おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その2。「谷津遊園」。「谷津干潟」。(房総往還をゆく。第1日目。)

2020-01-16 19:50:16 | 房総往還
                                「習志野市」へ。

京成線の向こうは高台に。かつての海岸線沿いに街道は進む。

「谷津」駅。来た道を振り返る。左手が遠浅の海でした。

1880年代のようす。      2010年代のようす。↓が「谷津」駅。

ここは、かつてあった「谷津遊園」の最寄り駅。

 「谷津遊園」もよく小学校の遠足や家族と来ました。懐かしいところ。

谷津遊園
 大正時代に塩田地として使われていた海岸地帯が、国の塩業試験場などに転用された後、この一帯を埋め立てて娯楽施設に再転用し、1925年(大正14年)に京成遊園地として開設した。その後に谷津遊園と改称されているが、戦時中は遊の字を取って一時的に谷津園と改称されている。また、1931年(昭和6年)から1936年(昭和11年)にかけては、阪東妻三郎によって阪東関東撮影所が開設されていた。
 昭和40年代に南側前面の東京湾が埋め立てられる前までは、近隣の船橋ヘルスセンターとともに潮干狩り・海水浴のできる海辺の遊園地として人気があった。プールもあったことから、夏季には多くの海水浴客を集めた。当時の海岸(干潟)の一部が谷津干潟として残されている。しかし母体の京成電鉄自身の経営が当時悪化したことと、東京ディズニーランドへの経営参画計画により、黒字経営であったものの1982年(昭和57年)12月21日をもって閉園した。実質的には発展的解消と言え、閉園時の従業員のうち、多くは東京ディズニーランドに移籍している。閉園直前に園内のステージで、着ぐるみショーとして「機動戦士ガンダムショー」が上演されていた。
 日本国内初のコークスクリューを含む2機のローラーコースターは、北海道のルスツリゾートに売却。シンボル的存在であった観覧車は数年間放置されたが解体され廃棄された。跡地に日本住宅公団の公団住宅団地(現・都市再生機構谷津パークタウン)が建設されたが、バラ園については閉鎖を惜しむ声が上がったことから、のちに習志野市が買収し「谷津バラ園」として運営している。
 谷津遊園の閉園後、京成電鉄の遊園地事業は三井不動産と共同出資しているオリエンタルランドが引き続いでおり、バラ園の管理運営など園芸・造園事業は、千葉県八千代市内の子会社、京成バラ園芸が引き継いでいる。

 谷津バラ園入口の脇には、「読売巨人軍発祥の地」の碑が残る。
 1934年(昭和9年)に来日したアメリカ選抜チームと対抗するため結成された、東京六大学出身者を中心とした全日本チームがここで練習しそのチームがのちの東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)になった経緯からである。

 読売巨人軍発祥の地記念碑は、昭和9年(1934年)、アメリカ大リーグのオールスターチームと名選手、ベーブルースが来日しました。当時まだプロ野球団がなかった日本は、6大学から選手を選抜して全日本軍を編成しました。両チームの練習場となったのが旧谷津遊園内にあった谷津球場です。この選抜のメンバーが巨人軍の創設メンバーとなり日本プロ野球誕生への歴史的な第一歩となりました。バラ園の入口の脇に記念碑が建立されています。

(この項、「公益社団法人 千葉県観光物産協会」HPより)
駅名の変遷
「谷津海岸駅」→「谷津遊園駅」→「谷津海岸駅」→「谷津遊園地駅」→「谷津駅」。

「谷津遊園」の今昔。

2010年代のようす。「谷津干潟」、「バラ園」は健在。


1970年代のようす。左上に「谷津遊園」。

 それより以前、1880年代のようす。

斜めの道が「房総往還(千葉街道)」。干潟、浅瀬が広がる。

「谷津干潟」の案内。
谷津干潟
 千葉県習志野市にある干潟。国指定谷津鳥獣保護区、ラムサール条約登録地、日本の重要湿地500指定地に含まれる。
 東京湾岸の干潟は、そのほとんどが1960年代から1970年代にかけて埋立地として整備され、工業地や住宅地として開発し都市化が進んだが、習志野市谷津地先の干潟は利根川放水路計画により旧大蔵省の所有であったために埋め立てを免れ、埋立地の中に2本の水路(高瀬川・谷津川)で海とつながる池の様に残された。その後、埋め立ての計画は持ち上がったが、東京湾に飛来するシギ類、チドリ類、カモ類といった渡り鳥の希少な生息地になっていることが指摘され、また保護活動家による重要性の宣伝活動や清掃活動によってその重要性が広く市民の間でも認知されたため、1988年(昭和63年)に国指定谷津鳥獣保護区(集団渡来地)に指定され(面積41ヘクタール、うち特別保護地区40ヘクタール)、さらに1993年(平成5年)6月10日にラムサール条約登録地に登録された。習志野市では、毎年6月10日を「谷津干潟の日」としている。これらの歴史的経緯から、谷津干潟はほぼ長方形という不自然な形状である。さらに干潟の四方は宅地化・都市化が進んでおり、干潟の上には高架橋が建てられJR京葉線、東関東自動車道、国道357号が通っている。北側には谷津バラ園(旧:谷津遊園バラ園)、南側には谷津干潟自然観察センターおよび谷津干潟公園が整備されている。
 サギ類・カモ類・カモメ類などの水鳥が一年を通して見られ、年間を通じて60-80の種類、少ない時でも10-20種類の鳥が飛来する。また、シギ・チドリ類が飛来する場所として全国的に有名でセイタカシギが定着するなど貴重な環境である。これらの水鳥の餌となるチゴガニなどの甲殻類が生息するほか、エイなどの魚類も生息し、アユなど回遊魚の稚魚が生育する場にもなっていると考えられている。
 埋め立て後も非常に多くの渡り鳥が渡来していたが、ラムサール条約登録にあたり大規模な工事が行われ、その後の調査では大幅な激減が確認された。文一総合出版より刊行されている『谷津干潟を楽しむ干潟の鳥ウォッチング』によれば1976年に1500羽を数えたシロチドリは1996年(平成8年)では150羽ほど、サギ類など他の鳥類についても数十分の一へと渡来数は減少した。
 小さな干潟において貴重な餌場が消失した事の影響は大きく、東京湾全体でも渡来数は約半分ほどに減少しているなか、谷津干潟においては数十分の一と大幅な減少が目立っている。
 水質汚濁が原因と思われるアオサの異常発生が問題になっている。アオサの枯死が原因で酸素濃度が低下、干潟の泥に酸素が非常に少なくなり、アサリやヤドカリとゴカイなどが死滅しているのが発見された。これにより、渡り鳥のエサになるゴカイなどが減っているため、渡り鳥にも影響が心配されている。また、水質汚濁をもたらす以前に、多くの人手によって毎年除去が繰り返し行われる。
 保護活動家と呼ばれる森田三郎が、新聞配達のかたわら、1974年(昭和49年)からゴミ拾いを始め、埋立て中止・保護へとなったことが1993年(平成5年)週刊少年マガジンに「埋もれた楽園 -谷津干潟・ゴミと闘った20年-」(作画・三枝義浩)として、漫画化されたほか、2009年(平成21年)2月1日「エチカの鏡〜ココロにキクTV〜」や、同年12月8日「たったひとりの反乱 ヘドロの干潟をよみがえらせろ」で放送された。
(以上、「Wikipedia」参照)

 
(写真は「」HPより)


2010年代のようす。都市化の波の中で希少な自然を必死で保つかのような存在。

(「今昔マップ」より)


この付近で京成線と離れていきます。↓が「房総往還(千葉街道)」。下に「谷津干潟」。

(「今昔マップ」より)←が「谷津」駅。

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