稲垣きくの<いながききくの>1906年 神奈川県の厚木
に生まれます。大正初年に横浜に転居。現在の中央大
学横浜山手高校に入学しますが関東大震災で罹災。都
内神田の正則高校に転校します。当時は弁士が語る無
声映画の全盛期。きくのは、岡田嘉子の劇団「同志座」
の門を叩き研究生になります。
「まゆ玉に をんな捨て身の 恋と知れ」<きくの>
きくのは、劇団が提携していた東亜キネマ甲陽撮影所
に入社。露原桔梗という芸名で映画デビューを果たし
ます。やがて、松竹蒲田の撮影所に移籍。無声映画の
脇役として欠かせない存在になりますが、トーキーの
時代となり松竹も大船に撮影所を移転。しばらく、現
代劇で活躍しますが、結婚を理由に退社します。実は、
きくのにとって2度目の結婚。しかし、結婚には至らな
かったようです。
「古日傘 われから人を 捨てしかな」<きくの>
本題に入ります。きくのは、女優時代に神田のYWCA
に通い文学を熱心に学びました。そして、毎日新聞の
俳句欄に初めて応募。選者である長谷川かな女が大絶
賛しました。こうしたいきさつにより、大場白水郎が
主宰する「春蘭」の同人となり鈴木真砂女や岡田八千
代と交流します。
「春眠の あざやかすぎし ゆめの彩」<きくの>
きくのは、恋愛の情念を激しく詠む句が多く、華やか
な女優らしい句風が特徴とされています。しかし、花
鳥風月を詠んだ句も多く、さらに、随筆に至っては視
点が広やかで諧謔性に富んでいます。特に映画や演劇
の論点の鋭さは当然のことながら卓越した印象があり
ます。
「目刺しやく 恋のねた刃を 胸に研ぎ」<きくの>
戦後は、藤沢の鵠沼海岸に居宅を設け、茶道を教える
ことで生計を立てます。久保田万太郎の「春燈」に入
会。やがて、初めての句集となる「榧<かや>の実」を
出版。1966年の句集「冬濤<ふゆなみ>」で俳人協会
賞を受賞しています。1970年には三番目の句集となる
「冬濤以降」を出版しています。
「バレンタインデーか 中年は 傷だらけ」<きくの>
きくのは、夏目雅子や吉行和子に続く女優&俳人の先駆
者といえるでしょう。晩年は姪と千駄ヶ谷のマンション
で穏やかな老後を過ごしたようです。稲垣きくの。享年
82歳。
「夏痩せて ひとりは覚悟 死ぬ日にも 」<きくの>
写真と文<殿>