おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

箱崎公園。旧箱崎小。都立日本橋高校校舎。小転校。(震災復興52小公園。その20。)

2013-12-16 20:24:49 | 震災復興小公園

④箱崎公園(旧箱崎小)
奥に見えるのが、区立箱崎小→都立日本橋高校→水天宮ピットの建物。
公園の西側から旧校舎を望む。公園は、首都高箱崎インターに近く、複雑に高速道路の橋脚があり、すぐ南には、IBMの高層ビルなどが建ち並ぶ地域にある。そうした喧噪を忘れさせる児童公園風の空間になっています。夜には、クリスマスツリーなどのイルミネーションが点灯するようです。
土曜日に訪れたせいか、家族連れがちらほら。平日の昼休みなどにはサラリーマンなどで賑わうような印象。
学校、公園を再整備したために、公園と校舎区域とは関連がなくなっているようだ。
公園の一角にある「吉田松陰像」。
 説明板によると、

 現在の水天宮ピットの場所が、旧東京市箱崎尋常小学校として使われていた昭和12年(1937)の末、当時6年生の児童であった岩井光子さんが病気で亡くなった。
 光子さんは成績優秀なうえ、特に吉田松陰の生き方に深く感銘を受けており、亡くなる前に自分の貯金で、学校内に吉田松陰の銅像を立ててくれるよう両親に遺言を残した。
 両親は生活が苦しい中でこの遺言を実現し、昭和13年(1938)3月22日に除幕式が盛大に催された。当時この話は教育美談として東京日日新聞に表彰され、時の文部大臣や東京市の関係者など多数が参列した。吉田松陰像は竹山蘭山が製作するとともに、話に感銘を受けた当時の海軍大将高橋三吉が台座の「松陰先生」の文字を揮毫した。
 昭和19年(1944)4月、小学校は全自動が戦火を逃れるため疎開したのち廃校となったが、吉田松陰像は同じ場所で日本橋箱崎町の変遷を見守り続けてきた。
 平成22年度に都立日本橋高校の移転と箱崎公園改修工事にあわせ、吉田松陰像をこれまで以上に町の方々に親しんでいただくため、この場所に移設することとなった。 平成23年(2011)3月


「水天宮ピット」正面玄関。

 この建物・校舎には、最近まで「日本橋高校」があった。そこには、興味深いいきさつがあるようです。

《都立日本橋高校の場合》
1940年1月12日 - 府立十七中学校設置認可(府立七中(現・墨田川高)内)
9月13日 - 敷地の決定(葛飾区亀有一丁目1765番地外58筆)
1942年1月31日 - 府立葛飾中学校と改称
10月1日 - 府立第二化学工業学校跡に移転(東京府東京市向島区寺島町三丁目106番地)
1943年7月1日 - 都制実施に伴い都立葛飾中学校と改称
1944年4月1日 - 旧日本橋区立箱崎小学校(旧校舎)に移転(東京都日本橋区箱崎町三丁目1番地)
1947年2月6日 - 都立日本橋中学校設立決定(中央区箱崎町三丁目1番地(従来の都立葛飾中学校内において))
4月1日 - 都立日本橋中学校開校(東京都立葛飾中学校の教職員・生徒及び卒業生を引き継ぐ)
5月24日 - 校章制定
1948年4月1日 - 都立日本橋新制高等学校と改称、夜間定時制課程を設置
1950年1月28日 - 都立日本橋高等学校と改称
2009年4月1日 - 東京都中央区日本橋箱崎町18-14墨田区八広・東京都立向島商業高等学校敷地内へ移転


《都立葛飾野高校の場合》
1940年1月12日 - 東京府立十七中学校として府立七中(現墨田川高校)内に設置。
1941年6月30日 - 敷地を現在地(葛飾区亀有1-1765)に決定。(※日付に違いあり。)
1942年1月31日 - 東京府立葛飾中学校と改称。(※「寺島」に移転の記述なし)
1943年7月1日 - 東京都立葛飾中学校と改称。
1948年4月1日 - 東京都立葛飾新制高等学校と改称。(※同じ校舎に「日本橋」と「葛飾野」が存在した?)
1949年2月7日 - 移転先の日本橋から新校舎に移転完了。この日を創立記念日とする。
1949年4月1日 - 東京都立葛飾高等学校と改称。
1950年1月28日 - 東京都立葛飾野高等学校と改称。

(どちらもそれぞれのHPによる)。

 ということは、「府立十七中」は二つに分かれた、それとも最初から「二つ」あったということ? 
 「府立葛飾中」が日本橋への移転に伴って、地元の地名に基づいた名称「日本橋」になり、2年後、当初の建設予定地・葛飾区亀有に新校舎が完成、移転した時が「葛飾」、後「葛飾野」の創立記念日となっています。
 その後、幾星霜を経て、「日本橋高校」が「葛飾野高校」と同じ、隅田川以東の下町地域に移転してきたことで、ようやく(再び)双子の「旧制府立十七中」になった、ということになります。

 「日本橋高校」は、かつては「小転校」と言われ、小学校の校舎を転用していたために、狭隘な敷地でいろいろ教育活動に支障があった、それが墨田区内に移転したことで新たな学校づくりが進むことになりました。

震災復興校舎の特徴である正面入口の庇。
東側と南側は、新しくタイルを貼ってあるが、西側の部分などはかつてのままの校舎・外形になっている。


 現在、コの字型の校舎すべてが残っているわけではなく、西側にあった校舎はありません。

 基本的には、台東区立東浅草小(旧待乳山小)や旧柳北小の外形と似ています。
「東浅草小」。しっかりした鉄筋造りで、築85年とは思えない現役校舎。
「柳北小」。南側からの眺め。ここも再利用・活用されている。
すぐ北にある「箱崎湊橋通り」。「湊橋」は、「日本橋川」に架かる橋の名。
首都高橋脚に囲まれながら、二階建ての民家や神社がある、昔ながらの一角。

 中央区内の復興小学校校舎の現状と今後の方策に関する資料の一部を以下に掲載します。

 平成23年3月で 5校(明正小、阪本小、常盤小、城東小、泰明小)を残すのみとなっています。 校舎以外に転用された事例は、十思スクエア(旧十思小)、京華スクエア(旧京華小)、水天宮ピット(旧箱崎小→都立日本橋高校)の 3校があります。

・・・
 復興小学校の価値として日本建築会からは以下3点が指摘されています。

(1)小学校教育に関する東京市の理想高さを示す建物としての価値
・大地震にも耐えうる「絶対耐火耐震」を目標とした構造計画としました。
・環境面および衛生の向上のために、蒸気式暖房設備や自動水洗便所を備えた最新の設備計画としました。
・緊急時における児童の避難も考慮し、廊下や階段の幅を従来より広くしました。
・採光通風を重視し窓の面積大きく、また室内換気考慮して天井を高くしました。特に明るさを必要とする図画教室や屋内体操場にはトップライトも設置しました。
・校舎の配置はコ字型平面を基本として、南向きの校庭は、土埃発散防止と水はけ改善するために、タールを主成分とした当時の新材料であった防塵舗装を採用しました。

(2)表現主義的な外観デザインによる建築の秀作としての価値
・既成の規範にとらわれず、建物の平面や造作の細部などに曲線をよく用い、建築物の・開口部にアーチ形を多用するなど、当時のヨーロッパで見られた新建築の流行に影響を受けた自由な造形が用いられました。表現主義建築とも呼ばれています。
・平面計画、架構形式、および各部の寸法には統一規格に倣っていますが、一方で外観のデザイン(建物の立面)についてはそれぞれ個性をもたせました。

(3)小公園の付設や避難拠点として位置づけにみられる都市計画的な価値
・都心部に建てる小学校地が狭隘であため、それを補うために小公園を隣接してつくり、かつ非常時の避難場所としても使えるようにしました。
・校舎と小公園が一体化し、周辺地域のアイデンティティをかたち作るランドマークとして、豊かな都市空間を形成しています。

(「第1回明正小学校改築準備協議会資料(平成23年3月18日)株式会社文化財保存計画協会 http:/www.city.chuo.lg.jp/kosodate/kyouikuiinkai/kyogikai/siryou2.pdf」‎より)

 以上、震災復興小公園・小学校についての歴史的な価値についてまとめられていました。


1870年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「箱崎町三丁目」と記されている上あたりが旧箱崎小。左に「湊橋」。右下には「日本銀行」創業の地。
「日本銀行創業の地」の碑。永代橋西詰付近。
 碑面には 「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられています。
碑文 日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

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