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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

競争原理は不安を生み出し国家主義を助長する

2005-01-09 23:11:30 | 教育
 今、日教組の全国教研(教育研究集会)が開かれている。全国の小・中・高の先生がそれぞれ1年間の成果を持ち寄り、互いに研鑽し、議論を闘わせる場だ。国の教育政策を、現場からの地道な活動をもとに、批判していくという側面もある。
 だから、かつて、この集会は右翼団体の攻撃の標的となり、開催地では、始まる前からそれこそたくさんの街宣車による反対行動が行われ、開会中も騒然とした雰囲気の中で行われたこともしばしばだった。最近はどうなったか新聞報道でははっきりしないが、今でもなお日本の現場教師たちの良心の集いともいえる研究集会だと思う。
 党派的な立場が目立つという批判もあるが、まだまだ組合に結集し、教育の現状を検証しようとする熱心さは認めたい。よほど官製研修よりも実り多い集会である。
 その中で、今の学校の現状を巡る中心課題として、「学力低下」問題がさまざまな分科会で取り上げられている。いじめや学級崩壊など、つい最近まで話題になっていた事象から、今は、国際的な調査からはっきりした日本の子供たちの学力低下が一番の話題になっている。
 気になるのは、文科省の役人が学力向上を目的に、競争原理を教室に持ち込もうとしていることに対して、どのように現場から実践的に反撃していくかという視点が意外に欠如していることである。中山文科相は、「全国学力テスト」を導入し、競争させることで学力向上をはかるという。こうした競争によって、いったい本当に学力が向上するのか。
 先般の国際的な学力調査で、実は日本では上位層と下位層の学力が開いているということが明確になった。「教育の機会均等」という法律上の平等主義は破綻し、より出来る子は、より出来る子になり、出来ない子はより出来ない子になっていったということだ。それを物語るように、今、東京都の進める「高校改革」は、まさに高校生の学力差別化政策である。
 子供たちは小学校卒業と同時に、中学校・高校と続く学力「競争」社会に入ることになる。今自分がどの位置にいるか、どのように評価されているか、それもすべて数値化された中で。不安の中で学校生活を強いられる。教える教師も同様、子供たちの学力競争を率先して担わされ、それが、また自らの評価につながり、給料などにも影響してくる。
 さらには、勤めている学校にもいつまでいられるか分からない、校長の一存で転勤させられる、させられたくなければ、校長からよい評価を得るために必死に努力する、または諦める。3年で校長が替われば、自分の首も危うい。これで、落ち着いた、地道な教育実践が出来ようか。
 教研修会では、猫の目の如く変わる教育政策に、現場は不安と憤りに満ちているとの報告もあったという。
 コイズミやイシハラの進める自由化・競争化によって本当に教育や文化が豊かになっただろうか。悪しき平等主義も悲喜劇を生むことがあるが、競争原理は、不安と共同意識を失い、ひいては、階層分化をおしすすめ、子供たちの夢を奪い、多数の持たざる国民に虚無感を与える。
 だから、そうした分裂しがちな国民の意識を、強制的に国家に向かわせるために(国家からの恩恵を押しつけ、国家への忠誠心を求め、問題の本質に目を向けさせないために)日の丸・君が代の強制が行われる。学力「差異化」と国歌・国旗の「強制化」とは表裏一体の政策なのだ。このことを見抜く必要がある。
 本当かどうか定かではないが、戦前の徴兵制度のもとでは、貧しき者も豊かな者も、学歴がある者もない者も、平等に扱われた場は軍隊であるという幻想を「大日本帝国臣民」は持たされた。近年、アメリカでも軍隊に志願する者は、下位の階層の若者が多いという。矛盾は、こうしていつも名もなき国民に集中する。
 教育現場から、こうした状況を打破する勢いがあってほしいと思う。「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンは、日教組の教育運動の原点であり、戦後教育の大事な視点であった。このスローガンを古色蒼然としたものだと揶揄するのは簡単だ。だが、今一度原点に立ち返って、そこから教育の現状に大きな危機感を持つことが、重要なのではないだろうか。
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