おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

自分の為の今日が始まる

2005-01-01 13:03:15 | 世間世界
 2005年が開けた。昨日の荒れ模様の天気とはうって変わって、少し肌寒いが穏やかな光が射す朝を迎えた。といっても、これは、関東地方のこと。日本海側や北日本では、雪が舞う、寒い元旦を迎えたことだろう。新潟では、雪の中、仮設住宅での新年を迎えたことだろう。北海道では、去年の夏の台風の傷跡も癒えぬままの正月。京都でも広島でも・・・。インド洋沿岸の地震・津波被害は、その実態が明らかになるにつれて、史上空前の自然災害となりつつある。
 人間は、悲しいかな、自分のエリアでしかものごとを捉えられない。たとえ知人でもその死は、我が子が小指を怪我して血を流すことには及ばない。遠い親戚の死よりも、飼っていた猫の死の方が辛く悲しい。ある意味では、人間は「我」の動物、それがあるからやっていけるとも言える。
 他人のために、世界のために自分には何が出来るか、いな、他人のために、世界のために、少しでもいいから貢献しよう、力を出そう、そんなきれい事キャンペーンではすまされない、人間一人ひとりの立場。それを「我執」と言い放つことは簡単だが。
 「愛は地球を救う」という何十時間程度のイベントで、愛は本当に蘇るのか、愛は人類や取り巻く自然・環境を救うのか。嘘つけ! 「世界の中心で愛を叫ぶ」のは勝手だが、それは、当事者の自己満足に過ぎない! 韓国純愛ドラマは、純愛を失った反動だって、嘘こけ!
という思いになる。
 我が家は、「日めくり」をトイレに飾ってある。毎日、毎日はがしていく楽しみ。そこには、その日の行事やら、干支やら「大安」だの「先勝」だの、さらに「一口格言」みたいなものが書かれている。それを見ながら・・・。うなずいたり、苦笑いしたり・・・。
 今年1月1日には、なんと「自分の為の今日が始まる」とあった。へたなきれい事の格言よりもまさにストレートで小気味よい。新年の始まりらしく「今年こそ目標をもって」とか「輝かしい未来に」なんて似非ものの格言(言葉)よりも、はるかに見事な表現だ。
 せめて元旦の一日くらいは、自分らしくやろうよということだろうか。明日から、遅くとも4日からは宮仕えが始まる。昔から「すまじきものは宮仕え」なんていう。もしかしたら、失った自分から出発することで、見えてくる世界があるということだろうか。どうせ何日もそうしていられないのだから。
 世界・世間・世の中・組織・・・そういうものから一歩離れて、自分を見つめ直すきっかけは大事だ。そうして、そうした自覚ある、それなりの人生観を持った、確乎とした自己(人)の集まりが、これからは重要ではないだろうか。
 日本には、いまだかつて「個人主義」は存在しなかったと思う。エゴとか我見とかはあっても。 今年は、集団と個、国家と一市民、他人と自分、そうした関係性を自分なりに真摯にみつめていく年にしたい。
コメント (2)
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