おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その2。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-09-26 19:19:42 | 日光例幣使街道
宿場入口にある「七面堂」のヒガンバナ。

(9:15)最初の宿場「飯塚宿」。

 かつての屋号を掲げてあるおうちがちらほら。
 

「下本陣」「宮本本陣」。

               ここは「銭湯屋」。

重厚な門構えのおうち。

                               

手打ちそば・うどん「よろず屋」さん。

 このお店の向かいのおうち「矢田貝」さんが「脇本陣」跡、との先達の記事あり。


                 「飯塚宿」の今昔。
    
    
1880年代のようす。              2010年代のようす。下方の旧道は田んぼの中。 

「飯塚宿」を過ぎると、「琵琶塚・摩利支天塚古墳」(右手)の案内板。

この道の突き当たりにあるようです。

 旧道は「杉(?)並木道」だったようで、現在、その跡には新しい樹木が植えられたグリーンベルトが続いています。


(9:31)右手の田んぼの向こうに「琵琶塚古墳」が見えてきます。杉林越しに前方後円墳のかたちが分かります。


                        
琵琶塚古墳
 栃木県小山市大字飯塚にある古墳。形状は前方後円墳。
 栃木県では第2位の規模の古墳で、6世紀初頭(古墳時代後期)の築造とされる。栃木県南部、思川・姿川に挟まれた台地上に築かれた古墳である。
本古墳の南方には同じく大規模古墳である摩利支天塚古墳があり、ともに下毛野地域を代表する首長墓とされる。両古墳築造後も、思川・姿川間の台地の北方では「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が営まれていった。
 栃木県では、古墳時代の中頃から大型の前方後円墳が相次いで築造された。これらの前方後円墳は世代を継承するように築かれていることから、下毛野(現在の栃木県の大半)の首長墓と考えられている。下毛野の首長墓ははじめ県中央部の宇都宮市周辺に築かれていたが、摩利支天塚古墳(5世紀末から6世紀初頭)の築造を契機に、小山市北部から下野市・壬生町へ続く思川・黒川流域が首長墓の造営地となった。
 古墳時代後の奈良時代にも当地は下野の中心地であり続け、下野国庁・下野国分寺・下野国分尼寺が置かれるなど、古代下野国の中心地となった。

(以上、「Wikipedia」参照。)

    
    
    
1880年代のようす。並木が続いている。     2010年代のようす。下方の森が「琵琶塚古墳」、「摩利支天古墳」。

(9:35)前方左右にに「飯塚一里塚」が見えてきます。

                    

 
飯塚一里塚(史跡)
 注:かすれて判読不能の箇所あり。
 「飯塚一里塚」は、江戸日本橋を起点とし、日光に至る日光西街道(壬生通り)の飯塚宿と壬生宿の間に設けられた。
 この街道は、日光東照宮参詣を中心に開かれた街道で・・・使者、日光輪王寺門跡などの要人も多く利用した。特に東照宮例祭が行われた4月中には通行人でにぎわった。
 明治に入り、鉄道の普及にともなって交通手段も変わり、一里塚の必要性もうすれ、消滅するものが多かった。現在、この地から約4キロメートル南に進んだ地点には、「喜沢一里塚」いる。江戸時代の主要街道の様子を今に伝える貴重な史跡である。
    
右の塚。最近、塚上にあった木々などを取り払ったようです。        左の塚。


来た道を振り返って望む。

その先で、「小山市」と「下野市」の市境。「おやまぁ またきてね」。

路傍に咲く「ニラ」の花。

                柿。

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