人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

楽しかった鹿児島旅行

2008-06-04 06:35:32 | Weblog
 5月30日から6月2日の予定で鹿児島へ旅行した。目的は特攻基地
であった鹿屋(かのや)や知覧へ行くことだった。憲法が改悪の方向
に向かって久しい。私の地元でも憲法九条を守ろうという会が出来て
いる。会では戦争体験者の話を聞いたり、こうした戦跡地を訪ねている。

 知覧は陸軍の特攻基地があったところだ。戦争末期、あろう事か
日本軍は戦闘機に片道切符の燃料しか積み込まず、爆弾を持たせて
敵艦隊に体当たり戦術をとった。愛国心に燃える若い兵士達が次々と
知覧を飛び立ち敵艦隊に突っ込んでいった。敵艦隊からは神風と言って
恐れられた。

 特攻隊の悲劇は色んな形で取り上げられ、中でも幾つかの映画を
見られた方も多いのではないだろうか。知覧の特攻平和会館には
多くの展示物が残されている。亡くなった兵士の写真と共に彼らが
書き残した遺書や寄せ書きもある。時代が違えばこんな死に方をする
こともなかったであろうと思うと思わず涙がこみ上げてくる。

 戦争遂行者の責任は重い。二度と再び戦争をするような事があっては
ならない。

 さて、ここ知覧には多くの武家屋敷が昔さながらに残されている。
どのような階級の人達の屋敷かはよく分からないが、小さいながらも
各屋敷内には手入れの行き届いた庭がある。
 私たちが訪れたのは五月末から6月初め頃であったから、サツキの
花や庭の木々の新緑が大変きれいだった。また、町並みの先にある山が
借景となり小京都と呼ばれるにふさわしい眺めであった。

 私たちは着いた日に桜島を目の前にした磯邸に行き、指宿に一泊した。
翌日、一部のものは開聞岳に登った。私たち夫婦は別行動の予定も
あったので体力の消耗を避け、登山は断念した。その代わり長崎鼻へ
行き、少し離れた場所から開聞岳(薩摩富士)の素晴らしい景観を
楽しんだ。
 登山組と合流した後、知覧から鹿児島市内へ入った。鹿児島の山々は
緑一色であった。緑にもこんなに幾種類もあるのかというほどの色の
多さであった。

 鹿児島市内で更に一泊し、翌日は城山へ行き、そこで一行と別れた。
私たちはピースボートで知り合った若い女性Yちゃんと久々に再会した。
霧島へ行き市内へ戻って夕食を一緒した。ピースボートでの旅行中、
親しい間柄だったとは言え、こんなに親密に話したことはなかった。
彼女の結婚生活や子育て、仕事の事など色々と話すことは多かった。
 むろん私たち夫婦の近況も話した。また、そう遠くない将来再会する
ことを約束をして別れた。

 翌日は雨であった。思えばこの季節一滴の雨にも遭うことなく三日間
が過ごせた事は奇跡であった。天が味方したとしか言いようのない
お天気であった。さすがに帰る日の朝は雨であった。ホテルの前には
桜島があったが、残念ながら裾野の方しか見えなかった。
 ホテルを10時頃出て、熊本に向かった。再会を約束しながら、
なかなか会えなかったMちゃんに会うためであった。彼女は大学を
卒業後、新聞記者となり熊本に赴任していた。
 熊本は私が社会人となって初めて就職した宇土という町に隣接する
町であった。彼女が熊本に赴任すると聞いて何かしら不思議な縁を
感じていた。

 こうしてMちゃんとの再会も果たし、熊本を後にして一路岡山に
向かった。振り返ってみれば鹿児島を訪れたのは何年ぶりであった
ろう。新婚旅行の時以来である。その時の記憶はほとんど残っていない
が何となく居心地の良い町であったという印象は残っている。
 その印象は今回も変わらなかった。観光地「指宿」に行ったのは
更にそれ以前の事であったから、すべてにおいて変わっていたのだろう
と思われる。変わらなかったのは開聞岳の勇姿だけであったのでは
ないだろうか。その開聞岳も何か木々の生い茂るおとなしい山に変貌
していたように思えるのだが。あれから40年以上の歳月が過ぎている。
何もかも変わっていても不思議ではない。
コメント
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