跨線橋「青木橋」を越えると、「京急・神奈川」駅。その先を左手に入る。
「京急神奈川駅」。
JR線と京急線が切通し部分を並行していて、それを越す「青木橋」のたもとにある。開業時はJR線とともに横浜側のターミナルであったが、JR「神奈川駅」が廃止され、京急駅の方も各駅停車のみの小規模な駅となった。駅舎は、歴史のある街にふさわしいものをということで、改築の際、清水の舞台をイメージした、という。
(付)「東急東横線」にも「青木橋」の西側、旧東海道脇の「高島山トンネル」の南側に「神奈川駅」という駅が存在したが、戦後、廃止された、らしい。やはり、この辺りがかつて、横浜港への入口として重要な位置を占めていたことが分かる。
西側・「本覚寺」、「高島山」方向を望む。開港時、本覚寺には、アメリカ領事館が置かれた。
もともとは「高島山」とこの辺りは地続きの丘陵地帯、その縁を「東海道」が通っていたが、JR、京急線を横浜方面に向けて造成したために分断されてしまった。
1890年代(明治中・後期)の頃のようす(「今昔マップ」より)。薄いピンク色の部分が高台(高島山・権現山)。○が切り通し、赤丸が「青木橋」、白丸が「国鉄・神奈川駅(廃止)」。赤い線が「東海道」。
「第2京浜(国道1号線)」と「第一京浜(国道15号線)・旧東海道」と交差点付近にあるバス停「青木橋」。
京急神奈川駅にある「案内図」。上の図は、江戸幕府の道中奉行が作成した「東海道分間延絵図」。中央部分に「滝の川」。
矢印が「(京急)神奈川駅」。
「宮前商店街」入口。
昔のままの通りのようだが、商店はほとんどなく、人通りも少ない町並み。
開港当時イギリス士官の宿舎にあてられた「普門寺」。
「洲崎大神」門前の碑。
神社前から海に向かって延びる参道が第一京浜に突き当たるあたり、そこがかつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。
参道。中央奥が「第一京浜」。その向こうが海になっていた。
お店らしきものは目立たず、マンションなどに変わり、ところどころに食べ物屋さんがあるくらい。
東側の看板。
「幸ヶ谷小学校」の外壁。かなりの高さがある。裏手の「幸ヶ谷公園」と合わせ、高島山から権現山と続く丘陵地帯の一角に位置している。
東海道はその崖下を東北方向に向きをかえ、江戸・日本橋まで続いていた。右手側(東南側)が海になる。
1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←のあたり。
「京急神奈川駅」。
JR線と京急線が切通し部分を並行していて、それを越す「青木橋」のたもとにある。開業時はJR線とともに横浜側のターミナルであったが、JR「神奈川駅」が廃止され、京急駅の方も各駅停車のみの小規模な駅となった。駅舎は、歴史のある街にふさわしいものをということで、改築の際、清水の舞台をイメージした、という。
(付)「東急東横線」にも「青木橋」の西側、旧東海道脇の「高島山トンネル」の南側に「神奈川駅」という駅が存在したが、戦後、廃止された、らしい。やはり、この辺りがかつて、横浜港への入口として重要な位置を占めていたことが分かる。
西側・「本覚寺」、「高島山」方向を望む。開港時、本覚寺には、アメリカ領事館が置かれた。
もともとは「高島山」とこの辺りは地続きの丘陵地帯、その縁を「東海道」が通っていたが、JR、京急線を横浜方面に向けて造成したために分断されてしまった。
1890年代(明治中・後期)の頃のようす(「今昔マップ」より)。薄いピンク色の部分が高台(高島山・権現山)。○が切り通し、赤丸が「青木橋」、白丸が「国鉄・神奈川駅(廃止)」。赤い線が「東海道」。
「第2京浜(国道1号線)」と「第一京浜(国道15号線)・旧東海道」と交差点付近にあるバス停「青木橋」。
京急神奈川駅にある「案内図」。上の図は、江戸幕府の道中奉行が作成した「東海道分間延絵図」。中央部分に「滝の川」。
矢印が「(京急)神奈川駅」。
「宮前商店街」入口。
昔のままの通りのようだが、商店はほとんどなく、人通りも少ない町並み。
開港当時イギリス士官の宿舎にあてられた「普門寺」。
「洲崎大神」門前の碑。
神社前から海に向かって延びる参道が第一京浜に突き当たるあたり、そこがかつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。
参道。中央奥が「第一京浜」。その向こうが海になっていた。
お店らしきものは目立たず、マンションなどに変わり、ところどころに食べ物屋さんがあるくらい。
東側の看板。
「幸ヶ谷小学校」の外壁。かなりの高さがある。裏手の「幸ヶ谷公園」と合わせ、高島山から権現山と続く丘陵地帯の一角に位置している。
東海道はその崖下を東北方向に向きをかえ、江戸・日本橋まで続いていた。右手側(東南側)が海になる。
1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←のあたり。
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