は後からついてくるのだ。

主義は本来の性癖と合致しないので、彼らは居
心地が悪く落ち着かない。しかし、玉義に合わ
せて行勤し、好みを抑えようとすると、天国に
行ってからはいざ知らず、現世では希望のない
生活を送ることになる。 

 

【文章3】

大抵の人は、事実大多数の人は、境遇のために
余儀なくされた人生を送る。

自分が四角の穴に押し込まれた丸い釘だと思っ
て、不満をいだき、事情が違っていたら、もっ
と成功できたものをと考える人もいないではな
いが、大多数は自分の運命を、明るくとまでは
いかないが、まあ仕方がないと受け入れている。

こういう人は、いつまでもいつまでも同じ線路
を往復する路面電車に似ている。往っては帰り、
帰っては往くを繰り返すしかなく、その挙句、
動かなくなれば、屑鉄として売られるだけであ
る。

それとは逆に、自分の人生行路を大胆にも自分
の手で定めた人は滅多にいない。もしそのよう
な人が見つかれば、よく観察して見るだけの価
値がある。

       

以上。

モームの本にこのような文章があって、驚き
であった。

この三つの文章を読んで、まっさきに思いだし
たのは、「エホバの証人」たちだ。

彼等は、「四角の穴に押し込まれた丸い釘だと思っ
て、不満をいだき」生きている。

その現実を自分では、どうしようもないために、
「エホバの証人」という選民意識で、心地良く武
装している。

しかし、実際には、カトリックやプロテスタント
のようになんらかの形で、社会と向き合うような
ことは、一切せず、自分たち穴の中にとじこもっ
て、「ぬくぬく」と過ごしている。

つまり、それこそ本当の現実逃避でしかない。

かりにあったとしても、現実問題として、「永遠に
生きる」なんて、これ以上の拷問もないとは思う
のだが彼らは気付かない。