人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

父の戦争

2008-06-06 06:24:44 | Weblog
 今年はノモンハン事件から70年と聞いている。私の父はノモンハン
事件の数少ない生き残りである。その父もわずかに53才の時、交通
事故で亡くなった。生きていれば89歳だろうか。

 父は生前、酒が入るとノモンハン事件に参戦したときのことをよく
語っていた。私はそんな事からノモンハンやハルハ川という言葉を聞く
たびに生前の父のことを思い出す。

 父は生還した戦友の集まりには欠かさず出席していた。その生存者
は200名近い部隊の中で、わずかに数名に過ぎないと言う、実に
すさまじい戦争であったようだ。

 父は大正6年生まれである。ノモンハン事変のあったのが昭和14年
だと言うから参戦したのは22歳の頃であったのではなかろうか。
広島県の神辺町生まれであったから徴兵検査は福山の連隊で受けた。
五体満足な体は甲種合格であった。

 入隊後まもなく満州に送られた。満州とは今の中華人民共和国の
東北部およびロシア沿海州を含めた北東アジア一帯のことである。
父は満州でノモンハン事件に参戦した。

 ソ連軍の圧倒的な機動力に対し日本軍はわずかな装備だけの肉弾戦
であったようだ。父はソ連軍の戦車部隊を目の前にして首まで蛸壺に
埋まってしまい体の自由が利かなくなってしまった。敵の戦車は目前
に迫っていた。どのようにして這い出したか分からないが気が付いたら
抜け出していたと話していた。

 また、塹壕の中で次々に戦友が倒れていく。敵の機銃掃射による
ねらい打ちであった。戦友の体を踏み越えながら必死で逃げたと
話していた。その時、腕に銃創を負ったと話していた。

 九死に一生を幾度か経験し、奇跡的に生きて帰った。また、敵の
捕虜を将校達が処刑と称して惨殺するのも見たと話していた。まさに
戦争は狂気である。

 こんな悲惨な戦争を誰が計画したのか。それは若い作戦参謀であった
辻正信であった。彼は敵の機動部隊の戦力を考えもせず兵隊を肉弾戦
で向かわせた。その結果、致死率75パーセントというかつてない
犠牲者を出すことになってしまった。

 その辻はあろう事か戦後も生き残り国会議員にまでなった男である。
全く無能としか言いようのない男のために、あたら若い命が多数奪われ
たのであった。

 私の父は奇跡としか言いようのない死線を何度もかいくぐって生還
した。しかし、帰ってみれば戦争に行く前に蓄えていた私財は、すべて
叔父夫婦に奪われ無一文になっていた。叔父夫婦は激戦と聞いて父は
死んだものと決めていたようだ。それ位、国内では激しい戦争だと
報じられていたようである。

 父が戦地で肌身離さず身につけていたお守り札が半分に割れていた
そうである。身代わりになってくれたのだと話していた。

 作戦参謀の辻正信が属していた関東軍は独断専行が多かった。この
ノモンハン事件が、その後の日本を暗示していた。この戦争を契機に
日本軍は太平洋戦争へと続く愚かな道をまるで坂道を転がるように
落ちていくことになる。その見本のような戦争がノモンハン事件で
あった。

 しかし、父は自らを死地に追いやるような戦争であったにも関わらず、
その真の意味も知らずにこの世を去ってしまった。今、あの世で真実を
知ることになったであろうか。戦争とは愚かなるものによって遂行
された狂気と生き地獄である。
コメント
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