おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

葛飾。貝塚。丸山(飛地)。武蔵野線「船橋法典」駅~北総線「千葉ニュータウン中央」駅。その1。(「木下街道」をゆく。第2日目。)

2020-11-13 18:50:21 | 木下街道

              10/31(土)。晴れ。「木下街道」二日目。船橋法典駅から。

その前に、

「船橋法典」までは京成線「京成西船」駅から徒歩でJR「西船橋」駅に向かい、武蔵野線に乗ります(前回は「南行徳」までは東西線)。この「京成西船」駅は、かつては「葛飾」駅でした。このホームに「葛飾」大きな解説板が設置されています。

葛飾の地名とその由来

「葛飾」は、万葉集にも載るゆかしい地名で、葛(くず)が繁茂した豊かな土地の美称であり、昔の「下総国葛飾郡」一帯(千葉、茨城、埼玉、東京の各都県にまたがる)の呼称でもあった。

この辺りは、平安時代の書、和名抄にも「葛飾郡栗原郷」と記され、駅の東方、印内台地上の遺跡からは、古墳時代より奈良平安時代にかけての集落跡が見つかり、西側、東中山駅寄りの本郷台遺跡からは、奈良平安時代の墨書土器二百余点が出土して注目された。

これらは古くからこの地域が、葛飾郡の中でも主要な土地であったことを物語っている。なお、「東京都葛飾区」など江戸川西岸地方は、中世頃から「葛西領」といわれたところである。

降って明治22年の町村制施行にあたって、近隣八か村(西海神、山野、印内、古作、寺内、本郷、二子、小栗原)が合併し、郡総社として一千年の歴史を持つ、「葛飾大明神」の社号をとって村名を「葛飾村」とした。

葛飾村は昭和6年に「葛飾町」となり、昭和12年4月合併して船橋市となった。

その後、葛飾町役場のあった大字寺内が船橋市「葛飾町」となり、昭和41年の新住居表示実施まで続き、今も一部残っている。

この駅は、大正5年12月京成電鉄が船橋まで延長した際、その地名をとり「葛飾駅」として開設した。永く親しまれた駅名も駅周辺地域が近年、主に「西船」の名称に一般化したことなどから昭和62年4月1日「京成西船」と改称した。

駅付近には、村名の基となった「葛飾神社」をはじめ、戦後、永井荷風の随筆「葛飾土産」で有名になった史跡「葛羅の井」、万葉の歌に因んだ「勝間田の池」(現、勝間田公園)、江戸時代初期の地頭成瀬氏および、尾張犬山城主となった成瀬氏の墓所のある「宝成寺」がある。また、伝統ある市立葛飾小・中学校もある。

数々の史跡、伝承を訪ね、山蔭の古道をたどれば、四季折々の美しい自然に恵まれたかっての「葛飾の里」を偲ぶことができる。

変貌著しい時代、ここに古い由緒を持つ「葛飾」の沿革を記す。

昭和63年4月1日

貴重な解説なので、掲載します。

左手にあるお屋敷の私道。安川家(私塾安川塾跡)

安川塾

安川内蔵之助が1817年(文化14年)に、下総国葛飾郡藤原新田村(現在の千葉県船橋市藤原)に開いた寺子屋である。又の名を安川舎とも呼ばれた。

1872年(明治5年)に、明治政府学制を交付し、法典小(現在の船橋市立法典小学校)が誕生するまでの間に、896人が入塾し、学んだ。塾長は安川家の当主が代々勤め、初球の読書習字算術から、中級の四書五経国史日本外史史記左伝まで教えていたという。文化8年(1811)の開塾で父子5代にわたって近隣村々の子弟の教育に尽くした。(「Wikipedia」より)

「貝塚道」バス停。南東方向に「前貝塚」町があります。

・・・今回紹介する前貝塚・後貝塚(旭町)も、縄文時代の貝塚があることから付いたと考えられる村名である。
 前貝塚の貝塚は塚田小学校東方と旧集落北西の墓地周辺にあり、後貝塚の貝塚は熱田神社の東南にある。いずれも縄文時代中・後期(約五千~三千年前)の貝塚と推定される。
 地名の「前」「後」は海側から見た位置で付けられているから、かなり古い時期の地名であろうが、起源は不詳である。船橋・鎌ケ谷地方には、この外にも貝塚に因む地名が何ヶ所かあるが、江戸時代の村名になったのは、この両村だけである。
 前貝塚・後貝塚とも現在に続く集落の起源は、古代~中世のある時期であろうが、現時点では想像の域を出ない。室町時代には両地区とも中山法華経寺の影響を受け、日蓮宗地区となったようである。
 江戸時代には前貝塚村は幕府代官領、後貝塚村は旗本遠山氏の知行地とされた。明治二十二年に塚田村が成立すると両村はその大字となった。
 やがて昭和十五年の船橋市新町名設定の際、前貝塚は前貝塚町となり、後貝塚は旭町と改称した。「旭」は鎮守熱田神社の祭礼日の十月九日からとったのだそうである。地名の「後・下・裏」字は敬遠されるようになったという典型例であろう。旭町は平成三年住居表示により旭町一~六丁目となった。

 
 
(この項「船橋市西図書館/船橋市デジタルミュージアム
ふるさと船橋の地名を知る ふるさとの地名(改訂版) ――船橋の地名の由来を探る――江戸時代・明治初期の村名」より)

(「」HPより)

※上図で「銚子道」とあるのが、「木下街道」。

「梨園」。

農地が広がっています。

大きなおうちも。

左手に東武線「馬込沢駅」。

1880年代のようす。

2010年代のようす。道筋はほとんど変わらず。

ここも大きなおうち。

「丸山道」バス停。

丸山(まるやま)

千葉県船橋市の地名。周囲を鎌ケ谷市に囲まれた船橋市の飛地藤原と同じく、江戸時代延宝年間に新しく開かれた新田集落であり、藤原と同様に行徳と深いつながりがある。明治時代になって法典村に属し、大字となった。やがて1937年に船橋市が誕生し、1940年に新町名が設定された際、丸山町に変更、1976年には、住居表示が実施され、丸山1~5丁目に変わった。

地名の由来

丸山の地名は、馬込沢あたりから見た場合、台地が丸い山のように見えるので名づけられたという。ただ、丸山地区は、平面的にも丸い形で飛び出ているので、丸い台地の意から名づけられたとも考えられる。

(この項「Wikipedia」参照)

飛地(とびち、飛び地

一つの国の領土や行政区画、町会等の内、地理的に分離している一部分である。土地の一部が「他所に飛んでいる」と見られることからこう呼ばれる。(「同」より)

バス停から西北にある町の名。

(「今昔マップ」より)


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