道の途中、こんな表示があります。
「世界農業遺産 茶草場の里 日坂」。
はて「茶草場」というのはどういう農業方法なのか?
ようやく「箭置坂」=「青木坂」(「やおきさか」と「あおきさか」のほぼ同じ音で混同があった? )という長い上り坂も終わり、少し開けたところに出ます。左手が接待茶屋跡、右手が久延寺。
大正期の峠付近「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」 ほぼ同じ場所の現在。正反対の方向ですが。
(「知足美術館」HPより)
左の写真にある丸い石は「夜泣き石」? 門前の路傍にあった、とのことですが。
「久延寺」境内には、「夜泣き石」と同じ形で、「夜泣石物語」の小石姫(妊婦)を弔うために建てられた供養塔があります。はじめ、門前の路傍にありましたが、昭和40年頃境内に移されたそうです。
伝説 小夜の中山夜泣石
その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。
傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刃研ぎにきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。
文化元年滝沢馬琴の 「石言遺響」より
「夜泣き石(よなきいし)」は、石にまつわる日本の伝説の一つで、全国各地にさまざまな夜泣き石が存在するそうです。
(以下、「Wikipedia」を参照)
大別すると、①泣き声がする、②子どもの夜泣きが収まるとの伝説に分かれる。
中でも静岡県の小夜の中山夜泣き石がよく知られているが、日本各地に存在する夜泣き石の中には、小夜の中山のように殺された者の霊が乗り移って泣き声をあげるといわれるほか、石自体が怪音を出すといわれるものも多い。
日本各地の夜泣き石
泣き声がする
・静岡県掛川市佐夜鹿 小夜の中山峠(夜泣き石) - 身重のまま殺された母が乗り移った石が子を思い、泣くといわれている。
・長野県飯田市 - 水害の時に子どもが亡くなったという言い伝えがあり、夜中になると泣く声がする。
・京都府京都市 八坂神社
・大阪府交野市 源氏の滝
・兵庫県三田市 御霊神社 - 城の庭に召し上げられたが、元あった神社に帰りたいと夜毎泣き、神社に戻されたといわれている。
夜泣きが収まる
・栃木県河内市 法華寺跡地
・和歌山県有田市
夜泣き石のように、石が声を発したり人を化かしたという伝承は各地にある。岡山県苫田郡泉村箱(後の奥津町、現・鏡野町)の「杓子岩」(しゃくしいわ)は、夜に通行人に対して「味噌をくれ」と言って杓子を突き出したという。同県御津郡円城村(現・同県加賀郡吉備中央町)にあった「こそこそ岩」という巨岩は、夜に人が通りかかると「こそこそ」と音を立てたという。香川県琴南町(現・まんのう町)美合の山中の「オマンノ岩」は、近くを人が通りかかると、中から老婆が現れて「おまんの母でございます」と名乗ったという。長野県北安曇郡小谷村大所の「物岩(ものいわ)」は、かつて命を狙われている者が付近を通りかかったとき「殺されるぞ」と声を出し、命を救ったといわれる。
古来から日本人は石や岩を霊的なものとして崇拝しており、そうした霊的な存在は妖怪にとって格好の住処であったとされることが、こうした伝承の背景と考えられている。
付近の案内図。
「命なりけり学舎」(中山地区のコミュニティーセンター)。
来た道を振り返る。
「小夜の中山夜泣き石伝説」にも登場する飴屋さん「扇屋」。。土・日・祝日しか営業しないそうで、閉まっていました。
ちょうど昼時なので、その店先のベンチに座ってコンビニのおにぎりを食べました。金谷駅周辺にはコンビニもなく、ここまで歩いてくる間にも・・・、一カ所くらいあったかな? 出かける前、地元の駅で買っておいてよかった。
目の前が「小夜の中山公園」。西行の歌碑が建っています。
説明板。
西行歌碑 ― 生涯二度目の難所越えに詠む ―
西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。
年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山
二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。
小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。
当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。
西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和55年10月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。
・・・う~ん! どうもしっくりこないモニュメントです。デザイン・造形的にはいろいろな意図が含まれているらしいですが、かなり浮いた印象。
この歌碑は 円位という西行の別名を/ 力強いがまろやかな性格を/ 大木の幹の姿に重ねた年輪を/ 背割り切り口の鋭さに明晰さを/ たて積みの煉瓦に北面の武士の鎧を/ 時々陽光に輝やく真鍮の文字に歌人の心を/ 池水に映る影に再び越える気分を/ 池に囲む玉石に数珠を/ いぶした煉瓦の色は黒染めを/ そして笠を外してひと休みする西行を/ 造形したものです。
せっかくの古道の情緒や周囲の風景を、そしてところどころの歌碑を楽しみながらやっと峠まで来て、これでは「ぶちこわし!」という感じでした(言い過ぎかもしれませんが)。
気を取り直して、先に進みます。振り返りつつ。
しばらく行くと、「この先、犬に注意」との表示。案の定、犬が大声で吠えてきます。
その家の前にいた老夫婦に、
「茶の字がすばらしく身近に見えますね」
「そうです。このあたりからが一番いいかな」
「ところで、あの西行さんの碑は気に入りませんね」
「有名な先生が造ったらしいがね」
「飴屋さんも休みでしたし・・・」
「あそこはうちで管理しているのですよ。ちょっと待って」
観光用のパンフレットをいただきました。
「ありがとうございます。この先からは下りですよね」
「そうです。お気をつけて」
「ところで、さっき《茶草葉の里》ってあったんですが、ちゃ・・・? どういう農法ですか? 」
「《ちゃぐさば》のことか。それは、秋から冬にかけススキなどの雑草を刈り取り茶畑の肥料にする、冬場の保温に役立てる、その刈った後には自然とまたワラビだとか草が生えてくる、そんな自然農法がここあたりの茶畑のやり方なんですよ」
・・・
初めて知りました。さっそく、インターネットで調べてみました。
茶草場農法とは、茶園の畝間にススキやササを主とする刈敷きを行う伝統的農法のことである。この茶草によって、茶の味や香りが良くなると言われている。
静岡県の茶栽培では、秋から冬に掛けて、茶園の周辺にある【茶草場】の草を刈って茶園の畝間に敷く作業が行われている。 夏にはただの草むらにしか見えない茶草場であるが、秋になるときれいに草は刈られ、刈られた草が束ねられて干してある風景を見ることができる。
草刈場。
茶草場で刈り取る草の中で代表的なものは「ススキ」である。ススキは10~20年ほどの長い時間をかけて土に還る。「ススキ」が分解されて出来た土は、手にとるとふんわりと崩れてしまうほどやわらかい。茶草場のある茶畑では、その土で茶の木の根元を覆い、茶栽培が行われている。
世界農業遺産(GIAHS、世界重要農業遺産システム)に認定された「静岡の茶草場農法(しずおかのちゃぐさばのうほう)」では、 高品質な緑茶を生産しようとする茶草場農法によって、秋の七草・ササユリなどの希少植物が守り伝えられ、 人と自然とが共存しながら、豊かな生物多様性の里山が保全されてきました。
(以上、「掛川観光協会」HPより。含写真。)
「茶」の字が遠くに。
しばらく進むと、左手に「佐夜鹿一里塚跡」。
「佐夜鹿一里塚跡」。
佐夜鹿(さよしか)(小夜の中山)一里塚
徳川家康は慶長6年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道に宿駅を設置しました。
その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。
一里塚とは、江戸日本橋を基点にして1里(36町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に5間(約9メートル)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。
ここ小夜の中山の一里塚は、慶長9年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて56里目と云う説があります。
また、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿まで52里30町ですので、この一里塚は52里に相当します。
天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では日坂宿まで54里26町、小夜の中山までは54里2町ですので、この一里塚は54里に相当すると思われます。
東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。
いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。
上の説明ですと、この一里塚は「56番目」か「52番目」か「54番目」か判然としません。「56番目」とすると、一つ前の「金谷一里塚」は「53番目」だったので、二つ欠番が生じてきます。これまでの旅程から、この間で3里の道のりがあったとは思えませんが、説明に従って「56番目」とします。
歩いてきた実感としては「54番目」がふさわしいと思います。この一里塚から約1時間半。「日坂宿」を過ぎ、次の「伊達方一里塚」もクリアした後で合流した「国道1号線」の標記が「(日本橋から)224㎞=約56里=」でしたし、・・・。
ところで、この「佐夜鹿」というちょっと変わった地名。そのいわれは? 特別な・・・
明治初年に佐野新田村、小夜中山村、大鹿村が合併し、それぞれの一文字「佐」、「夜」、「鹿」を採って佐夜鹿村が誕生したからだそうです(な~んだ! )。現在、島田市(菊川側)と掛川市(日坂側)とに分かれていて、どちらの市にも「佐夜鹿」があります。
こういう例は、全国あちこちにあるようです。東京にも。有名なのは「大田」区。「大森」区と「蒲田」区が合体して「大田区」。だから、「太」田区ではありません。
茶畑の中、緩やかな下り坂が続きます。
「小夜の中山 白山神社」。
来た道を振り返る。
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