「平塚市マンホール・中原」。矢印は北方向を示す。
足元の表示で東西南北が知れる。
「中原宿高札場跡」。
中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向かう大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。高札場とは幕府などから出された禁令を機の札に書き掲示した場所のことです。「中原御宮記」を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられている部分には屋根がついていました。
ようやく「中原小学校」へ到着します。
相州中原御殿之碑
この地は慶長年間江戸に幕府を開いた徳川家康公が旅のやどりとして造営した中原御殿の跡である。御殿はまたの名を雲雀野御殿ともいい、家康公が鷹狩りや江戸と駿府往来の途次に宿泊した。文献によると文禄元年、肥前国名護屋陣に赴く際中原に止宿したのをはじめとし係わりには深いものがある。中原は御殿の勝地にとどまらずこの地に与えた影響は大きい。江戸時代初期の大住郡の行政、中原御林、中原街道など皆この地より発したという。・・・
「中原御殿」解説文。
・・・御殿が造られたのは、慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説があります。寛永19年(1642)に修復されますが、明暦3年(1657)には引き払われました。その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。
明暦3年(1657)江戸の大火(明暦大火)の後、御殿は引き払われたといわれています。ここから約500㍍南西にある善徳寺の山門は、御殿の裏門を移築したものだとも伝えていますが、はっっきりしません。大正2年(1913)の測量図によると、御殿は東西百間弱(約180㍍)、南北75間(約135㍍)の不整長方形(なお、江戸時代の記録には京間で東西78間、南北56間とあります)で、土堤は高さ3尺(約90㌢)、堀は、幅6間、深さ1丈8尺を測り、要所は石垣が積まれていたといわれ、堀を埋めるとき、たくさんの屋根瓦が出土したといいます。・・・
(1870年代)
御殿地と囲ってある場所が現在の中原小。町はずれに当たる。周囲には畑が広がっている。
(現在)
地名が、かつての「中原下村」から「御殿」に変わっている。
「善徳寺」。
遠くに大山。
「三門」。
・・・この寺の三門は、徳川家康の御旅館中原宿の雲雀野御殿の裏門を移建したものであると昔からいい伝えられているが、如何にも由緒あり気な風格と雅趣を兼備した建造物である。
ここから、旧東海道まで歩いてみようと思います。
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