旧道もほんの少し。県道に合流します。
長い塀が続くお屋敷。
「大野農協前」バス停。
その先を右に曲がります。(この先、ジグザクに南西に進みます。)
大きな建物に沿って右に回ります。「日本ムーグ株式会社」。
右奥に「三菱ケミカル 関東事業所 」。
「東中原」。
市章入り。相模湾の波をイメージしたデザインの左右に 関東三大七夕祭りの一つ湘南ひらつか七夕祭りのシンボルマークを配し、下 には蓋の設置場所名や「SR」「70」「MS」年度等を表す文字と、上には蓋の北方向を示す↑があります。 全ての町ごとに、町名が記入されている。
「第一三共プロファーマ(株)平塚工場 」。
大きな「西友平塚店」。
左が三共、右手は住宅地。
敷地の西側。
敷地内は空き地が目立ちます。工事中の車両もちらほら。
平塚工場は敷地面積266,000m2を有し、1966年(昭和41年)消化酵素タカヂアスターゼの原薬製造工場として操業を開始しました。その後、他工場からの品目移管や新製品立ち上げにより成長を続け、第一三共グループの主力となる製剤工場に発展しています。
(1970年代)まだ工場ができていませんでした。
「中原中宿」バス停。ベンチで小休憩します。
※平塚駅を発着点にし、市内にバス路線網が広がっています。「神奈中(神奈川中央交通)」のバスをいたるところで見かけます。
この角を右に折れて進みます。
畑地と大きなおうち。
広い通りに出ます。右手に「遺跡公園前」バス停。
「中原上宿遺跡」碑。
平野の中でも砂州・砂丘(以下砂丘)に立地した中原上宿遺跡群は、平塚伊勢原新県道新設道路工事に伴う調査で、昭和53年8月から翌年の6月までに実施された上宿遺跡・厚木道遺跡・山王脇遺跡の総称です。ほぼ南北に走る道路は東西に延びる砂丘列を縦断しており、砂丘の生成時期を知る上で貴重な調査でした。長さ約800m、調査面積8,000m2の成果は平塚市の考古学史に残るだけの内容の濃い遺跡です。現在、調査を記念して「遺跡道路公園」として残されています。
ここでは、多くの成果の中から弥生時代にスッポトをあてることにします。発見された集落は弥生時代後期の後半(3世紀頃後半)のムラで、古墳時代直前に位置付けされます。20数年前の考古学の状況では、砂丘から弥生時代の集落が発見されることは想像していいませんでした。それだけ砂丘の実態が把握されていなかったからです。現実に弥生集落が発見されたことにより、砂丘での農耕が弥生後期に始まったことが立証されました。その後の調査では、弥生中期の集落が発見され、確実に砂丘での生活が遡っています。今後の最大の課題は、縄文時代の集落が発見です。というのは、中原上宿遺跡以来、砂丘からの縄文土器が発見されていますので、その可能性が十分にあるからです。
農耕を基盤とした弥生人は着実に耕地を砂丘に拡大しつづけ、来るべき真土大塚古墳を生み出す土壌を創り上げていきました。
インパクトのある珈琲店「高倉町珈琲」。※郊外を中心に展開しているお店。
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