おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

汐入の渡し。汐入水門。橋場の渡し。・・・(隅田川の渡し跡をたどる。その1)

2012-11-05 21:52:48 | 隅田川

 ということで、今回は隅田川の渡し跡を訪ねて+&。千住汐入大橋から吾妻橋まで隅田川のテラス沿いに探索、ついでに隅田川をはさんで東西の隅田公園。さすが江戸の大川(隅田川)。明治末期に開削された荒川(放水路)と比べて、古今の見所がけっこうあります。今回は、「白髭橋」まで。
明治13年頃の地図。隅田川をはさんだ千住の宿。千住大橋から汐入大橋付近。隅田川の水路が極端に曲がり、汐入地区付近は湿地帯で、常に水害の被害に見舞われていたことが推測されます。
「千住汐入大橋」。
・汐入の渡し
 現在の千住汐入大橋付近にあった。1890年(明治23年)から1966年(昭和41年)まで汐入(現在の荒川区南千住八丁目)と千住曙町の鐘淵紡績会社を結び、工員たちの通勤用として運行されていた。隅田川で最後まで運行されていた渡し、とのこと。

1966(昭和41)年当時の汐入地区のようす。右中央付近が、その後架けられた「千住汐入大橋」。右上から流入しているのが「綾瀬川」。下端の橋が「白髭橋」。「汐入水門」も見える。遊歩道沿いにあった案内板をたてよこ修正。「水神大橋」は、上中央付近に架設された。「千住大橋」から「白髭橋」の間に二つ架橋されたことになる。
下流を望む。「水神大橋」付近。
「水神大橋」西詰付近の物見塔?
・水神の渡し
 現在の水神大橋の100mほど下流にあった真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた渡し。
 
 この付近は再整備されて、「スーパー堤防」となっている。
この地域の再開発事業についての解説板。
「旧防潮堤」。「汐入」という地名のごとく、0㍍地帯で水害に悩ませられていた地域。
「水害防止」のため、かつてはカミソリ堤防として、隅田川の水面と人との関わりを阻んでいた。今でも上流付近に残っている。
整備記念のモニュメント。
「水神大橋」を望む。
河口より10㎞の地点。
「汐入水門」跡。
 この水門は「隅田川貨物駅」構内に掘り込まれた運河の水位を調整し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、1953(昭和28)年に建設された。「隅田川貨物駅」は1897(明治30)年に石炭(常磐炭鉱)の集散地として開設された。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのために運河が造られた。
コンクリート製の構造物が残っている。
水門跡から隅田川を望む。この付近は大きく変貌し、高層マンションの他、大きな公園が出来ている。
隅田川下流を望む。
対岸・綾瀬川合流付近。左手に「伊澤造船」が見える。
野鳥の群れ。いっときの、濁り悪臭を放って魚も鳥も人も近寄れなかった隅田川。見違えるほどすばらしい景観になりました。
「白髭橋」。
・橋場の渡し
 「白鬚の渡し」とも称される。記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い渡し。現在の白鬚橋付近にあった。律令時代より制定があり、承和2年(835年)の太政官符に「武蔵国と下総国の国境の住田河(隅田川)には現在4艘の渡し舟がある。岸は崖で広く、橋が造れないので2艘から増船した」と書かれたものが残っており、この「住田の渡し」とはこの渡しと想定されている。
 奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。
 


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