おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

縄生一里塚。伊勢朝日駅。朝明川。シーボルト。・・・ (「桑名」駅から「内部」駅まで。その4。)

2015-08-05 19:46:44 | 旧東海道

「町屋橋」を渡って右に折れ、その先を左に曲がります。

 橋詰の右手に「文学のなかの町屋川と橋」と題する解説板があります。町屋橋の付け替え機に周辺整備したときに作られたもの。

         

・「一目玉鉾」井原西鶴 元禄2(1689)年刊
・「東海道名所図会」秋里籬島 寛政9(1797)年刊
・「伊勢参宮名所図会」蔀閨月 寛政9(1797)年刊
・「東海道中膝栗毛」十返舎一九 享和2(1802)~文化6(1809)年刊
それぞれの作品の中に出てくる「町屋川」付近のようすを抜き出しています。ご当地名物の「蛤」焼きなどが登場する。

 さらに、朝日町出身の俳人・中村小松(明治~昭和)が詠んだ町屋橋・町屋川が11句挙げられています。

桑名側を望む。正面の大きな木付近が旧街道。

「東海道」。左に折れる。

「朝日町縄生(なお)」。

 左手に「山口誓子」の句碑があるはずですが、見逃してしまい、「朝日町」の公式HPより拝借。
      

昭和25年10月建立。 山口誓子の筆跡で、「露けさよ祷りの指を唇に触れ 誓子」と刻まれています。

ついでに大正期の縄生・東海道のようす。道幅は変わっていないようです。

    
               「縄生一里塚跡」。日本橋から97里目。

来た道を振り返る。
                    写真の右手先のたばこ屋さんのところに「山口誓子句碑」がある。

「東海道」。

「安達本家酒造」。

そのまま進むと「伊勢朝日」駅。線路の向こうに「東芝三重工場」。



近鉄線・伊勢朝日駅。

 12時15分過ぎ。改札口脇のベンチで昼食休憩。暑い!

 さて再開。駅前の広場に「旧東海道」の道標や解説板があります。

    

 一見、無造作に置かれてあるが、よく見ると古瓦に彫ったもの、鬼瓦などあって、面白い。ただし、瓦に彫りつけたものなどは不鮮明で、判読不能なのが残念です。



    

蛤を焼いている絵があります。

これは広重のもの。
      HPより
 
 「朝日町」は、町民の半数が「東芝三重工場」に関係している、らしい。また、「伊勢朝日」駅付近は、町の中心で、東海道五十三次沿いの小向立場のあったところで、焼き蛤の小向茶屋があった、らしい。宅地開発等で人口が急増している、らしい。

その先、左に樹齢300余年の「榎」があります。

    

 榎  推定年齢 約300年余  この木は東海道の並木として植えられていたものです。並木は、松の木がおなじみです。この朝日町地内も同様でした。ところが、こうした雑木に類するものも混じっていました。
 松は、太平洋戦争末期、松根油をとるために痛めつけられたり、その後の松くい虫の被害などによって、あとかたもなくなってしまいました。
 もしこの木が話せたならば、私たちに、この街道や村で起こったことをたくさん語ってくれることでしょう。 

    

 しばらく進むと、「橘守部誕生地」の解説板。

    

<三重県指定遺跡>橘守部誕生地遺跡

 橘守部(1781~1849)は、江戸時代後期に活躍した国学者です。守部は、伊勢国朝明郡小向村(現朝明町小向)の大庄屋格であった飯田長十郎元親の長男として生まれ、十七歳で江戸へ下り学問を志しました。二十九歳の時、武蔵国葛飾郡内国府間村(現埼玉県幸手
市)へ転居し、四十九歳で再び江戸に戻り、地庵と号しています。当時、国学者の多くが本居宣長の門人であった中で、ほとんど独学で国学を学び、独自の学説を展開した守部は異色の存在であり、平田篤胤、香川景樹、伴信友とともに天保の国学四大家に数えられて
 います。『稜威道別』『稜威言別』など多数の著書があり、嘉永2年(1849)六十九歳で没しました。お墓は、東京都台東区向島の長命寺にあります。

「東海道」の標識に沿って左に折れます。

 さえぎるものもない炎天下を進んでいくと、やがて正面に「伊勢湾岸自動車道」の高架が見えてきます。その手前、道の脇に木のベンチを見つけ、ほっと一息。道の両側は桜並木になっています。周囲は、田んぼ。

    
                                       来た道を振り返る。

遠くに見えるのは、「伊勢湾岸自動車道」の橋脚。

    
          「柿」交差点の手前右、「伊勢湾岸自動車道」沿いに、「多賀神社の常夜燈」。

 弘化3年(1846)に作られたもので、昭和46年、街道から30メートル西に移設されました。「多賀神社常夜燈」「五穀成就」と刻まれている、とのこと。

高架下をくぐり、「朝明橋」を渡ると四日市市。

    
                               「朝明川」。
 
 「橋」の南詰が小さな広場になっていて、「四日市」市へ入ったことを教えています。

    

 広重の浮世絵とともに、「ここから四日市  ここは四日市の 東海道 北玄関 松寺」と大書。さらにシーボルトと四日市の関わり、昔の「朝明橋」の写真が載っています。
 ただし、広重の「東海道五十三次 四日市宿」は、もっと先、宿場入口付近の「三滝橋」を描いたとされています。

現在の「朝明橋」。

 シーボルト
 1823年シーボルトはオランダ商館付の医師として来日。
 1826年オランダ商館長の江戸参府に随行。
 1826年(文政9年)2月15日早朝長崎出島を出立し、3月27日夜遅く四日市に着く。翌28日5時過ぎには立ち、沿道のナタネが植えてある稲田、麦畑を見、まだ雪のおおわれた鎌ヶ岳、御在所岳を眺めている。
 富田で休憩し、9時ごろこの朝明川を渡って広々とした稲田の平野がひらけている光景を楽しんでいる。
 すなわちシーボルトは1826年3月28日9時ごろ東海道松寺を江戸に向かって歩いていった。

 (シーボルト江戸参府紀行より)

 また、「力石」が展示されています。

力石(ちからいし)

 この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶屋「橋南(はしみなみ)のつる」の主 大久保つるが後世に残したものである。
 石には「二十七メ」と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100㎏)と想像される。北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に保存されているものである。
 東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。又この辺りの地名を「茶屋の前」と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。
 
 力石について 四日市大学 高島愼助教授により平成20年12月に鑑定されている。  大久保隆氏所蔵
                  
     松寺連合自治会


 この広場は地元の方々によって整備されたもののようです。

「松寺の史実知って」広場整備 松寺連合自治会

 歴史記した看板、江戸時代の「力石」も

 江戸時代にシーボルトが東海道で江戸に向かう際、この地を通ったという歴史的記述が残る、四日市市松寺地区。東海道を散策する人にその史実を知ってもらおうと、松寺連合自治会は、地元の歴史を記した看板などを整備した「いこいの広場」を作り上げた。
 同地区は東海道の桑名宿と四日市宿の間、朝明橋の四日市宿側に位置する。江戸時代から同地区には茶店があったというが、2013年に最後の店が取り壊されて以来、約180平方メートルの土地が空き地となり、荒れていた。
 同自治会がその土地を「いこいの広場」として整備するため市に交渉し、14年に「東海道魅力アップ事業」に、15年に「花と緑いっぱい事業」として認定された。手作りの縁台を置き花壇を整備し江戸時代に力比べに使われたという「力石」の現物も展示した。
 「いこいの広場」は7月18(土)、19(日)の両日に開かれる同地区の「石取祭」の会場の一つとなる。同地区の松寺第二自治会長の西尾和俊さん(71)は「子どもたちに、自分が歴史的背景のある日本のメインストリートのある町で育った事を知ってもらい、郷土愛を育んでほしい」と語った。

HPより)

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