今日は、林業史、とくに吉野林業史の専門家のところを訪ねた。
吉野林業の中の土倉庄三郎の業績の位置づけを確認するためだったが、それが、もう、大収穫。土倉関連の資料をどっさり見せていただき、借りることができた。
いずれも大学図書館や各地資料室に眠っているものを掘り起こし、コピーしたり手書きで写したものもある。こんな貴重な資料を借りられるなんて。
しかも、まだまだ眠っている資料がありそうな場所を教えてもらった。そちらは手続き踏んで、私が発掘しなければならないが、いやあ、資料地獄に落ちそうだ。
今日は、林業史、とくに吉野林業史の専門家のところを訪ねた。
吉野林業の中の土倉庄三郎の業績の位置づけを確認するためだったが、それが、もう、大収穫。土倉関連の資料をどっさり見せていただき、借りることができた。
いずれも大学図書館や各地資料室に眠っているものを掘り起こし、コピーしたり手書きで写したものもある。こんな貴重な資料を借りられるなんて。
しかも、まだまだ眠っている資料がありそうな場所を教えてもらった。そちらは手続き踏んで、私が発掘しなければならないが、いやあ、資料地獄に落ちそうだ。
今日は、『森林からのニッポン再生』の刊行日。と言っても、まだ書店に並ぶのは時差があるだろうが、ネット書店には並んでいる。
そして、昨日の毎日新聞に『割り箸はもったいない?』の大きな書評が載ったことを受けて、いろいろメールをいただいた。版元からはFAXも流れたし、アチコチからお知らせが来る。
そして、『「森を守れ」が森を殺す!』の新版を作る話も舞い込んだ。すでに絶版になっているが、そのままは無理でも増補・改訂・新版にしようという提案だ。
民主党が「森と里の再生プラン」を発表した。ここに私の意見が盛り込まれたようだ。
風向きが変わってきたかなあ~。昨年の今頃は、何をやってもうまく行かなかったのに。臥薪嘗胆、てほど大袈裟ではないが、運気というものがあることを感じる。今はこの調子で行きたい。そして、次の下降に備えよう…。
この裏ブログ?に、こっそり、先行発表しておこう。
来月、つまり6月11日に次の著作が発行されることが決まった。おそらく書店に並ぶのは翌日12日からだろう。
タイトルは『森林からのニッポン再生』。平凡社新書
『割り箸はもったいない?』が森林・林業本の変化球だとしたら、こちらは直球ど真ん中に投げ込んだ作品だ。
テーマは、森林、林業、そして山村。この3部構成でそれぞれがリンクし相互に絡み合った関係を解きあかそうと苦心惨憺した。そして森林と人間の関わり合いを描き出した野心作。
と、説明すると、なんだか難しそうに感じるかもしれないが、実は苦心惨憺したのは、こうした重いテーマをいかにとっつきやすく表現するかという点なのである。だから、高校生でも理解してもらいたいというスタンスで臨んでいる。写真や図表も、かなり入れたし、表現も気をつけている。
あと、2週間です。
本日、筑摩書房から、新著の見本が届いた。
『割り箸はもったいない?』 ー食卓からみた森林問題
(ちくま新書 定価680円+税)
ついに完成、である。ただし、書店に並ぶのは連休明け、早くても5月に入ってからだろう。価格が比較的安いのは、少し薄いからかな、いや、最初から増刷を狙っているからである。(ということにしておこう)。
サブタイトルにあるように、これは単に割り箸の本ではなく、森林問題の本という位置づけがされている。帯文を載せると、
「エコロジー幻想が生んだ誤解
日本の林業における割り箸の役割に光を当て、
森林問題の本質を現場から考える。」
思えば、昨年の今頃は、中国が割り箸輸出を停止する」というニュースが駆けめぐっていたのだった。それから1年後の出版、遅すぎたか、まだ間に合うか、それとも先駆けとなるか。
本日、遅れに遅れていた原稿書き上げて、送る。さらに初校や図版関係の整理も済ませる。これで、仕事の山を越えたはずだ……。
同時に2冊の出版計画を進めるなんて、とんでもないことだと痛感した。
これまで年に1冊しか出版しなかったのだが、世間には年間4、5冊出版している売れっ子作家がたくさんいる。
私も奮起して、少しは真面目に仕事をしようと思ったのだが、今回で懲りた。
私には無理だ。なんとか入稿したものの、頭の中がいっぱいいっぱいになる。やっぱり根が怠け者なんだなあ。
本日、『田舎で起業!』の増刷分が届く。初版とは、誤字などを修正する程度しか変わっていないが、こちらもホッとする。また割り箸本の契約書も届いた。
ちなみに割り箸本の発行日は、5月初旬だった。もう1冊の森林本は、6月。乞う、ご期待である。
今日は、久しぶりにチェンソー持って山へ。
いくらか木や竹を伐って、ついでにタケノコ2本掘る。また少し傷んだ林内の階段などを補修。その後もうろうろして、今後、森をどのように手入れするか考える。ここを切り払って竹林を整理するとか、ちょっと隠れ家的な基地を作ろうかとか。遊歩道も作らないとな。それと、ゴミ掃除。ハイカーのバカタレが捨てていくゴミをなんとかしなければならない。本当は冬の間にするつもりだったのだけど、ほとんど動けなかったから、これから夏までが勝負だ。
その後は棚田の巡検。菜の花畑やらタンポポが咲き乱れる。一部にはレンゲもあった。こうした光景を目にして、放置棚田を景観的に活かす方法を考える。景観アドバイザーのような役割を設けて、放置田の持ち主に相談して、美しい景観づくりをできないか…。
それにしても、里山は桜の名残とともに、新緑一歩手前。葉が開きかけの薄茶と緑が混ざった色で覆われている。ああ、カメラを忘れたのが失敗だ。(写真は、携帯でタンポポ)
え? 仕事していないじゃないかって? 七転八倒して、ようやく思いついた原稿のアイデアはどうしたって? ……ああ、そんな話、昨日書いたな・・・。
いや、これも森林ジャーナリストとしての仕事なんですよ。森林と触れ合わないと森林について語ることはできないからね。(なんて便利な肩書なんだ!)
昨日は、朝から少し校正をして、午後から町を散策。行きつけのカフェでうだうだ言ってから散歩に出て、気がつくと山の中に。なぜか道のないところをサンダルで歩いたり、谷を下ってイノシシのヌタ場に出くわしたりしつつ、結局は家に帰る。
夕食後は、うだうだテレビを見たり風呂に入ったり、パラパラ本をめくるが、ゆっくり読む気になれず、インターネットでネット・サーフィンするも落ち着かず、深夜にキッチン・ドリンカーとなる……。
何をしているかと言えば、書かねばならない原稿の書き出しを考えていたのだ。ああだこうだと悩みつつ、おお思いついた! と喜んだのも束の間、冷静に考えれば使い物にならず、また七転八倒。ならば、この話題はどうだ、いや、この手で行こうと考える度に、読者はつまらなそうな顔が浮かび、引っ込める。時間がない、と焦りつつも、これが最後のチャンスとうなる。
ようやく深夜の酔った頭で思いついた。原点に返ってアノ話題で行こう。なんだか出来が良さそうじゃないか。
……というわけで、見た目は何も仕事をせずブラブラしているように見えるけど、決して遊んでいたわけではないのです、多分…。
誰も認めてくれないから、ここで言い訳しておく。
忙しい、を連発していると癖になるが、少しは山を越えたかなあ、と感じる昨日今日。
考えてみれば、これまで悠長な仕事をしていた。多少たて込んでも、いくつも仕事を重ねることもせず、順番にこなしていた。また、記事のアイデアや構成がうまくわかない際は、山歩きをするとか、町を歩き回るとか、夜バーで一人佇むとか、それなりの作法があった。
それが同時に何本も平行して進行させるという真似をすると、頭がパンクする。しかし、山にも散歩にもいけない。もちろんバーにも行けない。身体を動かすのは、なんとスーパーマーケットの中だけ。車で行くから、往復も歩かない。
そこで苦肉の策は、スーパーマーケットで森林浴。
野菜売り場で、緑に親しむ……
肉や魚売り場で、アウトドアと野生を感じる……
乾物や加工品売り場では、表示を読んで想像力を養う……
おお、最近ではメカブまで中国産かとか、マンゴーの缶詰が100円で買える秘密とか。見た目は同じ商品でも価格に差があるのは、どこにからくりがあるのかとか。
原材料の秘密に気づく。蕎麦なのに、原料のトップに書かれているのは小麦粉であることや、肉加工品の上位に大豆たんぱくが並ぶわけを。
その合間に、晩飯のメニューも考える。この肉とあの野菜を組み合わせて、和洋中華、どの味付けにするか……。すると、天啓がひらめきアイデアも浮かぶのだ。いや、晩飯の献立ではなく、記事のアイデアである。
こんな生活、送っていていいのかなぁ。足が萎えるぞ。
某山村に講演に呼ばれた。
主催は商工会で、会員には製材所や建築家、宿屋、酒屋……などがいると聞いた。森林組合等は別にあるのだし、林業のことはあまり触れない方がよいかなと、いわゆる『田舎で起業!』路線の話をしようと思って臨む。
ところが、事前の挨拶で、村議会議長などが来て、林業になみなみならぬ意欲。おや、これは林業のことも話した方がよいかな、と急遽付け加えたりもしたが、それほど大幅に変えられない。
しかし、質問なども林業関係が多い。やはり山村と林業は切っても切れない関係なんだと思い知った。質問に応える形で、私の林業論をぶつ。林業関係のことなら、1時間でも2時間でもソラでしゃべりまっせ(笑)。
実は、現在執筆中の原稿は、森林-林業-山村をつなぐもの。これまで近いようでバラバラに語られがちだったこの3者を相互不分離なものとして見つめ直そうという企画だ。
そういえば、このプログのサブにも、「森と木と田舎の、ここだけの話」と記していたのであった。「ここだけの話」を、発表したら、ここだけでなくなるから、プログタイトルも見直そうかな(^^;)
夕方、急にレンタルビデオ屋に走って、探した挙げ句「ダンテズ・ピーク」のDVDを借りた。
この映画、1997年のアメリカ製作で、火山の噴火によって町が壊滅するスペクタルである。実は、かなり昔、たしか飛行機の中で見たと思う。それにテレビでも放映があったのではないか。
なぜ、急にこの映画を見る必要ができたかというと、今書いている原稿に使えるかも、と思ったからだ。
と言っても、スペクタル映画評を書くわけではない。自治体のあり方、という硬い記事を書くのに使えると思ったのだ。
実は、この映画に登場するダンテズ・ピークという町は、冒頭で「2万人以下の町の中でもっとも住みやすい」コンテストの2位に輝いている。この町の人口は7400人。そして町長は女性なのだが、喫茶店経営者。議会のシーンで、登場する議員は6人。議論は座っていないで立ったり歩きながらしている。ネクタイを絞めていない人もいる。
こんな自治体ある?
あるのだ。アメリカでは、10万人の都市でも議員は5、6人らしい。首長や議員は無報酬。みんな別に仕事を持っている。だから議会は、平日の夜か土日に開く。
これこそ、日本の小さな自治体が見習わないといけない姿だ。
首長と議員は、給料を受け取るな! 人数も5分の1に減らせ! 議場もいらない。会議室か、ロビーの立ち話で済ませろ! こういう市町村こそ、住みたい町コンテストに上位に入れるだろう。
……これを公約に、私も立候補しようかな(笑)。
新聞社で記事の盗用疑惑が広がっている。
朝日新聞の写真部の記者やら山梨日々新聞の論説委員やら……。
最近はインターネットで他社の新聞もすぐ読めるから、参考にするつもりで、そのまま真似てしまうのだろう。
それにしても、下手くそだ、と思う。誤解を招くかもしれないが、ほかの記事を真似るにしても、もう少し自分の文章にできなかったのだろうか。文章が違えば、文意は同じでも何ら問題にならなかったはずだ。この記者らは、自分の文章に自信がなかったのに違いない。相手の記事の方がよい表現方法を使っていると思ったのだろうか。盗用うんぬんの前に、それだけで記者失格だ。
またまた誤解を招くのを覚悟で書くと、私も記事の盗用はよくやる( ̄^ ̄)。
盗むのは、昔の自分の文章。私のように狭い分野を専門にしていると、同じようなテーマで依頼が来ることが少なくない。あるいは同じテーマで改めて書く必要ができることもある。
そこで、昔の自分の記事をコピー&ペースト。(これこそワープロの得意技だ。)
それからが仕事の始まり。いかにその文章を換骨奪胎して別の文章にするか。同じ人間が同じネタで書くのだから、知らずに書いても同じ言い回しや構成になることがあるが、それを意識的に変える。順序や時制を変える、修飾語を変える、数字を新しいデータに変える、巻頭に新しい事例を付ける、展開を変える、あげくに論点を変える。もちろん締めも変える。
どこから見ても前の文章とは違うぞ、と思えるまでにするのが大変だ。気がついたら、結論までまったく違うようになっていたりする。前のと逆の結論じゃないか!と気がついても、それはそれでよし。白紙から書くより時間がかかったりする。
これくらいしないと、もし、前の記事とよく似ていると言われたら、それは自分の実力が足りなかったことになる。だから完全否定する(笑)。
幸い、まだばれたことないなあ。
重なるときは重なるものである。
仕事の話だ。暇なときは将来が不安になるほど暇なのだが、重なるときは……1月末を締切りに指定してくる仕事が何本になったのか。しかも、その間に何やら雑用が入り込み、個人的にお勉強しようと思っていた件も入り、楽しもうと思っていたことは、さすがにキャンセルしたものの……。
こんなときに限って、さささ、と仕上げるつもりの仕事も行き詰まる。出だしが決まらない。書き出した部分が気に食わない。あああ、どうすりゃいいのか。
そこで、神社境内の照葉樹の森を散策してきた。森林セラピーの効用や、いかに。これで、何か閃くか……!ブログ並に思いつきで書くべし。
だめだった
でも、頼まれるといやと言えない私ですので、全部受けました(^o^)。ちょっとスリルのある月末を送りそうだ。
「一年の計は元旦にあり」だそうだから、元旦から仕事を始めた
今年はせっせと仕事をしよう、と決心したのである。じゃあ昨年まではしていなかったのかと問われれば……だが、あまり自信タップリに仕事したとは言えない。どうも迷いがあった。とにかく走れば何かが広がると思いなおし、怠け心を追い出して、初心に返ってお仕事します。
それで、このブログも無休で書き込んでいる次第である。
さて、原稿にもどろう。(実は、締切りに追われて切羽詰まっているだけかも……)
今年も最後だから、少し愚痴を(笑)。
今書いているのは、来年出版予定の新書用の原稿である。
新書と言えば、私の世代?のイメージとしては、教養書だった。岩波、中公、現代新書にブルーバックス…。高校生の時代からよく読んだものだ。
だから、執筆でも「教養」を意識してしまい、いかに情報を盛り込むかと考えてしまう。もともと私の本は、詰め込み過ぎとは言われているが、未知の情報の量を競う気持ちがないと言えば嘘になる。
ところが、時代はそうではないらしい。とくに昨今の新書ブームで乱立気味の中では、新書とは一点の情報や意見を伝える誌面となったのではないか、という気がする。
拙稿を読んだ編集者の意見は、これも削りましょう、あれも削りましょう、だ。ウンチクよりは、わかりやすく。それも一般化した分野で、トリビア的な情報は削る。その方が売れると言われれば、不承不承でも従うしかないのか。
教養ではなく、一点の主張を示す場なのかもしれない。雑誌感覚である。だから、新書という枠の中で長く本棚に残るということもなく、週単位で入れ代わる。とくにスタートダッシュが遅い本は、すぐ消える。特集主義の雑誌と同じである。
最近、自分の書きたい分野、興味のある分野が、世間とずれてきたことを感じる。私が面白いと思っても、なかなか世間でそう思ってくれる人は少ない。なんだか致命的かもしれない。
そうは思っても、書かねば世間に問えない。どこまで妥協するか。ここでは妥協して、妥協しない本は別に書くか(でも、それは出版できるのか?)。どうどう巡りしつつ、年末の今もうめいている。