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「桑名市博物館」を過ぎ、通りを渡った先で左折します。桑名宿内の道標は間違うことがないよう、曲がり角や要所要所に立てられ、道も旧東海道が識別できるように色塗りされています。
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指差し表示の道標。
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江戸時代、旧東海道筋(場所不明)に建てられていたものを移設しました。 桑名市博物館 寄贈 小池重男
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街道筋らしい町並み。
ここにもありました「指差し道標」。
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広い通りを渡ります。「くわな石取祭」の幟があちこちに。
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お祭りも間近。太鼓の練習の音もどこからか聞こえてきます。
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吉津屋見附跡
江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。のち鍛治町として独立したので、鍛治町門(または小字名の七つ屋門)と言う。ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。
上の説明のように、この説明碑を右折し、
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その先の角を左折、さらに左折し、写真正面の通りとなります。
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いかにも棒鼻・曲尺手の名残のような道の形。
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その先を右に曲がります。角に「いもや本店」。
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すると、どこからかおやじさんが飛んできて、「そっちの道でいいんだよ」「暑いから水分補給に注意してよ」「店の中の写真をとってもいいよ」「いや、携帯ですので・・・」「そうかい」「今どきこんな店ないからねぇ」・・・。
では外の写真を1枚。おじさんしっかり写っています。
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ハジキ、コマ、ゲイラ、宝箱、くじ引き、・・・ 実にユニークなお店のようです。
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泡州崎八幡社の由来
江戸時代以前、桑名の町中は、町屋川の流れにより自凝(おのころ)洲崎、加良(から)洲崎、泡(あわ)洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。・・・
境内に天保13年(1842年)新町北端に建立されていた導石 「右きゃういせみち」 「左ふなばみち」がある。
「洲崎」という地名は、江東区東陽町(元禄時代の埋め立て地)などにもあります。河口付近の三角州のような地形を言うのでしょう。現在では、海岸線は遠くになっていますが、この神社の南東側一帯は海抜0~-1㍍ほどです。
街道の右側(西側)沿いには神社・仏閣が軒を連ねています。しばらくそんな道を進み、通りを横断、広い通りに出て、「日進小学校」の先を右に入ります。曲がってすぐの右手に、
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広瀬鋳物工場跡
江戸時代のはじめ、城の建設などのため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。この工場では梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。現在は個人の住宅となっている。
その先には、「天武天皇社」「梅花仏鏡塔」などが続きます。足元のマンホールには、「七里の渡し」。
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しばらく西に向かい、「矢田町」交差点で「国道1号線」を横断します。「桑名」駅から「七里の渡し」跡に向かう途中で横断して以来の「国道1号線」との遭遇。
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これまで何回も出会ってきた「国道1号線」とはずいぶん趣を異にし、道幅も狭く。車も激しくなく・・・。
突き当たりを左に曲がります。
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角に「火の見櫓」。ここに「矢田立場」の解説板。
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矢田立場・福江町
江戸時代の矢田町は、東海道の立場(宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所)であった。『久波奈名所図会』には、「此立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無き事なし」とある。福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成3年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。
福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、宿屋の人たちが集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。
桑名市・桑名市教育委員会
やじるし入りの道標が随所に立っていて安心です。
静岡県内はほぼ東から西へ、愛知県に入って南から北への行程でしたが、この辺り、「東海道」はしばらく北から南への歩みとなります。
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江場杉原跡
七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が立ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海がみられた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが現在は家が立ち並び、一本の松も残っていない。
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かなり頻繁にお目にかかる。「東海道」を行き来する人にとっては目印的存在? 今も健在です。
こうして炎天下をひたすら歩き、「国道285号線」をくぐります。
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と、左手にこんもり茂った藤棚。助かった! 入れそうなのでその下でしばし休憩。
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「玉喜亭」・安永の藤
ここは安永の里 玉喜亭のふじは樹齢約二百数十年を経ており、春は近在の人々の花見で賑わい、根の張ったふじの幹は地震の時、住人の集結場所であったと伝えられている。この地は、東海道の往還にあるので、人馬の休息所とされていた。常時使用された「お馬口御洗水」の高札が向かいの母家に残されている。・・・
平成3年4月吉日 安永ふじの里 玉喜亭
少し藤棚の下は薄暗いので、古びた説明板を撮るも、かなり判読不能でしたが。
料理旅館 玉喜亭(たまきてい)
東海道中膝栗毛の中に「旅人を茶屋の暖簾に招かせて、のぼりくだりをまち屋川かな」とでてくる桑名七里の渡から約1里の旧東海道沿いに創業以来200有余年、旅人の心を和ませてきた藤の里。5月には色艶やかな「藤の花」を眺めながら蛤料理をはじめ四季折々の料理をお楽しみいただけます。60名様まで収容可能な大広間から小人数の離れ座敷までご用意いたしております。ご宿泊にご宴会にぜひ「玉喜亭」をご利用下さい。
(
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季節外れで、さらに庭の奥の方にはいけませんでしたが、なかなか趣のある(真夏の炎天下を歩いて来た旅人には、一服の清涼剤です。
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来た道を振り返る。
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その先の角には、
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伊勢両国常夜燈(いせりょうくうじょうやとう)
この常夜燈は、文政元年(1818年)に東海道のみちしるべとして、また伊勢神宮への祈願を込め、桑名・岐阜の材木商によって寄進されたものである。石工は桑名の根来市蔵(ねごろいちぞう)とある。
安永は、町屋川(員弁川)の舟運や東海道の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、この常夜燈ははその頃をしのばせる遺物である。
・・・
平成27年 桑名市教育委員会
突き当たりは「町屋川」の土手。そこに「東海道五十三次 町屋橋跡」の説明板。「広場」になっています。
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東海道五十三次 町屋橋跡
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集っている所)であり、また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。
この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永12年(1635)にはじめて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったり、しばしば変わっている。下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように橋がやや広くなっていた。
昭和8年(1933)、国道一号線の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。
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