再び千葉街道に戻って再開。
左手がかなりの高台になっています。
左手上が「花見公園」となっています。
そこに沿うように左手の道に入ります。
この辺りの標高は、3㍍。意外と高い!
旧街道は、しばらく海岸から離れ、海岸段丘沿いに。
立派な瓦屋根のおうち。
大きな建物を建築中。左手は高台。
門構えの立派なお屋敷。
しばらく進むと左手に階段。
「大須賀山」という小山の入口で、上ったところには、馬加(まくはり)=幕張=を支配していた千葉一族の馬加保胤の塚があるとのこと。
解説板。「大須賀山の自然と文化財」。
幕張町は、古くは千葉郡大須賀荘須賀原(おおすかのしょうすがはら)あるいは幕張本郷と呼ばれ、江戸時代以降は馬加(まくはり)村と呼ばれていた。この丘の中腹に大日堂があり、元は独立した寺院だったと伝えられ、御堂があることから堂の山とも呼ばれます。
(自然環境)この丘は標高15m程で、南側は埋立てられるまでは、直接東京湾に面していました。現在でも自然の海岸林が残り、市内では貴重な自然です。林は海風を受け、タブノキを主にスダジイ、ツバキ、ヤブニッケイ、ヒサカキ、トベラを混え、西から東へ林相が変化していく様子が見られます。
(文化財)階段上の右に文政11年(1828)関脇に昇った郷土力士荒馬大五郎(年寄宮城野馬五郎)の供養塔があり、左前方が大日堂で、以前大日如来が祀られていたが宝幢寺(ほうどうじ)に遷され千葉市文化財となっています。またかつて御堂では旧暦2月に天道念仏という踊念仏が行われていた。
左奥の坂上には馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚と伝えられる方形の塚と、その上にその供養のために建てられたという江戸初期の五輪塔があります。
この山は標高15㍍ほどの小山のようです。膝が気になるので、上るのは省略。
1880年代のようす。○が「大須賀山」付近?
2010年代のようす。高台が削られ、一部「花見公園」として残っています(↑)右手の森が「大須賀山」周辺。
この先、小さな橋を越えたら、左折します。
落ち着いた家並みが続きます。
その先で直角に右折します。奥には「子守神社」。
その手前にりっぱなお屋敷が二軒。
しばらく喧噪から遠ざかって、静かな通りを進みます。
左手にある「幕張3丁目公園」。
ここは、馬加代官所大須賀家跡。明治天皇が休憩されたという碑があります。
「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之所」
解説碑。
江戸時代、幕張町は天領として北町奉行所配下にあり、当地にあった大須賀家はその代官所にあてられていた。
当時の建物は昭和43年に千葉市に寄贈され、現在、加曾利貝塚公園の一部に、「代官屋敷」として保存されている。
明治15年、明治天皇が市内中野方面における陸軍対抗演習総督の際、休憩所にあてられたところとしても知られている。
また、音楽家山田耕作が幕張小学校に通った頃、このあたりに見事なからたちの花があり、名曲「からたちの花」が生まれたと言われている。
からたちの花
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。
からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとおる道だよ。
からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
カラタチ(枳殻、枸橘)はミカン科カラタチ属の落葉低木。原産地は長江上流域。日本には8世紀頃には伝わっていたとされる。カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもの。(「Wikipedia」より)
注:現在の「カラタチバナ」とは異なるようです。
(HPより)
左手がかなりの高台になっています。
左手上が「花見公園」となっています。
そこに沿うように左手の道に入ります。
この辺りの標高は、3㍍。意外と高い!
旧街道は、しばらく海岸から離れ、海岸段丘沿いに。
立派な瓦屋根のおうち。
大きな建物を建築中。左手は高台。
門構えの立派なお屋敷。
しばらく進むと左手に階段。
「大須賀山」という小山の入口で、上ったところには、馬加(まくはり)=幕張=を支配していた千葉一族の馬加保胤の塚があるとのこと。
解説板。「大須賀山の自然と文化財」。
幕張町は、古くは千葉郡大須賀荘須賀原(おおすかのしょうすがはら)あるいは幕張本郷と呼ばれ、江戸時代以降は馬加(まくはり)村と呼ばれていた。この丘の中腹に大日堂があり、元は独立した寺院だったと伝えられ、御堂があることから堂の山とも呼ばれます。
(自然環境)この丘は標高15m程で、南側は埋立てられるまでは、直接東京湾に面していました。現在でも自然の海岸林が残り、市内では貴重な自然です。林は海風を受け、タブノキを主にスダジイ、ツバキ、ヤブニッケイ、ヒサカキ、トベラを混え、西から東へ林相が変化していく様子が見られます。
(文化財)階段上の右に文政11年(1828)関脇に昇った郷土力士荒馬大五郎(年寄宮城野馬五郎)の供養塔があり、左前方が大日堂で、以前大日如来が祀られていたが宝幢寺(ほうどうじ)に遷され千葉市文化財となっています。またかつて御堂では旧暦2月に天道念仏という踊念仏が行われていた。
左奥の坂上には馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚と伝えられる方形の塚と、その上にその供養のために建てられたという江戸初期の五輪塔があります。
この山は標高15㍍ほどの小山のようです。膝が気になるので、上るのは省略。
1880年代のようす。○が「大須賀山」付近?
2010年代のようす。高台が削られ、一部「花見公園」として残っています(↑)右手の森が「大須賀山」周辺。
この先、小さな橋を越えたら、左折します。
落ち着いた家並みが続きます。
その先で直角に右折します。奥には「子守神社」。
その手前にりっぱなお屋敷が二軒。
しばらく喧噪から遠ざかって、静かな通りを進みます。
左手にある「幕張3丁目公園」。
ここは、馬加代官所大須賀家跡。明治天皇が休憩されたという碑があります。
「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之所」
解説碑。
江戸時代、幕張町は天領として北町奉行所配下にあり、当地にあった大須賀家はその代官所にあてられていた。
当時の建物は昭和43年に千葉市に寄贈され、現在、加曾利貝塚公園の一部に、「代官屋敷」として保存されている。
明治15年、明治天皇が市内中野方面における陸軍対抗演習総督の際、休憩所にあてられたところとしても知られている。
また、音楽家山田耕作が幕張小学校に通った頃、このあたりに見事なからたちの花があり、名曲「からたちの花」が生まれたと言われている。
からたちの花
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。
からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとおる道だよ。
からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
カラタチ(枳殻、枸橘)はミカン科カラタチ属の落葉低木。原産地は長江上流域。日本には8世紀頃には伝わっていたとされる。カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもの。(「Wikipedia」より)
注:現在の「カラタチバナ」とは異なるようです。
(HPより)
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