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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

またしても、路地裏探索。谷田川跡をたどる。その2。

2013-08-30 00:33:49 | 河川痕跡
 ここで、荒川区ともお別れ。今度は文京区と北区の区界。このあたりでも、「谷田川」跡の道路が区界ではありません。
右が「北区」、左が「文京区」。「谷田川通り」と「不忍通り」の間にある、この細い路地が区界。
 その探索の前に「谷田橋」の確認を。
「谷田橋」交差点。
ここは、JR田端駅から下ってくる道との交差点。西が「動坂下交差点」(「不忍通り」)。間違いなく、旧「谷田川」の川筋であった。谷の、いちばん底のところを流れていた。
谷田橋付近から西を望む。動坂を上った右側に「都立駒込病院」がある。

動坂遺跡(どうざかいせき)
昭和49年、都立駒込病院の外溝工事中に貝塚が確認され、2次にわたる発掘調査が行われた結果、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見された。
 縄文遺跡は、縄文中期のもので、住居跡と土器、特におもりが多く出土し、このあたりでの漁労の跡がしのばれる。
また、江戸時代の遺跡は、8代将軍徳川吉宗が復活した鷹匠の屋敷跡であった。
現在、動坂貝塚記念碑がある。(「文京区」HPより)
 
 なるほど、遙か昔には本郷台地のへりが海岸線であったことと、「鷹匠」の幟が交差点にあったわけですね。「不忍通り」は、その台地の縁を回るように西にカーブします。

 このまま駒込方面に進んでいこうと思いましたが、やはり「区界」が気になって「不忍通り」から少し路地裏の方に。
交差点にあるビルを回り込むと、そこが今度は「北区」と「文京区」の区界の道でした。右が「文京区」、左が「北区」。
反対方向。右が「北区」、左が「文京区」。「不忍通り」から一本入った小道が区界として続きます。
「谷田川通り」から直角に入った小道が区界。右が「北区」、左が「文京区」。
自転車がやっとすれ違えるようなところも。
田端駅からの道を越えても、細い路地が続きます。文京区側は、「不忍通り」に挟まれた狭い区域。右が「北区」。
「不忍通り」。少し上り坂になっています。
区界の道は「不忍通り」からは一段、低くなっています。
北区側の奥の方も高くなっています。このあたり一帯が上野台地(田端駅方向)と本郷台地に挟まれた谷の部分だという感じがします。
「今昔マップ」。明治末頃のようす。下の赤丸が現在地。上の赤丸が「田端駅」。
同。現在のようす。青い線が「田端駅」からの通りと「不忍通り」。
右が「北区」、左が「文京区」。かなり長く続きます。かつての水路跡? それにしては、本郷台地側に寄りすぎているような感じ。標高ではこの辺一帯は周囲に比べて低くなってはいます。
 「不忍通り」は後に台地の下(西側の縁)をかすめるように作られました。
「歴史的農業環境閲覧システム」より。ちょうどこのあたりの明治中期頃のようす。田んぼの中の小川という感じ。もう少し上流になると、畑が中心になります。

「同」。現在の豊島区駒込と北区中里付近。上野台地、本郷台地には「畑」、間の谷筋には「畑」と「田んぼ」。真ん中あたりに細い流れが確認できます。旧谷田川が石神井川からの流れだとすると、水量は少なくなってしまい、稲作にはあまり向かないようすです。
 石神井川が今のように王子側に流されず、そのまま南下して不忍池・秋葉原方向に流れていれば、もっと豊かな水量だったはずで、田んぼも多かったのではないか。「谷田」という名称から豊かな水量を感じさせますが。
 斜め下を進む道は「本郷通り」。本郷通りは、江戸時代に整備された日光街道の脇街道。本郷追分(文京区弥生一丁目)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流する。「日光御成道」や「岩槻街道」とも呼ばれる。本郷から駒込を抜けて西ヶ原、王子へ至る。途中に、「谷田川」に架かっていた「霜降橋」交差点がある。さらに西ヶ原を通り、飛鳥山の西側、そして、明治通りと合流する。その先は定かではない。

区界の道は、「不忍通り」とは離れて北上します。この先で、「豊島区」との区界が。
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「谷中ぎんざ」「よみせ通り」「戸野廣浩志」・・・(谷田川跡をたどる。その1。)

2013-08-29 19:12:42 | 河川痕跡
 今回は、JR日暮里駅から駒込駅までの探訪。谷田川(藍染川)跡をたどりながら、北上。
 区界も文京区と台東区だけではなく、荒川区もあり、北区も豊島区も参入してくるという、複雑な地域。川筋の跡をたどるため、周囲より低いところ、低いところとたどって北上していきますが、途中、区界が複雑に紛れ込んできて、そっちの探索の方に、ついつい。
日暮里駅から西に向かうと、階段・「夕焼けだんだん」にぶつかります。その下が「谷中ぎんざ」(商店街)。夕方、この階段に座って、谷中銀座方向を見ると綺麗な夕焼けが見えることから、一般公募で選ばれた名称だそうです。
狭い道路の両側に小さなお店が並んでいます。観光客目当てのお店が多い感じ。
北区と文京区の区界が商店街の一角に。手前が、荒川区、向こう側が台東区。上野の山から続く台地のへりにあたり、西にある本郷台地との間にはさまれた地域。この先に「谷田川」が流れていました。
「谷中ぎんざ」の突き当たりが旧谷田川沿いの「よみせ通り」。右が台東区、左が文京区。谷田川(跡)が区界になっています。
前回の「枇杷橋」から北のところ。商店街が続きます。右が台東区、左が文京区。
向かいのお店の店先に「落語寄席」のお知らせが。

初代古今亭 菊之丞(ここんてい きくのじょう)
落語協会在籍。
2003年9月 真打昇進。
2013年3月 平成24年度 芸術選奨新人賞(大衆芸能部門)受賞
 売れっ子なのか、8月の日程はびっしりでした。そういう方の古典落語を身近に聴ける、いい機会ですね。

 ここで「魚貝三昧彬(あきら)」の宣伝。(携帯で撮っているときに、魚屋から出てきてぶつかった方が、ご主人だったので)「ぐるなび」より。


 店の隣は実家の魚屋、その利点を最大限に生かし安価で新鮮な旬の魚料理をご提供致しております 
 「大胆なものは大胆に、繊細なものは繊細に、素材に手を加えすぎないよう」をモットーに旬の魚の刺身、焼物、煮物、 揚物メニューを中心に、旬の野菜を使った料理もご用意しております。
 魚料理に合う日本酒10数種類や本格焼酎も取り揃えております。
 小さい店ではのきめ細やかさで、メニュー以外でも出来るものは調理致します。
 2階は座敷になってますので各種ご会合にもご利用下さい(5名様以上の場合はご予約をお願い致します)。

にも紹介されています。

 その2階の座敷で開かれるらしい。

両側に商店が建ち並んでいるというわけではありません。
所々少し道がカーブしていて、かつての水路を想像させます。
「戸野廣浩司記念劇場」。

戸野廣浩志
 広島県出身。劇団青俳所属で、ピー・プロダクションの篠原茂プロデューサーの起用を受け、テレビ番組『快傑ライオン丸』のライオン丸のライバル「タイガージョー」こと虎錠之介役でデビュー。主役であるライオン丸を上回る人気を集めた。
 1972年に同番組のロケの宿泊先である滋賀県彦根市の国民宿舎湖城荘で夜、スタッフらとの酒席で泥酔し、風呂場に迷い込んだところ誤って転倒、ガラス戸に突っ込んで脇腹を切り、湯船に落ちて出血多量で死亡した。享年25。

 以上、「Wikipedia」で調べましたが、まったく知らなかった! 「怪傑ライオン丸」というTV番組も。
 しかし、若手の演劇人たちが彼を偲んで今も関わっていることは、すばらしいことです。
正式HPより。
えらく熱いテンションです。第3回目を迎えるとか。熱い思いが伝わってきそうです。
こんなポスターも。「若姫劇団」。「地域密着型大衆演劇」とありました。 
愛望美さんのブログでの自己紹介(勝手に引用させてもらいます)

 谷根千の愛姫・愛望美として東京都台東区谷中にある戸野廣浩司記念劇場をベースに地域密着型大衆演劇をそして地方へも行きさまざまな舞台を繰り広げております。
 沢山の方と出会い大きな市民会館、劇場、そして小さなライブハウス、健康ランドなどなど全国的に沢山の舞台に立たせて頂きました。・・・

 いろいろなところで、いろいろなかたちでお芝居が成り立っているのですね。「学生演劇」にかかわってきた一人として、プロとしての根性に声援を送ります。

「道灌山通り」を渡ったところから来た道を望む。
「今昔マップ」より明治末頃。大きいが道灌山。現在、開成中高がある高台。小さなが後の「西日暮里駅」。「道灌山通り」は高さ20㍍以上あった道灌山を東西に切り開いた。赤点が撮影地点。斜めの青線が「道灌山通り」、西北にカーブしている道が「不忍通り」(すべて後のもの)。上野から田端へと続く台地の一番狭まったところにあたる。標高は、撮影地点が6㍍、「道灌山通り」の切り通し付近で9㍍。西南の本郷台地の最高地点は、「吉祥寺」付近で23㍍。
通りを渡ると、商店は少なくなります。大きなマンション工事。来た道を振り返る。この道もやはり「谷田川」跡。左が台東区、右が文京区。しかし、左手前の住居表示は「荒川区」。「台東区」が剣の切っ先のように、「道灌山通り」を越えて入り込んでいます。
間違いなさそう。「谷田川通り」と標識に。この先には「矢田橋」が。このおうちの住所は「荒川区」。
「谷田川通り」がそのまま区界というわけではなく、ちょっと道からはずれてカーブして細い路地へ。右が「荒川区」、左が「文京区」。
この狭い路地は右に曲がって元の広い道へ戻る。左が「文京区」、右が「荒川区」。
左手前の家は「文京区」、向こう側は「荒川区」。

 ところが、広い道を越えて区界が入り込んでいます。
正面のお店と数軒が「文京区」に属しています。裏手は、「荒川区」、北隣は、「北区」。???
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池之端。不忍池。駅伝。・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その4。

2013-08-28 21:48:41 | 河川痕跡
 このあたりになると、旧藍染川の痕跡は見当たりません。

台東区と文京区との区界は、右手のマンションから中央奥へとなっていきます。ここから南は、台東区ということになります。道の曲がり方がかつての水路(左奥が上流)。明治中期の古地図(「goo地図」)ではこのあたりで二つの流れ(「藍染川」ともう一つ)が合わさって不忍池方向に流れています。また、上野の山をかすめるように南に流れる川もありました。「藍染川」は、「不忍池」に流れ込んでいる水路と不忍池の西から南にかけて流れていた水路があったようで、上流・北側から「蓮見橋」、「花見橋」、「中ノ橋」、「日見橋」、「龍門橋」と「不忍池」に行くための橋が架かっていました。
「池之端児童公園」。かつての都電の停留所跡。
 不忍池の西北に広がる地名「池之端」は、「不忍池」の近くにあることから名づけられました。
「解説板」。
「今昔マップ」より。が、かつての停留所。都電(市電)は道なりに右にカーブし、「不忍池」の縁を通って「上野広小路」方向に進んでいきました。中央が「不忍池」。
「上野動物園」の池之端口入場門。「不忍通り」沿い。
 こうして横道をしながら、やっと「不忍池」に到着しました。「不忍池」は上野公園(東京都台東区)の中にある自然にできた池。
 周囲は約2km、全体で約11万㎡。北は、上野動物園西園、東は、京成上野駅、南と西は、「不忍通り」に接し、池の中央に弁天島(中之島)があり、池は、蓮池、ボート池、上野動物園の中にある鵜の池と三つに分かれています。
 「不忍池」の名は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれていたことに由来するとのことですが、異説もあるようです。江戸時代以前より既に「不忍池」という名で呼ばれていた、とのこと。
 縄文時代には、この辺り一帯からずっと南方まで東京湾の入り江だったと言われ、上野台地、本郷台地の南東のへりがかつての海岸線だったようです。その後、海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろには池になっていたと考えられます。上野公園には、古墳時代の遺跡が残されています。(「不忍池」の標高は5㍍、上野公園の標高は「東京文化会館」付近で16㍍。「今昔マップ」による。)

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)「藍染川」の一部が、「不忍池」には流れ込まず、西側、そして南側を流れ、広小路付近に向かうようすが分かります。(まだ鉄道が上野に開通していない頃)
拡大図。池の中央に「弁天島」がすでにあります。現在、ここにユニークな石碑が多いことで知られています。
同。
上野の山では、「博覧会」がたびたび行われていました。
「案内図」。上が広小路方向。
広々とした池。ボート場になっています。1931(昭和6)年に、現在まで続く貸しボートの営業が開始されました。
カップルで乗ると、別れることになるとか、いや、この池じゃなかったでしたか?
蓮の池。蓮の花が咲いていました。
びっしりと蓮の花が。
池畔にある「駅伝の碑」(2002年 財団法人日本陸上競技連盟)。博覧会開催の時に始まったそうです。スタートは京都・三条大橋。ゴールが博覧会正面。3日間に及ぶ長丁場の駅伝。


 明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なり、池の北側は今よりもかなり広くなっていました。(注1)

 1884(明治17)年、戸山が原の競馬場が移され、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がりました。池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、さらに、1892(明治25)年まで春と秋に競馬が行われました。(注2)

 戦後の一時期、水が抜かれて水田(不忍田圃)となったこともありました(昭和22年の航空写真で確認できます)。

 現在、池への流出入河川がありません。水源は、若干の自然湧出地下水のほかは、以前は井戸水および近接する京成電鉄京成上野駅地下ホームからの湧出地下水を人工的に汲み上げ放流したものでした。
 これだけでは水質保持・水量保持が難しいことから、2003(平成15)年よりJR上野駅新幹線地下ホームからの湧出地下水の汲み上げ放流も始まりました。これにより、水量は一応の安定を見ている。JR、京成とも湧出水を提供することで、そのまま下水に排出した場合にかかる下水道料金を免除されている、とか。(以上、「Wikipedia」参照)

注1:「ginjo.fc2web.com/198okubyou_genbei/sinobazunoike_map.htm」‎には、地図による変遷の詳細な記録があります。
その中で、江戸末期の絵図をお借りしました。(右が北)
注2:(「homepage2.nifty.com/keibastamp/newpage125.html」)には、不忍池競馬場のことが貴重な写真・絵はがきなどで実に詳しく紹介されています。その中から、1枚お借りしました。
「第100回天皇賞競走記念切手発行記念台紙:浮世絵 武蔵府中郵便局作成」(平成元.10.29)
このカーブ。
この辺りは、直線コース? 競馬場時代のコーナーのままの道? 何だかそう想像するだけで、楽しくなります。

「上野公園」下。秋葉原方向を望む。



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「あまちゃん」。音羽屋。路地裏。・・・台東区と文京区との区界をたどる。その3。

2013-08-27 20:49:58 | 河川痕跡
 谷中の寺町へ向かう坂道。「三浦坂」。江戸時代、三浦志摩守の下屋敷前の坂道だったので名付けられた。「中坂」とも。
この坂を登り切った左側に「大名時計博物館」があります。



 大名時計博物館(だいみょうとけいかぶくつかん)は、東京都台東区谷中にある時計の博物館である。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗に収集された江戸時代の大名時計が公開されている。

(以上、「Wikipedia」より。写真も。)

「あまちゃん」NHK連続テレビ小説(2013年)で、外観が「まごころ第2女子寮」として使われていた、とのこと。そのせいか、坂を登っていく若い人たちがいました。が、「あまちゃん」も、もうじきおしまい。『やられたら倍返し』とすごむ堺雅人の快(怪)演で、「あまちゃん」を超える高視聴率をマークしている「半沢直樹」に話題が移りそう。

西側(「不忍通り」方向)を望む。
三浦坂への道沿いのお店。「無遊舎 音羽屋」。ネコにちなんだ創作陶芸作品などが展示、販売されています。
「Nostalgic TOKYO ~谷中・根津・千駄木~qppp3.exblog.jp」さんで、詳しく写真入りで紹介されています。その一部を引用させてもらいました。

・・・「なんとも憎めない猫の仕草。ウィンドウを前に、ニヤニヤしてしまうほど、キュートで愛らしい置物。ニコニコ動画で“ねこ鍋”がブームとなっていましたが、ねこ鍋ならぬ、ねこ茶碗もカワイイですねー!
ここは谷中、三浦坂の坂下(ねんねこ家さんから根津方面に下ったあたり)の「無・遊舎 音羽屋」。自宅の一部を開放し、作家さんのオリジナルアイテムを販売しているそうです。」・・・
 
 この方のブログではありませんが、見所たくさんの「根津・谷中・千駄木」です。

道の東側から奥の方まで古くからのお寺さんがたくさん集まっています。
来た道を振り返る。右が台東区、左が文京区。
「不忍通り」と「言問通り」との交差点(千代田線「根津」駅)付近から西(「弥生坂」方向)を望む。奥の方に東大の農学部・工学部などのキャンパスがある。
「言問通り」を渡って南に進む。心なしか道が細くなっています。右が文京区、左が台東区。
さらに進むと、なんとこんな路地裏の道になってしまいました。これが区界になっています。
住居表示は、「台東区池之端」。
交差する広い道から区界をのぞき込む。
前を撮ったり、振り返って撮ったりしているうちに、どっちが台東区でどっちが文京区か分からなくなった!
左右に横切っている道が区界。向こうが文京区、手前が、台東区。
かなり長く続く細い一本道。これが「藍染川」跡? 下水道がこの下を流れてはいるようです。
地元ではない人間が通ると、少し気後れがします。他人様の家の軒先を歩くのですから。誰ともすれ違わなくてよかった!
やっと広い道にぶつかりました。振り返って望む。右が台東区、左が文京区。


 以前、投稿した「蟹川」跡の文京区と新宿区との区界歩きの状況とそっくりでした。(再掲)
この細い路地が文京区関口1丁目と新宿区水道町の区界。右が文京区、左が新宿区。「新目白通り」から少し入ったところ。直線の反対側・神田川には「古川橋」があります。
印刷会社の路地。区界の、すれ違うこともできないような細い道が一直線に「商店街」の先まで続きます。右が文京区、左が新宿区。

 わずかな距離なのに実に発見の多い「旅」でした。やっと「不忍池」に着きます。
「不忍池」の西、「不忍通り」沿いの高層建築が見え始めました。
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へび道。「木曜手帖」。「鷹匠」。・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その2。

2013-08-26 22:05:58 | 河川痕跡

 通称「へび道」というように、曲がりくねっています。両側は住宅が建ち並んでいます。大正期に暗渠になり、家の玄関もこちら向きになったのか。細い路地のような水路になっています。
文京区側にはこうした細い路地があります。隅田川以東の雰囲気。まさに下町です。その先は、「不忍通り」。
振り返ってみたところ。右が台東区、左が文京区。
この道をタクシーなどが通ります。さすがに一方通行ですが。
しばらく進むと、広い通りになりました。区界も分かりやすく。それでも、カーブが昔の川の流れを。
「藍染川」の流路跡?拡幅したようです。
「旧根津藍染町」という標識。
「木曜手帖」。さりげなく置かれてありました。

「木曜会」主催の公式サイト「mokuyou-tetyou.jp」より、借用。

※以下は、公式HPより。

 第二次大戦後、サトウハチローが呼びかけ、藤田圭雄、野上彰等を中心にサトウ家に集まって日本の文化について話し合っていた木曜会が、詩の勉強の場になっていき、作品発表の場として生まれたのが『木曜手帖』。しばらくはガリ版刷りで出していたが、1952年5月、多くの童謡の作詩愛好家に呼びかけて、活版刷りの月刊同人誌『木曜手帖』を創刊した。
 はじめの数年は童謡専門誌をうたって、吉岡治、片岡政子などが活躍していたが、2周年記念号で、木曜会木曜賞が授与されるようになり、ここでは若谷和子が木曜賞、名取和彦が努力賞を受賞。3周念記念号では若谷和子が菊田一夫賞、名取和彦が木曜賞、宮中雲子が努力賞を受賞していて、次第にメンバーが変化していったことが伺われる。
 内容においても社会の変化に加えて、恋の詩も出てくるようになり、童謡専門誌とばかりはいえなくなっていった。
 200号でサトウハチローが他界すると、それまでサトウハチローを中心に若谷和子、宮中雲子でやっていた主婦の友通信教室で学んだ人たちも入ってきたことにより、日々の生活をうたった詩が増えていった。しかし童謡を書く人を育てるという本来の目的を貫き、子どもの詩の頁を絶やすことはなかった。
 現在、社・日本童謡協会の会員も多く、宮中雲子は副会長。宮田滋子は常任理事を勤めている。
 同人誌『木曜手帖』は600号で終刊となったが、『木曜手帖』の編集委員から、西脇たみ恵、瀬野啓子、尾崎杏子、滝波万理子、それに宮中雲子、宮田滋子が加わって、引き続きインターネット木曜手帖の編集委員を勤める。

 詩の好きな方はどなたでもどうぞ!
 今、あなたの心に浮かんでいる思い…その思いをつかまえてみませんか?
 詩を書くことで、あなたの思いをつかまえることができるのです。

この通りは新たな発見がある町並みです。

「鷹匠(たかじょう)」。でも紹介されています。この時は、すでに満席でした。
 ちなみに、「不忍通り」の「動坂」交差点の幟に「鷹匠・・」とありました。そこで、蘊蓄を。

 初夢に見ると縁起が良いものを表すことわざ(?)に「一富士二鷹三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」があります。
 一説によると、江戸時代に最も古い富士講組織の一つがあった駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が特産物だったことに由来するそうです。「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれました。『一番に富士山 二番は御鷹匠屋敷 三番は駒込茄子』と駒込の郷土自慢を指折り数え上げたもの。それが縁起のいい初夢になったというわけ。

 「駒込富士神社」は、「不忍通り」が本郷台地沿いに西にカーブし、「本郷通り」と交差する手前にあります。このお店の位置関係からすると、直接的な関係はなさそうです。 

「茶室」。
「汐花 SEKKA ・BORDERLESS SPACE」。

「www.enjoytokyo.jp」(「レッツエンジョイ東京」)さんより。‎

 谷根千の元酒屋をスケルトンにしたギャラリーです。一面ガラスの明るい開放的な空間で、アウトサイダー・アートから江戸の職人技まで楽しめます。



 ところで、このあたりが小説の舞台になっていて、とても気になっていた『三四郎』の一節より。
(三四郎は美禰子に誘われて、広田先生たちと団子坂で開かれている菊人形を見に行く。)
「もう出ましょう」
 眸と瞼の距離が次第に近づくようにみえた。近づくに従って三四郎の心には女のために出なければすまない気がきざしてきた。それが頂点に達したころ、女は首を投げるように向こうをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐあとからついて出た。
 二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
 女は人込みの中を谷中の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
 三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」
 二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。
 三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。
「どうです、ぐあいは。頭痛でもしますか。あんまり人がおおぜい、いたせいでしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――なにか失礼でもしましたか」
 女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその目つきでなかば安心した。
「ありがとう。だいぶよくなりました」と言う。
「休みましょうか」
「ええ」
「もう少し歩けますか」
「ええ」
「歩ければ、もう少しお歩きなさい。ここはきたない。あすこまで行くと、ちょうど休むにいい場所があるから」
「ええ」
 一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大またに歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の目には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽くみえた。この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。
 向こうに藁わら屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。
「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手はでな着物のよごれるのをまるで苦にしていない。
「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように言ってみた。
「ありがとう。これでたくさん」
「やっぱり心持ちが悪いですか」
「あんまり疲れたから」
 三四郎もとうとうきたない草の上にすわった。美禰子と三四郎の間は四尺ばかり離れている。二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。
 ただ単調に澄んでいたもののうちに、色が幾通りもできてきた。透き通る藍の地が消えるように次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。どこで地が尽きて、どこで雲が始まるかわからないほどにものうい上を、心持ち黄な色がふうと一面にかかっている。
「空の色が濁りました」と美禰子が言った。
 三四郎は流れから目を放して、上を見た。こういう空の模様を見たのははじめてではない。けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである。気がついて見ると、濁ったと形容するよりほかに形容のしかたのない色であった。三四郎が何か答えようとするまえに、女はまた言った。
「重いこと。大理石(マーブル)のように見えます」
 美禰子は二重瞼を細くして高い所をながめていた。それから、その細くなったままの目を静かに三四郎の方に向けた。そうして、
「大理石のように見えるでしょう」と聞いた。三四郎は、
「ええ、大理石のように見えます」と答えるよりほかはなかった。女はそれで黙った。しばらくしてから、今度は三四郎が言った。
「こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる」
「どういうわけですか」と美禰子が問い返した。
 三四郎には、どういうわけもなかった。返事はせずに、またこう言った。
「安心して夢を見ているような空模様だ」
「動くようで、なかなか動きませんね」と美禰子はまた遠くの雲をながめだした。
 菊人形で客を呼ぶ声が、おりおり二人のすわっている所まで聞こえる。
「ずいぶん大きな声ね」
「朝から晩までああいう声を出しているんでしょうか。えらいもんだな」と言ったが、三四郎は急に置き去りにした三人のことを思い出した。何か言おうとしているうちに、美禰子は答えた。
「商売ですもの、ちょうど大観音の乞食と同じ事なんですよ」
「場所が悪くはないですか」
 三四郎は珍しく冗談を言って、そうして一人でおもしろそうに笑った。乞食について下した広田の言葉をよほどおかしく受けたからである。
「広田先生は、よく、ああいう事をおっしゃるかたなんですよ」ときわめて軽くひとりごとのように言ったあとで、急に調子をかえて、
「こういう所に、こうしてすわっていたら、大丈夫及第よ」と比較的活発につけ加えた。そうして、今度は自分のほうでおもしろそうに笑った。
「なるほど野々宮さんの言ったとおり、いつまで待っていてもだれも通りそうもありませんね」
「ちょうどいいじゃありませんか」と早口に言ったが、あとで「おもらいをしない乞食なんだから」と結んだ。これは前句の解釈のためにつけたように聞こえた。
 ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだん近づいて来る。洋服を着て髯ひげをはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎はじっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影を見送りながら、三四郎は、
「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである。
「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
「迷子だから捜したでしょう」と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で、
「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
「だれが? 広田先生がですか」
 美禰子は答えなかった。
「野々宮さんがですか」
 美禰子はやっぱり答えなかった。
「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」
 美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。その時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた。
「迷子」
 女は三四郎を見たままでこの一言ひとことを繰り返した。三四郎は答えなかった。
「迷子の英訳を知っていらしって」
 三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。
「教えてあげましょうか」
「ええ」
「迷える子ストレイ・シープ――わかって?」
 三四郎はこういう場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷やかに働きだした時、過去を顧みて、ああ言えばよかった、こうすればよかったと後悔する。といって、この後悔を予期して、むりに応急の返事を、さもしぜんらしく得意に吐き散らすほどに軽薄ではなかった。だからただ黙っている。そうして黙っていることがいかにも半間であると自覚している。
 迷える子ストレイ・シープという言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。
「私そんなに生意気に見えますか」
 その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。
 三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻もどせるものではないと思った。女は卒然として、
「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調くちょうであった。
 空はまた変ってきた。風が遠くから吹いてくる。広い畑の上には日が限って、見ていると、寒いほど寂しい。草からあがる地息でからだは冷えていた。気がつけば、こんな所に、よく今までべっとりすわっていられたものだと思う。自分一人なら、とうにどこかへ行ってしまったに違いない。美禰子も――美禰子はこんな所へすわる女かもしれない。
「少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか」
「ええ、すっかり直りました」と明らかに答えたが、にわかに立ち上がった。立ち上がる時、小さな声で、ひとりごとのように、
「ストレイ・シープ」と長く引っ張って言った。三四郎はむろん答えなかった。
 美禰子は、さっき洋服を着た男の出て来た方角をさして、道があるなら、あの唐辛子のそばを通って行きたいという。二人は、その見当へ歩いて行った。藁葺のうしろにはたして細い三尺ほどの道があった。その道を半分ほど来た所で三四郎は聞いた。
「よし子さんは、あなたの所へ来ることにきまったんですか」
 女は片頬で笑った。そうして問い返した。
「なぜお聞きになるの」
 三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「ストレイ・シープ」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。
(www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html‎「青空文庫」より拝借しました。)

 行動範囲は、団子坂から現在の不忍通りを横切り、そのまま三崎坂・谷中方向へ。途中から橋(「枇杷橋」?)を渡って左に曲がり(北上し)小川(「藍染川」?)を渡り返して千駄木側へ。そして、川縁の草地に腰を下ろす。
 ということは、「よみせ通り」沿いに歩いていたことになりますか? いや、もっと西寄りに「藍染川」ではない小川があったのか?

1880年(明治13年)頃のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 中央東西の道が「団子坂」と「三崎坂」(今よりも幅が狭い)を通る道。北が駒込方面。東が谷中・天王寺方面(JR「日暮里駅」方面)。西が本郷。
 中央南北に流れる川が「藍染川」(現在の「よみせ通り」から「へび道」付近)。周囲は田んぼや畑。ここから駒込、中里一帯、石神井川にかけての谷地には田畑が続きます。
上の拡大図(現「よみせ通り」付近)。

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藍染川(谷田川)跡。笑吉。枇杷橋・・・。台東区と文京区の区界をたどる。その1。

2013-08-25 20:13:37 | 河川痕跡
 神保町まで出かけたついでに、ちょっと寄り道。地下鉄千代田線「千駄木」にて下車。そこから不忍池まで歩きました。約1時間。千駄木付近から谷中にかけての道は「ヘビ道」とも呼ばれ、かつての「藍染川(矢田川)」の流れ跡で、台東区と文京区の区界になっています。
 藍染川(「谷田川」とも)の成り立ち(水源)は、染井墓地付近からの湧き水などが集まってほぼ南(「不忍池」方向)に流れていた、という説と、北にある「石神井川」から飛鳥山の西側で分水した流れ、という説があります。石神井川からの分水という説が濃厚のようです。ただ、この場合、本流の「石神井川」は飛鳥山の下から東に向かい隅田川に流れ込んでいますが、それがどういう風にそうなったのかにも説があるようです。縄文時代の河川争奪説、江戸時代初期に度重なる洪水防止のために人工的に流路を開き、東に向かわせたという説などがあります()。

「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治中期のようす。赤丸が「飛鳥山」、その西側の、水色の線が「谷田川(藍染川)」の流路。上方が「石神井川」。明らかに分流した流れであることが分かります。中・下流は周りは水田でその中を用水路のような細い流れですが、くねりながら南に流れていきます。駒込の北西・染井は地図のもっと左下になります。

 石神井川から切り離された後は、上野台地と本郷台地の湧き水による小河川が流路(跡)に流れていたようです。
 もっと大昔には、(旧)石神井川が上野の山の西側を通り、秋葉原の先で東京湾に注いでいたようです。武蔵野台地の東端にあるのが上野の山。そこから北へ、日暮里、道潅山、飛鳥山と台地が続きます。藍染川が、谷中、根津と谷を南下し、不忍池に。上野の山から飛鳥山の台地と本郷台地との間の谷間が藍染川の流れになっています。

「今昔マップ」より。明治末期から大正にかけてのもの。緑色の部分が低地(谷)、赤い部分が高地(丘)。中央の蛇行している部分が藍染川(支流を含む)が流れていた谷の部分。右の赤い部分が上野(忍ヶ丘)から飛鳥山の台地。左の赤い部分が本郷台地。上流から王子付近まで続く石神井川の谷底低地が、飛鳥山の手前で南へ向きを変え、本郷台と上野台の間の底低地へと地形的に連続していることが分かります。
同じく「今昔マップ」より現代のようす。現在の上野広小路付近で東側の低地と合流しています。真ん中下の池が「不忍池」。
 「今昔マップ」のすばらしい特徴の一つに、高低が色分けで表示される上に、カーソルで地図上を追うと、メートル単位で標高が表示されることです。これは、河川の跡をたどるには大変便利です。基本的にはその地域で一番低い地点を川が流れていたわけですから。上流、下流どちらにも進めます。今回もそれを活用させていただきました。

 この地には染物や洗張を生業にする商店が集まっていため、藍染川と呼ばれていました。明治期には川幅約3メートルの細流となっていて、漱石の名作「三四郎」で美禰子さんが「ストレイシープ」とつぶやくのもこの川のほとり(近くの水たまり?)。
 現在の「石神井川」は、JR王子駅付近は飛鳥山にぶつかるような形になっているため、1958年の狩野川台風では、洪水が発生し、王子駅の改札口が冠水するなど北区だけで5000世帯が被害にあった。つい最近でも集中豪雨であっという間に水があふれ流域を水浸しにしました。そのため、今、流路変更の大工事を行っています。

:「Wikipedia」による)
①縄文期の河川争奪説
 1976年、東京都土木技術研究所の中山俊雄らはボーリング調査による石神井川と谷田川沿いの地質断面図を作成し、石神井川の流路変遷を論じた[7]。彼らは、谷田川から不忍池を経て昭和通りにいたる地下に基底が-20mに達する埋没谷が存在すること、石神井川下流の王子から隅田川合流までの地下に埋没谷が存在しないこと、流域の小さい谷田川のみで昭和通り谷が形成されたとは考えがたいことを指摘。昭和通り谷の形成時期に谷田川がその上流で石神井川でつながっており、これが石神井川の本流であったと結論づけた。また、立川ローム層を鍵層とした江古田層との対比より、石神井川の王子より上流の河谷底に堆積する泥炭層をサブボレアル期(4500-2500年前)のものとし、音無渓谷がこの泥炭層を開析しているように見えることから、渓谷の形成時期をサブボレアル期以後とした。
 1994年、北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変遷時期を特定するため、現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を発表した[8]。彼らは山手層(本郷層)の上位に泥炭質粘土からなる沖積層を発見し滝野川泥炭層と命名、14C年代測定によって約7400年前から約1000年前までに堆積したものと分かった。中野らは滝野川泥炭層は石神井川下流部が現在の流路をとるようになってから、旧河床が沼沢地となった環境で形成されたと考えた。また、石神井川が本郷台東端で縄文海進(6500-5500年前)に形成された埋没上位波食台(中里遺跡発掘の際に発見された)を侵食していないことなどから、縄文海進最盛期より後に河川争奪が起こったと推定した。これらのことから、石神井川は縄文海進最盛期に本郷台の崖端侵食に起因した河川争奪を起こし、流路を奪われた谷田川上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層が堆積し、王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作った、と結論づけた。
 北区飛鳥山博物館では中野らの研究成果に基づき、縄文時代の河川争奪説の解説が展示されている。
③中世以降の人為掘削説
 歴史研究家の鈴木理生は1978年の自著において、石神井川が現在の石神井川と谷田川に分断されたのは人為的な工事の結果であると主張した。鈴木は飛鳥山付近の台地が東から広義の利根川、西から石神井川の浸蝕を受けて人為的に短絡しやすい地形であったこと、「滝野川」という地名が登場するのは13世紀後半に成立した『源平盛衰記』以後のことで、正史の『吾妻鏡』には見られないことなどから、この間に人為的な掘削があったと推論した。この工事は、豊島氏による下町低地への灌漑水路の開発、または矢野氏による洪水防止の工事であったと鈴木は推定した。
 後、2003年、鈴木は大著『江戸・東京の川と水辺の事典』の中で、上述の中野らによる自然現象説を紹介するとともに、再び人為変更説を主張した。まず鈴木は『源平盛衰記』に「滝野河」の名前があるのは、この時期にすでに滝のような水流で渓谷ができていたと解釈できるとして、この時期の工事説は述べなかった。代わりに、江戸時代に刊行された多くの地誌で不忍池とお玉が池の説明ぶりが不自然である点、軍用道路であった岩槻道(現在の本郷通り)は石神井川をまたぐより台地の縁沿いに通るほうが自然である点を指摘し、江戸氏・太田道灌・後北条氏あるいは徳川氏初期に江戸湊の洪水を防ぐために瀬替えしたと主張した。
④そのほかの説
 2008年11月14日放送のテレビ番組『タモリ倶楽部』では、石神井川の流路変遷について取り上げられた。番組の中で漫画家の江川達也は、石神井川が上野台地を貫いて東へ流れているのは、江戸時代の治水工事によるものと主張。それに対し、出版社之潮社長の芳賀啓は『寛永江戸全図』を示し、江戸時代初期にはすでに現在の流路をとっていたと分かっていると反論。また、石神井川下流へ人工的に流したとすると直線的に隅田川に流れるはずだとする説を唱えた。
 
 このへんのやりとりは、とてもおもしろい。が、今回は現地のようすを!
「よみせ通り」。商店街が続きます。上流方向を望む。かつては、川に沿って夜店が並んだのか?
 次の機会はこの道を上って行くつもり。今回は、不忍池方向へ。
 ぶらり歩いて気になったお店。
ガラス細工のお店。
 そして路地を覗くと。
「笑吉」。指人形のお店。公演も見せてくれる。時間があったら立ち寄りたかったが。そこで紹介。

さんより。)
さんでも紹介しています。
南(下流)を望む。
交差点にある説明板。「枇杷橋跡」。「合(藍)染橋」とも。
 《解説文「藍染川と枇杷橋跡》

「文京区と台東区の区境の道路はうねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。『新編武蔵風土記稿』によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原へ、さらに駒込村から根津谷へ入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園の入口のところ)で忍川となり三味線堀から隅田川に注ぐ。
川の名は上流から境川、谷戸川(矢田川)、藍染川などと呼ばれた。藍染の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川端に染物屋があり、川の色が藍色に染まっていたからなど。前方の道路の交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の『御府内備考』や『新編武蔵風土記稿』によれば、この橋は合染橋、藍染橋、琵琶の橋(のち枇杷橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町には同名の橋があった。
この川は水はけが悪く、よく氾濫したので大正十年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境となっている。」

 ここでは、染井付近が水源となっています。石神井川からの流入が減少した藍染川(旧石神井川)に流れこんでいた小さな流れの一つだったと思います。(文京区としては「北区」の説には与しなかったのでしょう。)
 このあたりは、東西の台地にはさまれ、けっこう幅の広い谷筋で、田んぼなどの間を通る小さな川が幾筋もあったようです。上記の解説文にもある、もう一つの「藍染橋」は、もっと西南の旧八重垣町(現在の根津2丁目付近)、「不忍通り」のすぐ東側にあった流れに架かっていた橋と思われます。

角にあるお蕎麦屋さん「大島屋」。風情のある建物です。
交差点(枇杷橋跡付近)から東を望む。緩やかな坂道(三崎坂)になって上っていきます。
西側(文京区側)を望む。「不忍通り」をはさんでやはり坂道(団子坂)になっています。(「不忍通り」は、本郷台地のへりを進む。そのためこの先北方で大きく西に曲がる。)東西に広い幅になっている谷筋を流れていたことが分かります。
先ほどの商店街の通りとはうって変わって細い曲がりくねった道が住宅街の中を南に向かっています。右が文京区、左が台東区。
かつての流路を彷彿とさせるような通り。
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小松川境川親水公園。

2013-06-21 21:56:03 | 河川痕跡
 ほぼ南西方向に向かう「小松川境川」。途中、東からの流れと一つになって、平和橋通り、旧千葉街道、京葉道路、首都高・小松川線などを通り抜けて延々、中川・荒川まで。現在、よく整備された親水公園となっています。今でこそ、「親水公園」となっている川。その多くは戦後の高度. 経済成長期を経て汚濁が進みました。「曳舟川」、「中井堀」・・・、そしてこの「小松川境川」も。
 その他の多くの河川(その代表が「隅田川」「綾瀬川」)も、工場排水、農業排水、生活排水等の垂れ流しで濁りに濁り、一匹の魚も棲めないほど汚染され、悪臭を放ち、地元からはやっかいもの扱い。さらに、ひとたび大雨になれば、増水して地元に大きな被害を生みました。
 その後、そうした水路に、工場排水の規制、下水道の完備などによってかつての清流の面影が戻ってきました。特に農業用水として利用されいた用水路、市街地化されて本来の役割をなくしていた流れが、浄化された下水道を還元し改めて放流することで「親水緑道」や「親水公園」として蘇ったわけです。(「小松川境川親水公園」など「親水公園」は、「新中川」の水を引いています。)

 古川親水公園に続く区内で2番目にできた親水公園。菅原橋から中川までの全長3,930メートル。全体は五つのゾーンに分かれ、滝に始まり、せせらぎ、水しぶき、飛び石、釣り橋に冒険船など変化に富んでいる。水遊びができない季節でも、ウオーキングをしたりアスレチックで遊んだり四季を通じて楽しめる。また、桜の名所でもある。(以上「江戸川区」のHPより)

鏡山部屋付近の流れ。
「江戸川区文化センター」付近。こんもりとした木々に覆われた公園。
「平和橋通り」をはさんでまだまだ南西に延びていく。
菅原橋近くの「小松川境川親水公園」入り口付近。水しぶきを上げて勢いよく流れ落ちている(「新中川」からのもの)。
この親水公園の中頃には「森林公園」と名付けられた場所あり(「森林」とは言いがたいですが)。憩いの場所になっています。
木製の橋が随所に。
案内図。
 さて、実はこの「小松川境川(親水公園)」には、他の水路も流れてきていました。
明治中期のようす。赤い線は北からの流れ、青い線は東からの流れ。青い線は細く、赤い線が本流のような感じです。
この道は、かつての水路跡。
ほぼ直線。街路樹がめやすになっています。
東北方向。
沿道に樹木を植えるのもそうした水路跡を示しているのでしょうか?
茶色の線。
 また、現・奥戸3丁目付近で「西井堀」(左上部の直線)から分岐し、総武線を越えた付近で合流していた流れ(その水路跡の道路が江戸川区と葛飾区との区界となっている)も確認出来ますが、現在、総武線の北側地域ではその水路跡はほぼ分からなくなっています。
 このところ、西日本は大荒れの天気。被害も大きいようです。東京は雨風とも少しはおとなしい。明日は、高崎まで。天気の方はどうですかね。
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旧「小松川境川」。葛飾区と江戸川区の区界。鏡山部屋。柏戸。・・・

2013-06-19 20:08:03 | 河川痕跡
 大正時代(1917年~1924年)のようす(「今昔マップ」より)。当時は、まだ「新小岩駅」はなく、「新金貨物線」もなかった。
 赤い線が境川。小松川(村)を東西に分かっていた川。上流は「東井堀」から分岐し、さらに「中井堀」をのっこして流れていたと思われる(明治の地図に「中井堀」との交差するところに「塚之越」との表示あり)。 千葉街道・菅原橋付近からの流れ(同じ「小松川境川親水公園」)は、「中井堀」から分かれた流れ。二つの流れが合流して南西に向かって流れていたようです。上方の鉄道線路は、総武線。中央の直線道路は、千葉街道。現在、「新中川」、「環七」によって分断されてしまってつながる痕跡はほとんどなくなっています。「東井堀」は、現在の「鹿本通り」、「中井堀」は、現在の「鹿骨街道」。一方、「境川」の方は、「小松川境川親水公園」として保存整備され、「健康の道」として江戸川区民の憩いの場所になっています。
 今回は、その上流からの探訪。
青い線が「新中川」、黒い線が「環七」。
「東井堀」からの分岐点。「西小岩親水緑道」と命名されています。「新中川」までほぼ直線の静かな遊歩道。水の流れと緑が豊か。
「蔵前橋通り」を渡ったところ。
所々にモニュメント(ブロンズ製)。
仮橋から工事中の「上一色中橋」を望む。鉄橋はJR総武線。
ガードをくぐった先。境川に続く水路跡?がくねりながら南西に進む。ただし、カーブのしかたはそれらしいが、道幅が広すぎるのが気になる。もっと細いはずだが・・・。
このカーブは水路跡としては、魅力的。
「環七」をくぐる。
このあたりは、道路が江戸川区と葛飾区の区界。右が葛飾区、左が江戸川区。
振り返ると、右が江戸川区、左が葛飾区。
「境川」にちなんだ「さかい湯」。
「小松川境川親水公園」入り口。ここからは、親水公園が葛飾区と江戸川区の区界になる。
右が葛飾区、左が江戸川区。葛飾区側は道路、江戸川区側は整備された緑道が続く。江戸川区の公園事業なのでしょう。
水量も豊富。せせらぎ公園。自然豊かな散歩道、水遊び。
橋の名もたくさん残されている。「鍵屋橋」。曰くは?
これから本格的な水の季節。清掃整備が進んでいました。
「鏡山部屋」。
 この相撲部屋。横綱柏戸が1969(昭和44)年引退後、伊勢ノ海部屋から独立してつくった部屋。
 柏戸は大鵬の好敵手として「柏鵬時代」と言われた相撲全盛期の一翼を担った力士。まさかここにあるとは思いませんでした。
 
 昭和50年、蔵王錦と小沼が揃って十両昇進。待望の関取が2人も誕生。小沼は翌年20歳で入幕、スピード出世で同姓とあって、北の湖2世と期待されたが、ケガで失速。蔵王錦は、北の湖から金星を獲得、大関貴ノ花を押し出して最後の対戦相手となった。しかしあまり長く活躍できずに58年に引退。その他関取数人が出たが大成せず。
 57年に入幕した多賀竜は幕内に定着。58年11月、鏡山部屋初の三役、関脇となった。翌年の秋、前頭12枚目の地位で快進撃。2敗小錦を抑えて1敗で終盤を迎えた。大関若嶋津も綱取りをかけて優勝争いに残っている中、2人の平幕の活躍で割を崩す必要が出てきて審判部だった鏡山はヤキモキしたが、優勝争い優先で若島津の横綱戦を崩してトップを走る弟子に当てる。すると大波乱、大関との熱戦の末見事に撃破、逃げきって平幕優勝を飾った。翌場所の小結が最後の三役となり、翌々場所北の湖を押し出して金星、大横綱を引退に追い込んだ。
 平成に入って多賀竜が引退、金星3つを獲得した起利錦も引退すると部屋はめっきりさびしくなった。師匠も病気がちとなり、関取は5年に鳥海龍が新十両を果たしたのみ。8年に柏戸が死去し、部屋付だった多賀竜が継承した。その後も関取は出ず、弟子も減るばかりだった。
 師匠と部屋付の起利錦の2人体制だが、弟子は師匠の息子竜聖を含む2人だけ。マンツーマン状態である。
 多賀竜の鏡山は、22年から理事に選出され、24年からは先代と同じ審判部長を務める。協会内では手腕を発揮しているが、部屋の方は厳しい状態。今後協会方針である部屋数の削減を実行に移すとすれば、候補となってしまいそうだ。(と、その筋の話)
 ところが、

「鏡桜が新十両 苦節10年、所属力士2人の部屋から関取」 By スポニチ

 日本相撲協会は28日、福岡市内で初場所(来年1月13日初日、両国国技館)の番付編成会議を開き、十両昇進力士3人を決め、発表した。新十両2人はともにモンゴル出身の鏡桜(かがみおう、24=鏡山部屋)と東龍(25=玉ノ井部屋)。現師匠の鏡山親方(元関脇・多賀竜)が96年12月に部屋を継承してから初の新十両となった鏡桜は、部屋に所属力士が2人という厳しい環境の中で出世を果たした。再十両もモンゴル出身の城ノ龍(29=境川部屋)だった。
 苦節10年で目標だった関取昇進が現実となっても、祝福してくれる兄弟弟子は1人。それでも鏡桜は、感慨深げに相好を崩した。「親方がいなかったら自分もいない。力士は2人ですが(三段目の)竜勢には場所中もぶつかり稽古で胸を出してもらった。感謝しています」。師匠の鏡山親方さえも「劣悪な環境」と自虐的に説明する中でひるまずに地道に稽古を積み重ね、自己最高位の西幕下4枚目だった九州場所で4勝3敗と勝ち越し。外国出身力士で史上6番目に遅い初土俵から所要56場所で新十両昇進を果たした。
 モンゴル出身力士のパイオニアで元小結の旭鷲山に憧れ、03年名古屋場所に15歳で入門。師匠によると当時は5人ほどの力士が所属していたが、年々数が減って現在は師匠の長男である竜勢と2人きりとなった。年3回の東京場所前は基本的に部屋(東京都葛飾区)近隣にある中村部屋に出稽古し、九州場所では同じ福岡県糟屋郡志免町に宿舎を置く時津風部屋に連日出向いた。
 96年に継承して初の関取誕生に、師匠も「俺が弟子を集めることができればいいんだけど…。少ない人数の中で一生懸命頑張ってくれた」と申し訳なさそうに祝福した。
 通常は関取になれば個室が与えられるが、鏡桜は現在3階にある約30畳の大部屋を1人で独占。2階に関取用の個室があるが、本人は「竜勢は1階にある部屋で寝ている。とりあえずは動くことはないと思う」と説明する。付け人についても師匠は「どこかの部屋に助けてもらうしかない」と嘆く。相撲協会広報部も「記憶にない」という力士2人という部屋からの異例の出世だが「竜勢と来年も2人で頑張ろうと言い合った」と決意も新たに。名横綱・柏戸が礎を築いた部屋の灯は絶対に消さない。
[ 2012年11月29日 06:00 ]
 
 とありました。こころなしか、静かな佇まいでした。

 そこで「柏戸」(「Wikipedia」により)

 優勝回数こそ5回で、大鵬の32回と比べると少ないように見えるが、横綱在位47場所(歴代6位)、優勝に準ずる成績を残すこと15回で勝率も低いとは言えず、柏戸を「弱い横綱」と評する人は少ない。
 大関時代までの大鵬にとっては最強の壁で、大関時代までは柏戸:7勝・大鵬:3勝だった。その後、大鵬が10勝10敗で並んでから16勝16敗までは全く雁行し、真に両雄伯仲の柏鵬時代を顕した。
 「優勝大鵬、対戦柏戸」と言われたが最後は5連敗し、通算対戦成績は柏戸:16勝、大鵬:21勝。
 柏鵬両雄の対戦は、1960年1月場所 - 1969年5月場所の57場所間に37回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の21回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(うち、相星決戦が2回)あった。
 両者横綱昇進以前の対戦成績(1961年9月場所まで)は、柏戸の7勝3敗。両者横綱同士の対戦成績(1961年11月場所以降)は、大鵬の18勝9敗だった(優勝回数も1961年11月場所以降で柏戸4回・大鵬29回)。
 当時は系統別総当たり制で割が組まれたが、柏戸だけは孤立無援、横綱土俵入りでは露払い・太刀持ちどちらも他の一門から借りていた。弟弟子の藤ノ川武雄が入幕するまでは同門が幕内に一人もおらず、横綱以下の三役力士全員と戦わねばならないなどの不利もあったが、これを考えてもやはり立派な成績だといえる。しかし、引退会見では「柏鵬時代などと言われたが、むこう(大鵬)は成績も立派で自分はケガも多く優勝回数も少なくて恥ずかしかった」と語った。
 大鵬と柏戸の全盛期では、当時の子供が好きだった「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が有名である。子供以外に若い女性にも人気だった大鵬だが、柏戸は男性ファンからの人気が高かったことから「大洋、柏戸、水割り(阪神という説もある)」という言葉が存在していた、と。
(「YOUTUBE」より)
(同)
(同)。右が「柏戸」、左が「大鵬」。
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四季の路。花道通り。大久保病院。水源。西武新宿駅。・・・(「蟹川」跡をたどる。その5。)

2013-06-15 17:38:08 | 河川痕跡
 再び、「蟹川」跡をさかのぼります。人通りも多くなってきました。

「明治通り」方向。左の角が「日清食品」ビル。
道の途中にあった「新宿眼科画廊」きらびやかな布製の作品が回っていましたが。ネーミングがおもしろい。
「四季の道」入り口付近から来た道を振り返る。「新宿ゴールデン街」の北。一段と賑やかな通りになります。
「蟹川」跡。その後、都電が通っていました。
左が「四季の道」かつて都電線路跡、右が「蟹川」流路の跡。
「新宿遊歩道公園 四季の路」。

 「新宿遊歩道公園 四季の路は、昭和45年3月に廃止された都電13系統(新宿駅前~水天宮前)の専用軌道敷を、新宿区が東京都より譲渡を受けて整備し、昭和49年6月24日に遊歩道公園として開園しました。
 失われつつある都心の緑の回復と、住民が安心して憩える場を提供するため、ビルの谷間に武蔵野の面影をしのばせる緑を再現しました。
(「新宿区」HPより)

かつてのようす(HPより)。新宿駅方向を望む。
店舗の裏手を進む。かつては専用軌道でした。

 約260mの細い遊歩道で、ゴールデン街の脇を通り、遊歩道が続いています。緑は豊かなですが、「靖国通り」~「明治通り方向」の「裏道」「早道」といった感じで利用されています。
1960年代後半のようす。赤い線が現在の遊歩道。赤丸が「新田裏」地域。青い線が「蟹川」跡らしき道。(明治通りと都電通りに挟まれた地域)にあるのが、旧「新宿区立四谷小学校」。戦後しばらく使われていましたが、1995(平成7)年に閉校。その跡地は、2008年から大手芸能プロダクション・吉本興業「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」のオフィスとして使われています。すぐ南に隣接する神社が「花園神社」。
案内図。
「四季の路」をそのまま行くと、靖国通りへ。「蟹川」跡の道とは離れてしまいます。

《新宿ゴールデン街》
 歌舞伎町1丁目1番にある飲食屋街。新宿駅周辺には関東尾津組の尾津喜之助、飯島一家内山2代目和田組の和田薫、東京早野会初代分家安田組の安田朝信らのテキヤらが開いた闇市があったが、それらがGHQの意向により整理・撤廃が始まったのが昭和24年秋。様々な交渉、やりとりがあった末、露店は13系統の都電脇(現在地)へと移転が行われることになり、当時、都は転廃業者には更正資金を、集団移転をする業者にはマーケット建設資金の斡旋を行った。同26年暮れには都内の殆どの露店・闇市は消え去ったという。「三光商店街」といったこの街のマーケット、建物は木造3階建て地上部分は商店や店舗、2階は住居、3階は屋根裏部屋という構造の長屋だったが、同33年の売春防止法施行後、やがて現在の「ゴールデン街」と呼ばれる街の形を形成していくことになる。(上記の写真にも写っています。)
 昭和39年東京オリンピック開催に伴い、国際都市東京という名目の下に、前述の売春防止法が施行されたり、風俗店に対する取締強化が行われた昭和40年代に、この街も一時は時代の流れに飲み込まれようとしていた時期がある。やがてゴールデン街として1950年代の雰囲気を残す昭和レトロな街並みが人気を得て活況を呈するが、バブル期の平成2~12年頃、この場所も地上げの嵐に見舞われる。
 再開発を目論む西武の堤義明が銀行から巨額の融資を受け、たった3、4坪の土地と建物を億単位で買収、一時テナントの立ち退き料は1000万円を越えていたという。一時200軒を越えた飲み屋がひしめいていたゴールデン街は140軒以下となり、虫食いだらけ。また平成7~15年にかけ6件の火災が起きているが、その内の何件かは地上げ絡みの不審火と見られている。
 平成12年3月1日より施行された「良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法」(いわゆる「定期借家法」)により、地権者が再開発をいずれ考えているにしても立ち退き料を考えずにスペースを貸せるようになったことで、さまざまな店が出店、再びゴールデン街に人が集まってくるようになった。
 現在約250軒の店舗があり、戦後、この街が誕生して以来最も賑わっている最盛期にあるといってもいいかもしれない。再開発自体が頓挫し、計画そのものがなくなってしまったということが背景にある。
 
 以上、『東京の地名の由来 東京23区辞典』から一部引用。このHPは微々入り細に入りよくここまで徹底して調べ上げたという内容で、いつも大いに参考にさせていただいています。(《歌舞伎町》の項も同HPからの拝借しました。)

《歌舞伎町》
 もと角筈村の内。江戸時代は大筒角場(試射場)の一部・旗本石川氏ほかの武家地・大久保の森林。かつてのコマ劇場の所は戸山・早稲田を流れた蟹川の谷頭の一つで池というか沼というか森林の湿地帯だったという。平成20年新宿コマ劇場閉館のことが伝えられた時の土地の人へのインタビュー時に「昔は沼で葦が一面に生えていたよ」といっていたから、そう遠くない昔にはそういう景観だったのだろう。府立第五女学校(都立富士高校の前身)の写真では沼は写ってないが、周りに建物は全くない。この湧水・湿地帯からの蟹川の流れが「大窪の沢」で、大久保の地名の由来だ。
 明治に入ると大村子爵の所有となり〝大村の森〟と呼ばれて有名な鴨場となった。同22年柏木村と角筈村が合併して淀橋町となり角筈はその大字とされた。大村の森は明治30年代に尾張屋銀行の頭取峯島茂兵衛が買い取って森林を伐採し、淀橋浄水場の開設のため掘り上げた土で沼を埋め、沢もならしたため、今度は〝尾張の原〝と呼ばれるようになり、大正9年にはコマ劇場のところに府立五女が開校、花も羨む乙女の花園となった。四月女学校の桜木の爛漫たる美しさは譬えようがなかったという。女学生の似合う町だった。
 昭和7年淀橋区が成立して角筈1丁目の内となり、そして戦災、新宿は一面焼野原となった。同23年4月1日角筈1丁目の北半と東大久保3丁目の一部をあわせて歌舞伎町とした。昭和53年歌舞伎町に東大久保3丁目・角筈1~2丁目・柏木1丁目の各一部をあわせた町域を1丁目、西大久保1丁目の一部を2丁目として現行の「歌舞伎町」が新住居表示を完了した。
 (参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『新宿区史』『新宿区町名誌』など)
《歌舞伎町の由来》
 昭和20年角筈一丁目北町町会長鈴木喜兵衛は、復興協力会を立ち上げて府立五女(中野区に移って富士高校)の跡地を含む一帯を、銀座と浅草をミックスしたような庶民娯楽センターにして、歌舞伎の「菊座」をはじめとして映画館・演芸場・ダンスホールなどを集中した歓楽街を作ろうと計画、区画整理を行い、昭和23年角筈1丁目の北半と東大久保の一部を併せた町域を、時の都知事安井誠一郎が「歌舞伎町」と命名した。名付け親は地域にふさわしい名前ということで都建設局長石川栄耀(ひであき)が「歌舞伎座建設が目的なら」と提案したのが採用されたものだ。しかし種々の理由により歌舞伎劇場建設は頓挫した。そこで計画されたのが日米合弁の国際百貨店構想だが、それも資金のめどが立たず不発におわった。それで当時日本各地で開かれていた内国博覧会を開催することとし、同25年東京産業文化平和博覧会を開催したが6千万円もの大赤字を背負い込んだ。しかし怪我の功名、残った施設が娯楽施設に転用できて、結果として本来の目的が達成できることとなった。この町が歓楽街になったのは同28年頃からで、同31年「菊座」に代わる「新宿コマ劇場」が誕生し、同32年頃に追分(伊勢丹百貨店の一帯)の賑わいを抜いた。菊座こそ立ち上がらなかったがコマ劇場は庶民娯楽の殿堂として君臨した。なお戦前、新宿3丁目33番三越南館(大塚家具)のところに新歌舞伎座があった。

 以下足早に。
いよいよ歌舞伎町の繁華街に。
何だかかつての川の流れを想像できそうな道筋。
ここも、川筋らしい曲がり方の道路。
「コマ劇場」跡の再開発計画。着々と工事が進んでいます。花道通り(旧「蟹川」水路)の南に面しています。
右手奥が「大久保病院」。
水源の一つに想定される「大久保病院」。豪華な建物です。
そこから歩いて来た道(「蟹川」跡を振り返る)。
遠くに西武新宿駅が見えます。
この先の駅舎下あたり(歩道との際)が水源地?
その足下の歩道には四方の地名のはめ込みが。同じ方向にある地名、取り合わせがおもしろい。沼津と沖縄、富士山と熊本・・・。それに東西南北の方向は合っているが、指す方向が微妙にアトランダム。
 
 ようやく終点に着きました。今回は、自転車でなく徒歩で(ただし、2回に分けて)。行ったり来たり・・・、いい運動になりました。そして、歩いてみて初めて実感できる痕跡探しの旅でした。下流から上流(水源)へ。約5㎞、約30㍍の高低差(神田川からここまで)のようです(「今昔マップ」によれば、「西武新宿駅」付近が標高33㍍、神田川合流点が5㍍。標高を追っていくと流路も何となく類推できます。)。いろんな方々(TV番組も含めて)が「蟹川」跡を探訪していることにも驚き! 今度は、やはり「渋谷川」上流跡の探訪になりますか? それとも・・・。


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椎の木坂。抜弁天通り。新宿文化センター。新田裏。・・・(「蟹川」跡をたどる。その4。)

2013-06-12 19:37:20 | 河川痕跡
 信号を渡ったところを左折すると、「椎の木坂」。下っていくと、谷底の部分のようになっていてそこを右折すると、道は上って行きます。確信のないままに歩き始めました。
大久保通りは見上げるほどの高さ。
 もともとは上って、下っての急な坂道状。谷の底を流れる「蟹川」を越えるにはそうするしかなかった。都電(市電)をスムーズに走らせるために今のような構造にしたようです。
 改めてこの高さを見上げると、通りを隔てて向こう側の「戸山公園」「戸山ハイツ」とは地形の高さが合うことになります。
「椎の木坂」の最下部から西側を望む。右に見えるのが、「大久保通り」の壁面。
しばらく行くと、緩やかに左にカーブしながら上がっていく道に。「蟹川」の跡とは限りませんが、何となく・・・。そう思いたい(笑い)。実は、前回の時、この辺から怪しくなってきて、後日改めて出直して探索しました。梅雨空のもと。・・・

前方左を曲がると、「職安通り」(「抜弁天通り」)。こころなしか道はゆっくりと上がっています。
前方が「職安通り」。ただし、この道は旧道とも考えられます。
途中、見かけた居酒屋(風)のお店「砂場」。このあたりは、さびれたような商店や商売をやめたような家(失礼!)がいくつか並んでいます。昔ながらの街並み。
左の道をまっすぐそのまま通りを渡っていくと、「新宿文化センター」の前に出ます。
この道も同じです。
「職安通り」(「抜弁天通り」)。前方のところがこのあたりでは一番低くなっているところ。その付近を「蟹川」は右から左に流れていたと思われます。この通りの下には都営大江戸線が通っています。拡張工事などもまだ行われています。手前が「東新宿」駅方向、先が「若松河田」駅方向。
 いずれにしても、新宿方向から来るいくつかの道の中で、通りを越したあとで曲がりながら「大久保通り」に向かって下っていく道が怪しい!
 のあたりから新宿文化センター方向を望む。
正面が「天神小」右が「文化センター」。
「天神小」前から。左が下から上がって来た道。ここで、合流します。右がかつての都電通り。そのまま道は下がっていって、「抜弁天通り」に。
「抜弁天通り」から文化センター方向を望む。かつての都電線路跡の道。このあたりは、専用軌道でした。緩やかな上り。
「新宿文化センター」。かつて、都電全盛期には大きな車庫でした。

《新宿文化センター》
 新宿区成立25周年を記念して都電大久保車庫の跡地を利用して1979年に開館。開場から28年が経ったため大規模な改修工事が行われ、2008年4月にリニューアル。駅からかなり離れていることもあってホールの稼働率が低く、区議会等で度々指摘されていたが、新宿コマ劇場、東京厚生年金会館の相次ぐ閉館に伴い、区内唯一の大ホールとなり、一転、興業団体にとって使用するのが難しいホールとなっている。

「文化センター」前の道路(「蟹川」の水路が路面電車の軌道になり、今は道路になっている、ということになります。)
 ただし、明治時代以降の古い地図などを参照すると、今来た道が「蟹川」跡ではなく、あまりにも直線過ぎていて、本来の川筋は現在大きな建物になっているところを流れていたのではないか、と思います。
「新宿イーストサイドスクエア」。この敷地内をかつてはながれていたのではないか?
広大な敷地に大きなビル。「日本テレビゴルフガーデン」跡地を再開発し、昨年完成した。料理店などさまざまなテナントも入っているオフィスビル。知らなかった!


しばらく周囲は都営住宅などがある静かなところを西に進みます。
「新田裏」と屋号に入っている店を発見。に注目。
下のには「新田裏」とある。上の大きなは、現・戸山公園。
「日清食品」。明治通りとの交差点。この裏手一帯が「新田裏」と称されていました。
 
 ここからいよいよ賑やかな通りに入ります。ここで、一服。

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馬場下町。戸山公園。戸山ハイツ。箱根山。・・・(「蟹川」跡をたどる。その3。)

2013-06-11 19:20:50 | 河川痕跡
 では気を取り直して早稲田駅から南西の方角、西武新宿駅をめざして。

早稲田通りから北東方向の路地。このあたりは水路らしき跡は不明。ただ、北にあった建物は道路から下の方にあり、かなり大きな窪地になっていたことが分かります。
右の建物(早稲田大学研究開発センター)は、一階が地下式。このあたりは、「鶴巻町」。支流との合流地点のようにも。
早稲田中、高校舎。正面が渡り廊下。あの下に「蟹川」の流れがあった?
早稲田通り。「高田馬場」駅方向から「穴八幡」方向を望む。右手が「穴八幡」境内。緩やかに東に道が下っています。その辺りが、「蟹川」の流れ跡(右手から左手奥へ流れていました)。右手奥の方が早大文学部、さらに「戸山公園」。緩やかな上り。
 
 早大文学部の敷地脇を通り、「箱根山通り」に。「戸山公園」の入り口です。
運動広場。
せせらぎを模したもの。この公園の周囲はけっこう起伏のある一帯。東も西も高台になっています。ただし、この場所は西北の高台に属し、「蟹川」跡ではないようです。もっと南側がぐっと低くなっています。
東側の高台。その奥の高台には、国際医療研究センターなどの大がかりな研究施設や「戸山ハイツ」などの集合住宅が建ち並んでいます。「蟹川」は東南、西北の高台に囲まれた谷底を北東に進んでいました。
高層の都営住宅西側の崖。住宅側の3階ほど地面が低い。
1920年頃の地図。赤い斜線部が高台、水色の部分が谷底(湿地帯・荒れ地)。なお、ピンク色のところに比べて、薄い緑色の地域の方は、海抜が低い。
「大久保通り」から北東を望む。高台になっています。 
 
「戸山公園」は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷でした。2代藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられました。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園でした(谷文晁による絵巻が現存している)。その後は数度の火災や水害により荒廃し、復興されることありませんでした。
 明治維新後、明治政府に明け渡され、跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された。1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園しました。
 公園付近は、戸山ハイツといった団地や大学や高校などの文教施設、社会体育館や障害者センターなど公的な施設が多くあります。
 
《戸山ハイツ》
 戦後すぐの住宅難を解決するため、都営住宅が建設されることになり、団地の原点ともいえる「戸山ハイツ」が1949年に完成。1970年代に、鉄筋コンクリートの高層住宅に立て替えられました。起伏の多い土地で上り下りがしんどいことも。また、住民の高齢化問題で話題に取り上げられます。
1階が商店になっていますが、人通りはまばら。

 では、「箱根山登山」をします。
が「箱根山」の位置。
箱根山の登山口。
標高44.6㍍。山手線内で一番高い人工の山(だと思いました)。
けっこう急な登山道。
麓から見上げた山頂。
説明板。
教会と幼稚園の建物の裏手、基礎部分。石造り。この半地下式の石造りの部分は、陸軍戸山学校将校集会所の跡と言われています。どうしてこの場所だけ壊されずに残り、上に教会が建っているのでしょうか?
頑丈な造り。

公園内には緑豊かで静かな散歩道があります。
「紫陽花」がところどころに。梅雨時、初夏らしい雰囲気。
公園のあちらこちらに運動広場があります。お年寄りがベンチに腰掛けてご歓談中。
住宅側から見下ろしたところ。かなりの高低差です。
ここも東の高台から西側を見下ろしたところ。
「戸山ハイツ」の案内図。白抜きが公園一帯。周りの高台に囲まれた窪地。かつては大きな池だったようです。その中を(池の中に)「蟹川」は西北に向かって流れていきました。
「現在地」という表示場所から公園(緑の部分)の中を西北に流れ下ったというわけです。(「大久保通り」に面したところにあった「案内図」。)
緑豊かな公園。都心でこんなところがあったとは驚きです。
「大久保通り」から公園側を見下ろしたもの。かなり下になっています。

 やっと「戸山公園」を抜けられました。今度は、「大久保通り」を渡って新宿に向かっていくことに。ところが、どこを行ったらいいものやら。何しろ「大久保通り」はかなり高いところを通っていて、どこも皆、渡った先は下り坂。
 「水」は上から下に流れるもの。はてどうしたものか? ということで、ここまで。西武新宿駅はまだまだ先です。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)明治10年代前半のころのようす。競馬場がありました。のちに不忍池に移転しいます。中央付近を南から西からきた流れは今度は北に向かって流れていきます。



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山吹町。漱石山房。夏目坂。早稲田駅。・・・(「蟹川」跡をたどる。その2。)

2013-06-10 19:28:18 | 河川痕跡
 江戸川橋通りを渡ったところから「蟹川」跡が続きます。このあたりは、新宿区山吹町。途中、都立山吹高校を経て、西に向かって歩くうちにいつしか道をはずれ、・・・。
細い道ですが、川筋のように微妙に曲がって西(上流)に向かっていきます。
 ところで、「山吹」町の由来は、太田道灌の山吹の里伝説から命名した、と。
 神田川に架かる「面影橋」を新目白通り側から渡ったところに、「山吹の里」の石碑がある、らしい。場所は新宿区ではなくて、豊島区高田1丁目。
 
 太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。

 「山吹の里」の伝説は、湯浅常山が記した「常山紀談」の上記の一節から一般に広まったと言われています。では、その場所はどこか?
 
「Wikipedia」では、

 道灌が父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励んだという。豊島区高田の神田川に架かる面影橋の近くにも山吹の里の碑があり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があり、伝説の地に比定されている。また、落語にこの故事をもとにした『道灌』という演目がある。

 ここでは、越生と面影橋との二カ所があげられています。いずれにしても、「山吹町」には町名としてのみ残されているということになります。そういえば、都庁近くにある「新宿中央公園」の片隅にも、この話に関連する道灌と娘の像がありますが・・・。


 私には、落語の方がなじみです。 

狭く曲がる道路の両脇は印刷関係の小さな工場や民家が続きます。「大日本印刷榎町工場」の北西付近。
かなり以前に水路としての役割は終えているせいか、道幅が狭くなったり、急角度で曲がったりしていますが、まだまだ痕跡をたどることができます。
来た道を振り返る。下流(神田川)方向。
「蟹川」は左奥の方へ流れていきました。
都立新宿山吹高校。蟹川は、かつては山吹高校の南をかすめるように上流に向かっていましたが、現在は完全に校地内になっています。

 都立新宿山吹高校。無学年制の定時制、単位制高校として旧赤城台高校跡地に1991(平成3)年年4月1日に開校。
 受け入れ先がなかった他高校の中退者などの救済機関としての学校としても設立されたことで、幅広い年齢層が在籍している。
 普通科と情報科の2学科の定時制は月曜から金曜までの平日、通信制のスクーリングは土曜日に行われ、これらの授業とは別に、一般向けの生涯学習講座も土曜と日曜に開講されています。授業の時間割は、生徒各々が自由に科目を選択するシステム。学校行事などは殆ど自由参加が基本である。
 都立定時制高校の中では比較的、大学進学を選択する生徒が多く、これまで国公立大学や、早稲田大学などの難関私立大学にも多くの合格者を出しています。

ちょっと分かりにくいですが、この道路の中央奥(の部分)が少し低くなっています。ここが「山吹高校」を過ぎた「蟹川」の旧水路だと思われます。
 
 さて、広い通り(鶴巻町交差点から弁天町への)を渡ると、水路跡ははっきりせず(見失い)、あちこち歩き回って早稲田通りに出てしまいました。うろうろしているうちに、
「漱石山房通り」。上り坂です。
「漱石公園」入口。
 
 夏目漱石は、明治40年9月、早稲田南町に引っ越した。ちょうど朝日新聞に専属小説記者として入社して半年、その第1作となる 「虞美人草(ぐびじんそう)」を書き上げた頃のことである。漱石は、ここで多くの名作を生み出し、大正5年、49歳で「明暗」の執筆中に亡くなるまで、 住み続けた。この、漱石が晩年を過ごした家と地を、「漱石山房(そうせきさんぼう)」という。
 「漱石山房」の家は、ベランダ式の回廊のある広い 家で、庭には背丈を越す芭蕉がそよぎ、木賊(とくさ)が繁っていた。もとは医者の家で、奥の十畳は診察室として使われていたような板敷きの 洋間があった。漱石は、この洋間に絨毯を引き、紫檀(したん)の机と座布団をしつらえて、書斎としていた。机は意外に小さくて、漱石が小柄 な男であったことを思い浮かべることができる。書斎の手前の十畳間が応接間となっていた。漱石には、門下生や朝日新聞の関係者 など、面会者がとても多かったため、面会日を毎週木曜日に決めた。そして、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け 入れた。これが「木曜会(もくようかい)」の始まりである。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所と なり、漱石没後も彼らの精神的な砦となったのである。(「新宿区」HPより)
 さらに、

 馬場下の実家に程近い住宅地の一角、旧牛込区早稲田南町七番地にある。
漱石が教職を辞して東京朝日新聞社に専属作家として入社した明治40年。その年の9月から没するまでの10年間を過ごした旧居で、「漱石山房」と称された。
 移り住んだ当時は、周辺が不衛生であったという理由でこの地に永住する気持ちはあまり無く、漱石は生涯、家賃35円の借家住まいだったという。
 漱石の死後、遺族は朝日新聞社からの退職金の一部で家を買い取り、大正7年、長女の結婚とあいまって、木曜会の会合に使用していた客間と書斎を母屋と分離させる改修工事を行った。これは当初、この二部屋を記念館として保存させようと考えたのだと伝えられている。
 その後、関東大震災では大きな損傷を受けなかったものの、昭和20年5月25日東京大空襲により早稲田一帯と共に焼失。戦後、土地は都が譲り受けた。のち新宿区に移管され、現在は敷地の一部が区営住宅と区立漱石公園となっている。
 ちなみに、漱石山房で執筆された作品は数多く、代表作としては『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『こゝろ』『明暗』などがある。その後の日本文学界に大きな影響を与えた漱石門弟(漱石山脈)による「木曜会」のサロンとしても利用された。(「NPO法人漱石山房」HPより)

 恥ずかしながら初めて訪ねました。区営住宅、裏手は民家に囲まれた公園。小さな「漱石山房」当時の復元したモニュメント(言っては失礼だが、芝居のセットみたいな代物)が二つ。
あっけないこと、おびただしい。
「夏目漱石終焉の地」の説明板。周りを民家に囲まれて落ち着いた雰囲気はまるでなし。背後の民家では、色とりどりの洗濯物が満艦飾。写真でカットするのに一苦労。
「漱石山房の記憶」と称する説明板。

 気を取り直して早稲田駅の方へ。
「夏目坂」。
 夏目漱石の生家がこの坂の途上にあったことから、この名が命名された。漱石自身も随筆『硝子戸の中』の中で
「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。」と。

 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。平成十四年三月 新宿区教育委員会(「碑文」)
上を望む。此の記念碑の前はコンビニ。気づく人もいない(地元ではなじみの深い?坂)。
「夏目漱石誕生の地」の記念碑。かなり立派。
 「碑」の下部に説明文。
 
 夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ、明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し、大正5年(1916年)12月9日新宿区早稲田南町七において没す。生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ。
 
 碑の後には東京都新宿区教育委員会の詳しい説明板。

新宿区指定史跡 夏目漱石誕生の地 所在地 新宿区喜久井町一番地 指定年月日 昭和六十一年十月三日
 文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。
 夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。
 なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆『硝子戸の中』に詳述されている。
 また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
 平成3年11月

 下町と違ってかなり起伏に富んだ道筋。上ったり下ったり・・・。東京メトロ「早稲田」駅前で、今回は、終了!
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「江戸川橋」駅。石切橋。新宿区と文京区の区界。渡邊坂。・・・(「蟹川」跡をたどる。その1。)

2013-06-09 20:49:09 | 河川痕跡
 先日、東京メトロ有楽町線「江戸川橋駅」近くにある「日教済」会館で会合があって出かけました。
 最近、出かける前には必ず行く先付近の地図を調べ、何か興味が出そうな痕跡などを発見するとちょっと寄り道、を常にしています。
 さっそく地図を見ると、付近のまっすぐで広い道に比べ、ちょっと曲がりくねった道を発見。拡大した地図の上をたどっていくと、新宿区と文京区の区界になっている箇所も(葛飾区と足立区の区界にも「古隅田川」によって入り組んだ区界が存在します)。
文京区関口1丁目と新宿区山吹、水道、改代町などとの区界(カギ型になっている南側の部分。)
 実は、この道がかつての「蟹川」の流路の一部ということが分かりました(「蟹川」という川の存在は聞いていましたが)。

 蟹川(かにかわ)は、大半は新宿区内、一部は文京区内をかつて流れていた河川です。現在は暗渠化され(下水道)、道路となったりして、流路の痕跡は残されていません。「金川」という呼び名もあったようです。
 現在の東京都保健医療公社大久保病院付近(西武新宿駅東側)にあった池、あるいはもう少し西の西武線駅前付近が最上流の水源とされますが、現在の歌舞伎町付近にあった大小の池の水も集めて東北に流れていました。
現在の歌舞伎町付近。二本の水路が確認できます。
が水源付近。が太宗寺。 

 新宿ゴールデン街北側を通り、新宿二丁目にある太宗寺からの流れを集め、旧都電跡(「新宿遊歩道公園「四季の道」)近くをかすめ、日清食品前(旧「新田裏」)、新宿文化センター(旧都電車庫)の通り、職安通り下(抜弁天通り下)、大久保通り下、戸山ハイツ、馬場下町、早稲田鶴巻町を流れ、文京区に入り、石切橋、掃部橋の間で神田川に合流していました。(明治期の地図でははっきり幾本かの川となって表示されています。)

現在の早稲田中、高校付近。右下が現在の戸山公園付近。早稲田中学校・高等学校敷地内の地下を流れているようで、川の部分には地盤を固めるための杭が打てないため、川の上には校舎は設置されなかった、と。その部分は2階・3階部に渡り廊下をつけている、とのこと(現地確認できず)。

赤い線が「蟹川」及び支流。上の川は「神田川」。なお、外苑東通り沿い(弁天町)からの流れもあり、早稲田鶴巻町で合流していました。左上(西側)から蟹川に合流する支流がありますが、一部は、現在の文京区(関口1丁目)と新宿区との区界になっていると思われます。 

 ところで、

 西武新宿駅のやや西、JR山手線と総武線が分岐する辺りにその流れを発し、歌舞伎町にいくつかあった池の水を加えて花道通りのルートを流れ、明治通りの東側で向きを北へと変えて、戸山公園内、早稲田大学近辺を経由し、途中いくつかの支流を加えたり分流しながら地下鉄有楽町線の江戸川橋駅付近で神田川へと注いでいた。川は昭和初期には暗渠化され、現在、大部分は下水道戸山幹線となっている。・・・


 以上のように、すでに2011年、本田創 (ほんだ・そう)さんによって「みちくさ学会」HPにおいて、念入りなレポートが写真入りで紹介されています。

《「みちくさ学会」とは?》
 路地、看板、標識、坂道などは...興味のない方にとってみれば風景の一部に過ぎません。しかし、これが好きで好きでしょうがない人にとっては魅力ある対象です。「みちくさ学会」は、その道のブロガーが興味の対象としてる対象物の面白さと、その鑑賞術を紹介。“みちくさ”の楽しみ方を提案するブログメディアです

《本田さんのプロフィール》
1972年、東京都生まれ。小学生の頃祖父に貰った1950年代の東京区分地図で川探索に目覚め、実家の近所を流れていた谷田川跡の道から暗渠の道にハマる。
1997年より開始したウェブサイト「東京の水」は現在"東京の水2009Fragments"として展開中。
2010年、「東京ぶらり暗渠(あんきょ)探検 消えた川をたどる! (洋泉社MOOK)」に執筆。
日本最南端の島の地理や民俗を紹介するサイト「波照間島あれこれ」も主宰。

 「蟹川」は、他にも多くの方々のHPで紹介されています。大都会の中ですっかり失われた川の痕跡をたどる、というのも乙なものです。
 ですので、携帯電話で撮影しながら先達の後追いということになってしまいました。こちらは神田川合流地点と思われるところから、上流にさかのぼることになりましたが。
神田川。このあたりが蟹川が神田川に流れ入ったあたり?
「掃部(かもん)」橋。「古川橋」の上流の橋。
「石切橋」の説明板。「古川橋」の下流の橋。
この細い路地が文京区関口1丁目と新宿区水道町の区界。右が文京区、左が新宿区。「新目白通り」から少し入ったところ。直線の反対側・神田川には「古川橋」があります。
「古川橋」。
右からの道も水路の跡のようだ。奥が文京区。
印刷会社の路地。区界の、すれ違うこともできないような細い道が一直線に「商店街」の先まで続きます。右が文京区、左が新宿区。
商店街。細長い一方通行の道。買い物客はそこそこ。
商店街の一角。「旧小日向町」という案内板。
かつての水路跡(下流方向)。右が新宿区、左が文京区。
水路跡のような。左上が文京区。このあたり、まだ砂利道があったり、古い家屋もあります。けっこう入り組んだ街並みになっています。
水路跡ははっきりしませんが、急角度で曲がったり、建物の上半分が文京区、下半分が新宿区などというところもあります。
旧水路。左が文京区、右が新宿区。道路管理はどうなっているのでしょうか? 例えば違法駐車の取り締まりなどの場合。
「蟹川」跡の道の二本北側の道。北西の方向に続く細く短い道。左が新宿区、右が文京区。この分岐点にはちょっと広い広場状の空間が残されています。蟹川と支流の合流点?
下流方向を振り返る。このあたりから流れは新宿区内をさかのぼります。
「江戸川橋通り」方向を望む。
下流方向(神田川方向)。
蟹川跡の道路と江戸川橋通りとの合流点。「山吹町」交差点の南。
 江戸川橋通りにある「渡邊坂」。緩やかな坂が上の方に向かいます。「蟹川」は谷の底を流れていました。

 これでやっと江戸川橋通りを渡って早稲田の方向に進むことになります。ここまであちこち歩き回って(ブログ上で)なかなか先に進みません。この先は次回に。
 いつまで続くことやら。「夏目坂」までからみますので。

早稲田正門通り。突き当たりが早大。

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葛飾区立石。小さな用水路跡。

2013-06-07 19:35:32 | 河川痕跡
 四ツ木のイトーヨーカ堂に買い物と、曳舟川親水公園を水戸街道の方へ。広い道路をはさんで曳舟川は続きます。水戸街道の手前にある橋が「平川橋」。赤さびた雰囲気が時代を感じさせます。正面、向かい側にも古い橋の遺構が残っています。
かつての曳舟川はかなり幅広かった(二つの流れが並行してあった)ことが分かります。
「玉川橋」。ヨーカ堂の駐輪スペースのはずれに古びた橋がありました。気がつかなかった! ここはかつての水路跡。
 葛飾区内には農業用水が縦横に走っていました。いつしか田畑がなくなり、宅地化され家が建ち並び、その路地裏をどぶ川のような流れになってもまだあちこちに残っていました。下水道の整備によって、そうした用水路は緑道として残ったり、道路に変わってしまいました。こんなショッピングセンターの脇にもこうして存在感がある「橋」。
 そこで、ついついその跡をたどってしまいました。もともとは、立石地区の田畑を潤していた用水路の一つ。流れていく方向から見ると、下流は、曳舟川に合流していたようです。
ヨーカ堂の北側。左(東)から右(西)へと流れはあったようです。奥の森は、「四ツ木白髭神社」。この社は昔と変わらずにそのままの位置にあるようで、承応3年(1654)四つ木村が立石村から分村したとき、鎮守として勧請した神社であると伝えられています。
曳舟川方向。水戸街道にぶつかります。
水戸街道の歩道とのところにコンクリート壁が。用水路との関連は不明ですが、こんなごついものがどうしてここにだけに。
水戸街道を越え、そのほぼ直線の先にある歩道。正面が曳舟川(親水公園)。合流点?
再びヨーカ堂に戻って駐輪場の脇。玉川橋東側の水路部分。
平和橋通りを越えると、葛飾警察署のすぐ裏手に一直線の緑道がかなり遠くまで続きます。「玉川橋」からのライン上(少し屈折していますが)。家々の裏手を通る道の両側は緑が連なっています。業者が剪定作業が行っていました。管理の行き届いた遊歩道。
十字路。こちらの道もかつての用水路跡のようです。
左右どちらも緑道。もともとは区の管理下の用水路? そのために整備がよくできているのでしょう。道の左奥にはシュロの木。
びわの木。実が色づく雰囲気。かつて、区内では、シュロの木やびわの木が目につきました。もうほとんど見当たらないのは残念です。
キョウチクトウ。この木も庭木としてありましたが、今はあまり見なくなった感じです。イチジクの木などもよく見かけましたが、今は全くないようです。
紫陽花。この花は、以前よりも増えてきているような印象。
ここで、終点。来た道を振り返る。こんな細くても一直線の道が残されていたのですね。道路に突き当たってこの先は不明でした。
戦前のようす。碁盤の目のような道の周囲はほとんど田んぼでした。が用水路。が神社。
戦後間もなくの頃のようす。次第に宅地が増えてきています。が用水路。が神社。
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わくらの渡し。油堀川の跡をたずねて。その2。ついでに清澄通りへ。

2013-02-28 19:13:09 | 河川痕跡
 北詰にあった「説明板」より。

 この付近は、幕府賄方組屋敷があり椀をしまう倉庫があったことから「わんぐら」「わぐら」といった。明治二年からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。
 昭和四年、ここにはじめて和倉氏橋がかけれられ、橋は長さ二〇・四メートル、幅十一メートルの鉄橋であった。
 昭和五十年、油堀川がうめられたので和倉橋はとりはずされた。

左が保存してある和倉橋の「親柱」。
南詰にある説明板。

 深川の橋
高速道路9号線の下には木場から隅田川へ抜ける運河、油堀川があった。ここに関東大震災後の昭和4年、震災復興事業の一つとして和倉橋が架けられた。橋が架かるまでは、「和倉の渡し」と呼ばれた渡し舟によって両岸が結ばれていた。「和倉」の名は、その北岸の町、和倉町からつけられた名である。
 町割の造成や橋の架設は大火災がきっかけになることが多いが、この和倉橋のように震災復興も深川の発展にとって大きな役割を果たしたといえる。
 現在、深川に架かる橋もまた、昭和初期に造られたものが多く、橋たもとの親柱などに往時のデザインをしのばせている。

 
 江東区立数矢小学校の裏手に当たる。
東側(木場公園方面)を望む。

 両国へ向かう「清澄通り」沿いで目にとまったあれこれを。
「海辺橋」。仙台堀川に架かる橋。明治後期の大開発まで、まだこのあたりは海辺近くだった、と。
 その橋の北詰にある芭蕉にちなんだモニュメント。
背後のつくりといい、何だかみすぼらしい趣だが、「採茶庵跡」碑と出立姿の「芭蕉像」。隅田川河畔にある「ブロンズ像」もイマイチだったが・・・。

 芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において、代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったが、また平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建て、みずからも彩茶庵と号した。芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄2年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した。
     昭和33年(1958)10月1日    江東区第7号

 芭蕉が奥の細道の旅に出る前、しばらく杉山杉風の別墅採茶庵に住み、元禄2年(1689)5月16日仙台堀川の土手から船で出発した、とこと。
「仙台堀川」。隅田川方向を望む。
「清澄庭園」と清澄通りに挟まれた細長い商店の連なり。「旧東京市営清澄庭園店舗向住宅」という、れっきとした名を持つ。かつては総戸数48戸あった、という。1階が店舗で2階が住まい。関東大震災後の復興事業の一環として東京市が昭和3(1928)年に建てたもの、らしい。ということは、85年前の建物。
この一画。いつまでこのまま残っているのか? まさにレトロな雰囲気。今でも現役というのがすごい! 
「二代目中村芝翫」宅跡。小名木川・「高橋」のたもとにある。
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