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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

油堀川の跡をたずねて。その1。

2013-02-27 23:25:09 | 河川痕跡
 元弾正橋探索のついでに。油堀川(運河)の跡を。
「油堀川」。元禄年間に掘られた隅田川から木場に至る運河。現在の佐賀町、福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、油堀河岸とか油堀と称された。昭和50年(1975年)に埋め立てられ、そのあとに首都高速9号深川線が建設された。
明治中期のようす。中央の斜め南東に急角度で進むのが「油堀川」。北西から南東へに進んでいるのが「仙台堀川」。クロスして南西に向かうのが「大島川西支川」。この付近は、堀割が縦横にあった。西が隅田川。

 首都高の橋脚は、かつての運河の流れに沿って続いていく。
「隅田川大橋」からのスカイツリー。上は、首都高。隅田川上流に架かる橋は、「清洲橋」。
隅田川下流。「永代橋」。月島方向。
深川・木場方向を望む。埋め立てられた油堀川の上が首都高。
隅田川との合流点。かつて水門があったところ。
駐車場。
「緑橋」。現在、「仙台堀川」から南に分岐している「大島川西支川」に架かる橋。大島川は、埋め立て以前には「油堀川」を横切っていた。関東大震災に伴う復興橋の一つ。
 大島川西支川は、右岸佐賀2丁目・左岸福住2丁目で仙台堀川から分かれ、大横川(旧大島川)へ至る延長約820メートルの河川。両岸は、元禄期までに埋立てられた。川沿いには河岸地が設けられ、かつては荷物の積み降ろしなどでたいへん賑わっていた。本川の大島川は、木場5丁目から隅田川へ注ぐ河川。名称は、北岸の大島町(現永代2丁目の内)に因む。昭和40年(1965年)に、名称は大横川に統一された。西支川・東支川に大島川の名称が残されたが、平成4年(1992年)、東支川が区立木場親水公園となったため、現在の地図上では西支川のみが河川としてその「大島川」という名称を受け継いでいる。
かつての護岸壁の名残りのようだ。
壁を隔てて少し高いところに駐車場などがある。一部にレンガが使われていたり、苔むしたようすが時を感じさせる。
大きくカーブしている。川幅は20㍍以上で、けっこう広かったようだ。「門前仲町」駅に近くになると、かなり大きな駐輪スペースになる。
広々とした空間が広がる。門前仲町方向を望む。
首都高橋脚の北側。木々の植わった遊歩道になっている。かつては川沿いの倉庫街だったところ。
現在の木場公園付近。区割りされた堀が続く。下方西側に現在の首都高の深川ランプがある。
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河原道。前堰川跡緑道。

2012-10-30 21:20:23 | 河川痕跡
 千葉街道・江戸川総合文化センターの反対側の小道が「河原道」。「元佐倉道(千葉街道)」から分岐して南東・篠崎の「河原の渡し」まで進む道。江戸川の対岸が河原村。今でもくねくねと曲がった道が続きます。途中、菅原橋を経由して流れてくる「中井堀」とそこから分岐した「前堰川」を越します。しばらく進むと、「環七」。その先も「新中川」まで続きます。その先の道、現在では分からなくなってしまいました。
明治13年作成の地図。中央の元佐倉道から分岐しているのが「河原道」。途中で横切るのは、曲がった細い川が「前堰川」、直線の水路が「中井堀」。
道の入り口付近に「道標」あり。
町工場の間を進みます。
正面の狭く曲がった道。工場の間を抜けてくるのが、「前堰川」緑道。
仲居堀通り。
?? 帽子のモニュメント。茂みの中から頭だけ。
道の脇にある園芸販売所「喜楽園」。かなり広い土地で野菜も扱っています。昔ながらの直売のお店。
住宅街に入ってもくねくねと曲がった道。
西から続く道。いくつにも分かれていきます。現在は青い部分が「新中川」。「新中川」の手前、中央の二股のところに「道標」あり。東に見える水路は「東井堀」。
新中川。「大杉橋」。
対岸の方の道は、宅地開発等のため、不明に。


 ついでに途中でぶつかった「前堰川」跡緑道の探索。
入り口には特に表示がない。ここに「江戸川区緑道 前堰川」とあった。
分岐して南西に進む。
途中で大きな工場の間を抜けていく。
工場の騒音と匂いと・・・、活気がある道筋。かつてはどぶ川だった?
ささやかなモニュメント「わらじ」。
「俵」と「ふるい」。なかなか味のある小作品群。
南方向へ広い道が続きます。
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本郷用水親水緑道。江戸川スーパー堤防。

2012-10-25 20:09:55 | 河川痕跡
 旧江戸川から鹿骨用水まで約1.6㎞。徒歩で20分ほど。戦後つくられた農業用水路跡。広い道路、広い歩道。その間にゆったりとした空間で親水緑道があります。ただ、樹木があって緑が濃いのは江戸川堤近く。他は開放的な水路になっていて、水生の草花と泳ぐ鯉の姿が親水らしい雰囲気をつくっています。沿道のここかしこには、大きな鉢に花々が植えられて地元の環境つくりがうかがえます。「篠崎公園」から徒歩でぐるりと回りましたが、篠崎公園付近には、スーパー堤防建設反対ののぼりが目につきました。
 「親水緑道」を含む広い道路つくりも、それに関連した事業なのかどうかはわかりませんが、「税金の無駄遣い」というのぼりなど、莫大な税金を投入しての大事業。いつしか「コンクリートから人へ」というスローガンをかなぐり捨てて、「3・11大震災」復興という名目で、「防災」にかこつけた大型公共事業があちこちで始まっていくようです。
河川敷。緑の帯が取水口からの導入路。対岸は、市川市大洲。
土手から見下ろす。中央の緑地帯が「本郷親水緑道」。
幼稚園が近くにあって、賑やかな子供たちの声が。
土手の直下。
泳ぐ鯉の姿。勢いよく跳ねるのも。
「篠崎街道」と交わるところにある「案内板」。
「篠崎街道」。昔のままの道筋で曲がりくねっている。拡幅工事が始まっている。
広い舗道。
かつて用水だった頃のイメージを蘇らせるのか、勢いよく水が流れ出る工夫・装置がここかしこに。
水辺の草花。空を映す流れ。明るい感じがします。
篠崎公園を横切り、「柴又街道」と交差。
「鹿骨親水緑道」との合流付近。
田園地帯だった頃を彷彿とさせる大きな屋敷。
「篠崎公園」南側の空地。立て看板。
「スーパー堤防の事業計画」。今の堤防をただかさ上げするだけでなく、なだらかな土手を200㍍ほど造成して(堤防の高さの約30倍)その上に街並みをつくり、道路を造るという膨大な事業。
空地は、「はなの広場」となづけられ、コスモスがたくさん咲いている。この広場も事業が始まるまで。そのあとは大がかりな工事計画に含まれて、消滅?
「広場」に隣接する寺院にある「スーパー堤防反対」ののぼり。多くの家々に掲げられています。行く末ははたして。
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「東井堀親水緑道」。(「東用水(東井堀)」跡をたどる。その2)

2012-10-16 22:55:20 | 河川痕跡
「江戸川区」のHPより(2011年9月1日更新)。
 
東井堀親水緑道 (江戸川区登録史跡 東井堀跡)
 東井堀は、古くは農業用水や物資の輸送路として利用され、江戸川区民の生活を支えてきました。
 小合溜井(現在の都立水元公園内)を水源とする、上下之割用水(別名は大用水)は、新宿(葛飾区)で左に小岩用水を振り分け、少し南下した所で東用水(東井堀)を分水していました。東井堀は、松本・鹿骨を貫き谷河内・南篠崎などを流下して、前野から旧江戸川に注いでいました。
 井堀とは用水路のことで、当時の江戸川区の村々では笹ヶ崎・上篠崎・下篠崎・上鎌田・下鎌田・一之江新田・谷河内・新堀・鹿骨・松本・興之宮・上一色の12ヵ村が利用していたと言われています。
 近年は用水路としての役目を終えた東井堀は、ほとんどが道路になり、そのうちの京葉道路から瑞江駅前通り(都市計画道路補助第288号線)までの区間(谷河内2丁目から南篠崎4丁目)が、平成8年に親水緑道として整備されました。(第1期区間)
 そして今回親水緑道として整備されたのが、南篠崎町五丁目・江戸川一丁目の最下流部です。(第2期区間)

 
 以上のように、葛飾区との区界付近から京葉道路まで「鹿本通り」として道路化していた「東井堀(東用水)」は、京葉道路を越えると、「東井堀親水緑道」として蘇ります。京葉道路から旧江戸川まで。今回はその探索。
京葉道路を渡った首都高橋脚の下。緑地になっています。石と茶色の砂地。コンセプトが今一つ不明。子供の帽子がぽつんと落ちていた。
「東井堀」の流路跡であることは確か。
ここから「東井堀親水緑道」が始まる。
車道をはさんで水路と反対側の歩道には、「カリン」の並木。大きな実がなっていた。「カリン酒」ってあったような。
途中で「南篠崎つつじ公園」に。
「柴又街道」を斜めに行ったところから再び「緑道」に。
よく整備された緑道が続く。
かつての水田や畑があった農村地帯を思わせる通り。
「天祖神社」付近から北西を望む。
「篠崎街道」と交差。振り返って来た道を望む。
このあたりから水路も広くなり、用水路をたどる感じに。
用水路を覆うような樹木、大きな魚影も。
このような塑像も二つほど。
旧江戸川近くは工事中のため、ここまで。
旧江戸川との合流地点付近。対岸は、千葉の行徳方面。
大きな施設の「篠崎ポンプ所」。
旧江戸川付近で「東井堀」に合流している「篠田堀親水緑道」。
「篠田堀」。江戸川との間の大きな敷地にあるのが「王子板紙江戸川工場」。
途中からの桜並木がすばらしい。「篠崎堤の桜」の碑。「篠田堀」はかなり以前からの用水路。
桜の季節にはさぞかし見事だろう。
明治13年頃のようす。北西から流れてきて、途中で南に折れている水路が「篠田堀」。対岸は、行徳。
「行徳」の南東、東京湾沿いには塩田が多くあった(現在の「千鳥町」付近)。
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「鹿骨親水緑道」。谷河内1丁目。千葉街道~京葉道路。(「小岩用水」跡をたどる。その3)

2012-10-09 19:32:43 | 河川痕跡
 千葉街道を越えて南下する「小岩用水」跡。東側にある「柴又街道」とほぼ並行して進みます。このあたりは、かつては田園地帯。田畑に供給する「水路」も縦横に走っていました。「小岩用水」も分岐したり、江戸川からの新たな水路ができたりとはっきりと本流の流路が特定できません。
 すでに明治13年作成の地図でも開発による農業環境をとりまく変化があるように見えますが、特に、戦後の農地解放や統合・区画整理などでかなり流路が変わっています。その傾向は、昭和22年と昭和38年の航空写真との比較でも顕著です(あぜ道などが込み入った田畑の整然とした区画整理状況は、昭和38年の航空写真ではっきりとします)。
 その後、さらに都市人口の流入・増加によってそれまでの農地が宅地化され、それに伴う道路や区画の整備によって流路の変更・廃止(道路化など)がありました。京葉道路以南は昭和38年の航空写真でもほとんどが区画整理された田畑となり、今は、いっそうびっしりと住宅地になっています(道路はその当時の道をそのまま道路化したようで、碁盤の目のように整然となっています)。現在もなお、区画整理の進行している地域が「柴又街道」沿道周辺などに見られます。
 近年、農業用水としての役割を終えて、次第にどぶ川化していった旧水路を、下水道の完備とともに江戸川区では整備し、「親水緑道」として、流れの復活再生事業を積極的に行ってきました。JR小岩駅周辺やその以南にはそうした緑道が多くあります。
 さて、南下した「小岩用水」跡の行方はどうなっていったでしょうか。
 西側を流れていた「東用水」の跡は「鹿本通り」として京葉道路まで続き(その先も)ます。「小岩用水」は、現在の京葉道路手前でそれに合流していた、さらに越えて南西に延びていた、また、少し上流の方で南東の方向へ何本にも分岐し、最終的には旧「江戸川」に注いでいた、などと幾通りか考えられます。
明治13年作成の地図。「旧江戸川」下流付近に注いでいる水路。中央斜めの道は「篠崎街道(市川橋西詰付近で「岩槻街道」に)」。北西からの流れは、「東用水」? 北東からの流れが「小岩用水」(からの分岐水路)? 現在の南篠崎5丁目、江戸川1丁目付近。
千葉街道を越えて街路樹のあるほぼ直線の道になる。
平日の午後のせいか車の往き来は少ない。
来た道を振り返る。
「鹿骨(ししぼね)親水緑道」の案内。ここから親水緑道に。
「興農親水緑道」。旧江戸川から引いた水路跡。
「鹿本親水緑道」。「小岩用水」と「東用水」とを結んでいた水路跡。
「本郷親水緑道」。「篠崎公園」内。戦後に造成。江戸川と鹿骨用水(小岩用水)とを結ぶ。
「鹿見塚」の「説明板」。

 この鹿見塚のある神社は昔から鹿骨発祥の地といわれている。伝説によるとこの地は昔戦国時代の頃、 興亡のはげしい世の中を離れ、 安住の地を求めて石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓し住みついた所といわれる。ある日のこと日頃尊崇している鹿島大神が、常陸の国から大和の奈良に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病で倒れたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられている。
 昭和四十二年八月氏子中によって碑が建てられた。台座はコンクリート三段組で高さ九八・碑石は高さ八一・幅五二・厚さが一三(単位センチメートル)あり表面に「鹿骨発祥の地 鹿見塚」と刻まれている。鹿見塚神社は昭和四十八年に再建築されたものである。
                                     昭和五十二年十一月         江戸川区教育委員会

 このことについて、「発祥の地コレクション/鹿骨発祥の地」(hamadayori.com/hass-col/timei/Sisibone.htm)には次のようにある。
 
 鹿骨東小学校の南に「鹿見塚神社」があり, その境内に「鹿骨発祥の地・鹿見塚」という石碑が建っている。また 神社の鳥居横には 江戸川区教育委員会の建てた 説明板がある。「鹿骨」は この辺りの地名で「ししぼね」と読む。説明板に書かれた文章は 誤解を招きかねない書き方になっている。
 奈良時代(8世紀)、 藤原氏によって奈良の春日大社が創建されるに際して、常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れておよそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられており、 その途中、鹿が死んだためこの地に葬った。これが「鹿骨」の地名の由来。
 戦国時代(16世紀)になって, 石井長勝や牧野一族などが この地の開拓に入って住みつき, 発展の基礎を築いたとされる。
 この二つのことを一緒に書いたために 話が混乱している、と。
 
「鹿骨親水緑道」の一画にある「親子の鹿」像。
車道と区分された緑道。並木の木陰が心地よい。
「流堀親水はなのみち」。水流に泳ぐ鯉。「小岩用水(鹿骨用水)」から分かれて「東用水(現・鹿本通り)」に結ぶ水路跡。
「はなのみち」にふさわしく草花が水路に沿って。「曼珠沙華」の赤い花も。
左の通りが「鹿本通り」。右からの道は水路跡。なお、「鹿骨親水緑道」はもう少し北側の「鹿本通り」を越えて南下していったようにも見えるが、昭和22年の航空写真では、「鹿本通り」(東用水)と交わっている、現在の「鹿骨親水緑道」になぞらえる水路は存在していなかった。
 戦後の農地改革、それ以降の農地整理、区画整理などによって「小岩用水」など、近辺地域のでの流路変更、新たな用水路の設置など盛んに進められた可能性がある。昭和22年時点では、この水路跡の方が本来の「鹿骨用水」(「小岩用水」の分水?)のようだが。
「谷河内(やごうち)1丁目」。京葉道路と鹿本通り、「鹿骨親水緑道」に囲まれた三角形の土地。昔から集落のあったところのようで、家々の路地もかつての農道のよう。また、ハウス栽培や畑がある。周りの宅地開発の中にあって、まだかつての懐かしい田園風景が残っている(かつてこの周辺は区画整理された田畑が広がっていた。今回行く前は、周囲の田んぼに比べて小高い丘陵のようなイメージがあった。実際は、「谷」「河」の「内」という名称のごとく、江戸時代中期頃、谷あいの湿地帯を開墾した土地。「椿」や「新堀(荒堀)」も同じ頃開墾された、と「江戸川区」関連の資料にあった。)
明治13年作成の地図。まとまった集落であることが分かる。中央上から右下への水路が「東用水」。「京葉道路」によって南北に分かれてしまった。南西には「椿村」。
ハウス栽培。この一画の道は昭和22年、38年の航空写真でもほとんど変化がなく、現在もそのまま。曲がりくねった農道・広いあぜ道の面影がある。
畑地。新しい住宅も多いが、道は昔のまま。
住宅地を抜ける道。

 
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「鎌倉かなえ通り」。中央通り。千葉街道。(「小岩用水」跡をたどる。その2)

2012-10-08 17:26:44 | 河川痕跡
 京成線の線路脇から「小岩用水」跡が続きます。「鎌倉かなえ通り」としてJR小岩駅方向に。ほとんどが道路。途中、「小岩用水」跡の標識があるくらい。
モニュメントから南を望む。
「小岩用水」の変遷・沿革が記された説明板。ただし、葛飾区が設置したもののため、区内の部分のみ紹介し、北部の小合溜井(水元公園)からの流れの図が掲示されている。
モニュメント。「水曼荼羅」。
「鎌倉かなえ通り」。広い道路ですが、交通量はそれほど多くはなかった。京成線の北側もそうですが、幹線道路に直接つながっていない(東側には「柴又街道」あり)ためか。
葛飾区内最古の道・東海道(古道)との交差点。現在、東武・鐘ヶ淵駅付近から四ツ木・立石を経由し、京成小岩駅付近まで確認できるほぼ直線の道。正面奥が小岩方向。
明治13年の地図。この付近は後の時代になって耕地などの関係か、道が南側に迂回していることが分かる。昭和40年代まではそのままだったが、近年、本来のまっすぐな道筋に改修された。
振り返って鎌倉方向を望む。
「愛国学園」の手前。「小岩用水」跡の標識。すぐ近くには「祠」がある。
蔵前橋通りとの交差点付近から、北側を望む。
蔵前橋通りからJR小岩駅方向。にぎやかな商店街・「中央通り」となる。
総武線ガードをくぐったあたり。
 JR「小岩駅」周辺は、戦後、急速に住宅が増え、大きな人口をかかえる町になった。駅前広場から千葉街道まで、長いアーケードのある商店街も出現し、今でも賑やかな商店街として存在している。一方、このあたり。昭和22年の航空写真では「小岩用水」の水路が隠れ、その上に商店が建ち並んでいるように写っている。その後、昭和38年の航空写真では、その部分が道路となって現在に至っている。
千葉街道との交差点付近から駅方向を望む。
千葉街道との交差点。正面左に進む道が「千葉街道」。この先で、「蔵前橋通り」と合流する。昔のままに一直線の道路。
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「東用水せせらぎ通り」。鹿本(しかもと)通り。「西小岩親水緑道」・・・。(「東用水」跡をたどる。)

2012-10-06 23:21:10 | 河川痕跡
 高砂付近で「西用水」を分岐した「東用水」はそのまま南下します。途中、細田あたりでは「せせらぎ通り」となり、JR「小岩」駅方向へほぼ直線で進みます。「東用水(東井堀)」は、葛飾区から江戸川区に入ると、「鹿本通り」となって、JR「小岩」駅と「新中川」の間にある高架線をくぐります。
 小岩地区には、かつての用水路が親水緑道として整備され、小さな流れの続く小道が住宅地の間を抜けています。JR「小岩」駅界隈は戦後まもなく住宅地として開け、駅に通じる商店街も発展してきました。小岩駅東側のガード下の通りは、新宿の「大堰枠」で「東用水」と分岐した「小岩用水」路の跡。
高砂橋通りから南に向かいます。
車道と区別された道。緑がほとんどなく、流れで水遊びをするスタイル。ただし、水が目や口に入ったらよくすすぐようにとの注意書きが、多々、掲示されています。
かつて架かっていた「橋名」がプレートに記されています。「穂高橋」。
中にはこんな橋も。「無名橋」。
「東用水せせらぎ通り」。
途中で葛飾最古の道「古代の東海道」と交差します。環七・奥戸方向を望む。
京成小岩駅方向を望む。ほぼ一直線の道。
農業用水として機能を果たしていた。今でも水路沿いの一部には農地が広がっています。ちょうど刈入れどき。
もともとはほぼ直線で幅の広い水路でしたが、道路の中央にゆるやかな流れを模してつくられています。「せせらぎ」をはさんだ東西の道は車の一方通行になっていて、せせらぎ通りを安心して歩くことができます。
ここまでが「東用水せせらぎ通り」。高砂方向を振り返る。
「鹿本通り」という案内板。
通りのところどころに植え込みや並木が目立ちます。「奥戸街道」(立石大通り―東海道古道の一部―・奥戸橋経由)との交差点名は、「東井堀」となっています。
「西小岩親水緑道」。奥戸街道から蔵前橋通りを越えて新中川までの区間。
説明板。江戸川区の積極的な取り組みがうかがわれます。かつて生活用水で汚れきっていた「どぶ」の清流への変身です。
JR総武線の高架線をくぐって「鹿本通り」(「東用水」跡)は、南下していきます。
「下小岩親水緑道」。小岩駅方向に進んでいきます。
案内。江戸川区の「親水公園」は、木々も多く、流れには魚もいる、さらによく整備されてい、て落ち着いた静かな緑道歩きが楽しめます。
西のはずれ。流れ口。「小岩ポンプ場」南側。
住宅地の中を流れていきます。家の中から親子の会話もきこえてくる、そんな小道です。
 「東用水」跡は「鹿本通り」として「二枚橋」、「西之橋」を経由していきます。「鹿本通り」とは江戸川区と葛飾区との区界から京葉道路までの通り(「東水路」跡)の名称。「鹿本」という名の小・中学校は新中川をはさんだ西側にあり、新中川に架かる橋の名が「鹿本橋」(鹿骨街道)。 鹿骨付近で現在の「一之江境川親水公園」に通じていた水路を分岐するなど、かつては江戸川南部の農村地帯の水をうるおす大事な水路でした。まだまだ探索は続きます。
京葉道路側からの「鹿本通り」。
やや中央の北西から南東に流れる水路が「東用水」斜めに横切る道は「元佐倉道(旧千葉街道)」。右上、斜めに流れる水路が「小岩用水」。

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一之江境川親水公園~都営新宿線「一之江駅」(「中(仲)井堀」跡をたどる。その3)

2012-10-05 19:07:10 | 河川痕跡
 「仲井堀」は現在はほとんどが道路として残っていますが、一之江付近では親水緑道として存在しています。
高速道路方向を望む。
左の土手は、新中川。水路はここで右にカーブします。新中川開削の影響はあまりなく、昔のままのカーブのようです。右からの道路、本来はそのまま左(北東)方向に続いていた道ですが、新中川開削によって寸断されました。
新中川の土手から南を望む。新中川に沿った道路が「仲井堀通り」。
来た道を振り返る。
しばらく行くと、親水緑道になります。ただし「仲井堀」と「中」が「仲」に変わっています。「中井堀」あるいは「仲井堀」「中居堀」などという言い方はあちこちにあるようです。
「中居堀」は、墨田区・向島に。曳舟川(葛西用水)から分岐した流れです。
道路の脇に流れがあります。その流れ沿いには桜並木。 
すぐ西側は幹線道路の「環七」ですが、ここは車の通りも少なく、生活道路といった感じ。奥戸の「中井堀」跡の道路と雰囲気が似ています(歩道と車道が区分されて緑が濃い分、こちらの方がより「用水路」跡といえますが)。
一之江側の親水緑道入り口の表示。
「環七」交差点近く。右が環七の陸橋。
交差点の南側。「中(仲)井堀」は交差点を過ぎて少し西に折れ、さらに葛西工業付近を通って南西に下っていきます。その跡の探索は、また後に。
「環七・一之江陸橋」。
明治13年作成の地図。急角度で折れているのが「中用水(中井堀)」。中央の流れは現在の「一之江境川親水公園」。「中用水」も「西用水」と同様、土手道として一之江地域の先まで続いていたようです。現在でも、奥戸から一之江まで、けっこうな道のりです。
 新中川・環七・JR総武線・・・、かつてのほぼ直線だった水路(跡)は変わらなくても、いざたどるとなると、けっこうな回り道をせざるを得なくなりますが。
 高砂で「西用水」を分岐した「東用水」。「大堰枠」で「東用水」と分岐して南下する「小岩用水」(正式名称は?)。それぞれ、その流れの跡はどうなっているのでしょうか? そして、江戸川区内の「一之江境川」、「小松川境川」・・・、まだまだ探索する道筋はたくさんありそうです。意外な発見も・・・。
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江戸川区・菅原橋~一之江境川。(「中(仲)井堀」跡をたどる。その2)

2012-10-04 19:16:01 | 河川痕跡
 「菅原橋交差点」は千葉街道の他、「同潤会通り」、「仲井堀通り」、「鹿骨街道」とが交差する地点。「中(仲)井堀」は、そのまま南東に下り、新中川をかすめながら環七「一之江交差点」にまで続きます。途中から親水緑道になります。
「仲井堀」は「菅原橋」交差点から南に下ります。菅原橋方向を望む。
明治13年作成の地図。「歴史的農業閲覧システム」参照。上方が「菅原橋」交差点。斜めに通る道が「元佐倉道(旧千葉街道)」。左(西)に見える水路が現在の「小松川境川親水公園」。この水路は曲がりくねっていますが幅も広く、土手道になっていたようで、奥戸方向からの道(「西用水」から途中で分かれています)と合流して南下し、小松川方向に向かっていました。中川(古利根川)以東の地域の南北を結んでいた通りだったようで、こちらの方が「小松川街道」である可能性も・・・。
この辺は、かつての田園地帯。水路が分岐して広がっていきます。右側に進む細い道もかつての水路跡。大杉1丁目付近。
古地図ですとほぼ直線ですが、現在はわずかながら左右にカーブして、一直線で望むことはできません。所々、道の傍らに「仲井堀通り」という標識あり。
通り沿いには旧家が多くあり、古めかしい家・屋敷がちらほら。これは、昔の長屋門をかたどったしゃれた建物。
大きな庭を持つ農家が目立ちます。
京葉道路にぶつかって、用水(跡)はそのまま向かい側・斜めに進みます。
京葉道路と環七とに囲まれた一画。まだ現役の畑地が残っています。
水路脇あるいは元の水路が土地化され、そこに何軒もの家が細長く並んで建っています。
「環七」から来た道を望む。道の右側に整然と家が並んでいます。
高速道路橋脚下近く。「一之江境川親水公園」の北東の外れ。かつては「仲井堀」と交差していました。よく用いられた「サイフォン」の原理に基づく「乗越(のっこし)」か逆サイフォンの原理での「伏越(ふせこし・ふせごし)」の仕組みだった。古地図を見る限りでは、「一之江境川」の方が「乗越」でクロスしていたようですが・・・。この「境川」とは東・西一之江村の境の川というところから来ているようです。
現在は豊富な水量が勢いよく吹き出しいます。この用水は新中川開削のため、北東側と切り離されてしまいましたが、まだ新中川の対岸に水路跡が残っています。水路は葛飾区・奥戸方向(おそらく「東用水」)から伸びてきていたわけです。


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葛飾区・奥戸~江戸川区・菅原橋(「中井堀」跡をたどる。その1)

2012-10-03 22:54:22 | 河川痕跡
 高砂駅北西付近で「東用水」と分岐した「西用水」は南下してしばらくすると、また二手に分かれます。東の用水を「中井堀」と称したようです。新中川によってその分岐点は今は不明となっていますが、新中川を越えて、「西用水(西井堀)」の東側をほぼ並行して南下していきます。「新小岩駅操車場」の東のはずれ、「新金貨物線」がカーブして本線に合流するあたりで鉄橋の下を流れていました。しばらく進み、「菅原橋」(元佐倉道・旧千葉街道)から南に向かっていきます。どんな痕跡が残っているか?
明治13年当時の地図。右下のところで、「西」と「中」とに分かれている。中川の旧水路(広大な河川敷)で囲まれたところは、現在は「環七」が通り、周囲は葛飾区の野球場、温水プールなどのあるスポーツ施設や消防庁の災害訓練場などになっています。下方に見えるカーブした道は、葛飾区内最古の「古代の道」の一部。このあたりは、中川(古利根川)の氾濫流域のため、道は複雑に曲がっていますが、マクロ的に地図を見ると、もともと、西から東へほぼ一直線の道になっています。
環七と新中川にはさまれ、この道沿いにある「区立奥戸小学校」脇に設置されている説明板。
「古代東海道」(武蔵の国府―府中市―・平城京―奈良市―~下総の国府―国府台―、常陸の国府)の跡。大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。
新中川。このあたりで「西」と「中」に分岐していたようです。
新中川方向を望む。
車の往来の激しい「環七」の一本東側の道。広い道ですが、住宅や営業所、お寺などのある静かな道になっています。
環七との合流近く。水路だった面影はありません。
「環七」に突き当たり、その角地にある思いがけず広くて整った広場。
そこから振り返って来た道を望む。
「環七」と蔵前橋通りとの交差点「総武陸橋下」。元々の水路は斜め左から右上に続いていました。
斜めに渡ったところ。水路跡はそのままJR総武線の方向へ。「案内板」にはこのまままっすぐ行くと「都立小岩高校」へ700㍍で着くかのような表示。
ところがここで行き止まり。さて線路の向こうに行くのは・・・。
 向こう側(南側)に渡る通路はまったくこの付近にはありませんでした。「総武陸橋」は幅の広いJR線を越えるため、長く、急で、高い陸橋。自転車用のレーンもなさそう。たくさんの車が通過するので、その脇を上って行くのはかなり怖いものが・・・。歩道橋はありますが、階段のみ。それも急で、見上げるほどの高さ。
 自転車を通す幅状のものもなく、自転車で行くには上りも下りも担いで上がるしかない! 参った、参った! 後は西に進み、「小松橋」を渡るか、新小岩駅近くでガードをくぐるか、さもなければ・・・。しばしあたりをうろついたあげく、しかたなく自転車をかついで上りました。折り畳み自転車(軽量でも10㎏あり)をたたんでやっこらさ。見ると、普通のママチャリを担いで上っている強者が・・・。
 何とかならないものでしょうか? 環七にはこういう自転車では通りにくい交差点・陸橋があります(足立区内にもあり)。
菅原橋。横切るのは「元佐倉道・旧千葉街道」。水路はまだまだ南東に進み、「一之江」方向へ。
菅原橋近くの「小松川境川親水公園」入り口付近。水しぶきを上げて勢いよく流れ落ちていました。「小松川境川」は、東西・小松川村の境に流れる川だったようです。ちなみに「一之江境川」は、東西・一之江村の境となった流れ。
せせらぎ公園風。よく整備された親水公園になっています。ここからほぼ南方向に。平和橋通り、旧千葉街道、京葉道路、首都高・小松川線などを通り抜けて延々、中川・荒川まで、親しみやすくすてきな緑道になっています。
案内図。
 「小松川境川」用水は、明治以前から幅も広く土手道もあったようで、中川以東の南北道(奥戸からの道を合わせ、新宿・奥戸地域と小松川地域を結ぶ)として農作物などの物流や人の往き来も多かったことを広い道幅で感じさせます。「小松川街道」は、こちらの道を指していたのか?
菅原橋付近。斜め一直線の水路が「中井堀」。左の曲がった水路が現在の「小松川境川親水公園」の北側一部。中央の広い道は「元佐倉道(旧千葉街道)」。
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西小松川~旧中川。(「西用水(西井堀)」・「小松川街道」?跡をたどる。その3)

2012-09-29 16:59:40 | 河川痕跡
 平井大橋を渡って、「平井」(西小松川)方向に向かいます。ここから再び水路跡が「庚申塚通り」として残されていました。
荒川から南西を望む。右手は東電の変電施設。社員住宅もあってかなり大きな施設。この道の先で「行徳道」と交差していたようです。
変電所内のモニュメント。鉄製の歯車が組み合わさった変電設備のもの。構内なので確認できず。
荒川方向を望む。このあたりはほぼ直線。
明治13年の地図。北東から南西に向かう道が「西用水・小松川街道」と思われます。途中まで直線、集落のはずれで右に左に曲がっていき、中川に合流しています。旧中川合流付近はカギ型の水路になっていました。下方(南)の道は旧千葉街道。現在の京葉道路・中川新橋は水路の合流付近。小松川街道は平井(小松川)地区に入ってから「行徳道」(地図上で右斜めに横切っている直線道)と交差していました。
JR平井駅の南方。曲がっているようすがかつての水路の跡であることをとどめています。このあたりは昭和20年3月10日、東京大空襲で壊滅的な被害を受けた地域。昭和22年になっても、まだほとんど空地のままになっています。
旧中川までの道、実にくねくねと曲がっているのには驚きます。昭和38年の航空写真では、用水路の両脇が道になっています。かつては土手のような道?
「庚申塚」脇の道。カギ型水路の一部だったか?
旧中川の土手から東側を望む。コンクリート壁はかつての土手の痕跡?
 「逆井の渡し」(ここからはちょっと下ったところ)、「平井の渡し」(ここから少し上流)で中川を越えれば、江戸市中(両国へは「逆井の渡し」経由で元佐倉道・旧千葉街道を通って。浅草へは「平井の渡し」経由で行徳道・浅草道を通って。)に向かうことができます。新金線にあった「東京街道踏切」という名称もあながち外れてはいないようですが・・・。




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新小岩付近。(「西用水(西井堀)」・「小松川街道」?の跡をたどる。その2)

2012-09-28 20:53:25 | 河川痕跡
 巽橋を越えると、駐輪場となって水路跡が続きます。総武線の線路沿いに西に向かった水路跡は、途中、高架線をくぐり、荒川・中川にぶつかります。
 荒川を越えると、再びかつての水路・街道跡が続きます。この通りは、「庚申塚通り」。旧中川にぶつかる手前のところ、正面に「庚申塚」があります。
公営の駐輪場が広がっていて、水路跡ははっきりしません。正面の高架線がJR総武線。新小岩駅の北西に当たります。
この先は、鉄道線路(高架)に沿った直線になっていて、もともとの水路ではないと思います。
高架線の下、斜め(南西方向)に通じる空間。これが水路跡だと思います。
水路だったことを彷彿とさせる高架線の構造。
鉄道敷地を示す柵がそのまま残っている?
高架線を越えたところ。大きく頑丈なコンクリート壁が左右に残っています。斜めに高架線をくぐっています。鉄道線路は上にはないので、かつての鉄橋の名残か、と。
その向かう先は、中川の土手。右手にもコンクリート壁。
中川堤防下の道路から線路方向を望む。
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高砂~新小岩・巽(たつみ)橋。(「西用水(西井堀)」・「小松川街道」?跡をたどる。その1)

2012-09-27 23:47:13 | 河川痕跡
 小合溜から「大堰枠」で分岐した水路(「東用水」)は南下して、京成電車の高架線手前で二つ(東用水・西用水)に分岐します。「小松川街道」は西用水に沿って南西に向かった、と思われます。新中川で寸断された水路(街道)は「環七」を越えてJR新小岩駅方向に向かいます。蔵前橋通りの近くになると、「緑道公園」となって巽橋交差点を斜めに突っ切っていきます。自転車駐輪場から総武線沿いに進み、高架下を越えて荒川方向へ。越えた後は江戸川区・小松川地区に入り、「庚申塚通り」として旧中川まで続いていきます。今回は、高砂から新小岩までの探索です。
出発点。新金貨物線の踏切。新宿で水戸街道と分岐した成田・佐倉に向かう「佐倉道」から、さらに途中で派生した通りが「小松川街道」?
中央カギ型のところで、佐倉道から分かれてしばらく南下し、「東用水」に沿って続く道が「小松川街道」。その角地にある「角柱三猿浮彫道標」の正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」とあります。「下の割」は現在の江戸川地域。
「高砂小橋交差点」。正面のガードが水路跡。交差する道路は、高砂橋を通って青戸方向から高砂・柴又(帝釈天)へ抜ける道。かなり昔からある道。
高砂橋(高砂小橋交差点)の先。南を望む。広くて車の行き交う道路。
新金線の線路を越える。踏切名は、「東京街道踏切」(現在の小松川地区は「東京」都内ということ?)。新金線には「三重田街道踏切」など、今ではぴんと来ないような踏切名があります。踏切の向こう側に、水路跡。
用水を越えるための鉄橋が残っています。水路跡には緑がそのまま。
新中川で寸断。対岸の「西沼公園」脇を水路が通っていました。
「西沼公園」。
公園前の農地。収穫のさなか。
西沼公園付近から新中川方向を望む。
奥戸街道の手前付近。カーブがかつての水路跡を思わせます。
奥戸街道を越えて進みます。このあたりは大きなお店や温泉、ボーリング場などが並んでいて賑やかな通り。
ここから蔵前橋通り・「巽橋交差点」まで
緑道(親水)公園となります。「西井堀せせらぎパーク」。
残念ですが、水は流れていませんでした。途中のモニュメント。流れがあればけっこう見応えがありそう。
巽橋交差点付近。来た道を望む。
交差点脇の巽橋の柱。
 
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大堰枠。新宿(にいじゅく)。

2012-09-26 23:14:06 | 河川痕跡
 水戸街道の中川大橋を越えて、亀有警察署の先の信号を右折すると、水元公園に通じる広い道路になる。しばらく進むと大きく右にカーブする交差点となる(JR常磐線の高架の手前)。ここが「大堰枠」と呼ばれる地点。以前は信号機に「大堰枠」という表示があったと思った。今回久々に出かけて、それがないことに気がついた。
 この交差点、左に大きく曲がって西南に向かう道。細い道が東西に。開けている割には少し見通しの悪いカーブになっている。ここは「小合溜」→「上下之割用水」(下の割ー現在の江戸川区ーまでつながっていた)→「大堰枠」。ここで、南に向かう「小岩用水」?と南西に向かう「東用水」とに分岐していた。それだけではなく、ここには他にも目についただけでも二本の用水路が残っている。(「東用水」は高砂の手前で「東用水」と「西用水」とに分岐していた。)つまり、「大堰枠」は、多くの水路の分岐点。
交差点近くにあった広告用の看板の中に「大堰枠」との表示が残っていた。
例によって古地図(明治13年当時)出典は、「歴史的農業環境閲覧システム」。
 カギ型に曲がっている道が「水戸街道」。その中心が「新宿」の宿。中央の二股が「大堰枠」。上(北)が小合溜(水元公園)方向。地図の左(西)の流れが中川。左下が亀有からの「渡し」。水戸街道から右下に分かれている道が柴又街道(帝釈道)。
 これを見ると、当時は「大堰枠」は、小合溜からの流れが分岐する地点で、現在見られるようなたくさんの用水路(跡)は明治以降の用水路だということが分かる。「大堰枠」という地点名も後になって付けられたもののようだが。
 今回は、この近辺を探ってみた。用水路がすべて道路などに変貌し(広い道路、歩行者・自転車道、行き止まり・・・)、かつての面影は全くなくなってしまった。JRのガードを越えた、東京理科大校舎建設現場の前の広い道路もかつては用水路。旧水戸街道も国道6号線(現水戸街道)のために寸断されている。それでも、どこかに痕跡が残っていないか・・・。
右奥の道が「東用水」。手前の道が小さな用水路跡、右手の道も用水路跡(ただし、もともとの用水路跡は右の建物の裏手になる)。
正面の広い道が「上下之割用水」跡。南を望む。中央奥が現・水戸街道。
そばの団地の案内図にはまだ水路が掲載されています。「東用水」水路。
すっかり広い道路に変貌。「大堰枠」方向を望む。
少し前には工事中で、新金貨物線の鉄橋が残っていましたが、現在は立派な踏切に。
3年前の同じ地点。鉄橋が工事中の土砂の中に埋もれています。
柴又街道(帝釈道)と新金線の踏切近く。橋桁が残り、水路跡があります。
新金線の線路で行き止まりの歩行者道(用水路跡)。この先が「大堰枠」に通じる用水路跡の道に。
この道も用水路跡。左は公園。
東からの小さな用水路跡。正面が「大堰枠」。
水戸街道から少し北西に入ったところ。水戸街道と佐倉街道の分岐点近くの「金阿弥橋」が架かっていた用水路跡(用水路自体、それほど古くはない)。江戸時代には水戸街道はその分岐点から東に向かい、東用水を越えて北に進み、しばらく進んでから東北に向きを変えます。(北上する道は、現在、東用水路跡と重なって広い通りになっています。)
1990年版の地図。地図上でが「金阿弥橋」。赤い線が旧水戸街道。上方で右下に折れている赤線が「柴又道(帝釈道)」。用水路はそのまま記載されています。
現・水戸街道を越えた「東用水」は、「佐倉道」の東側の広い道路として高砂方面(南)に向かいますが、この用水路は「佐倉道」と「中川」との間を南に流れていきます。水戸街道から見た用水路跡。新しく歩行者道路になっています。
南の部分がまだ完成していないため、ほとんど歩行者もいないようす。
住宅の裏手に流れていたため、けっこうな段差が残っています。このあたりは「佐倉道」とにはさまれた細長い土地になっています。
行き止まり。排水機場跡。自転車置き場(駐輪違反の自転車?)。正面奥は中川の土手。
現在のポンプ場。
 東用水跡の広い道路は高砂に入って二つに分かれ(かつての用水路と同様)、佐倉道とも交差します。
1990年版の地図。 が水戸街道南側の用水路跡の歩道。下方二叉の部分()が西用水との分岐点。
分岐跡。どちらも京成電車のガードを抜けて南に進む。左(東用水)は親水緑道となって小岩方向に向かいます。
「東用水」・京成電車線路脇にあった「火の見櫓」。神社の境内地にありました。
新金貨物線「小松川街道踏切」を通過し、新小岩駅(進行方向・左)に向かう「貨物列車」。偶然出くわしました(9/21)。
 「小松川街道」という名称。「西用水」はそのまま南西に向かい(途中で「中用水」と分岐)、現在の小松川地区にまで続き、中川(京葉道路・中川新橋・東詰付近)に合流していました。その土手道を指していると思われます。新宿から小松川まで、一直線の道のようでした(新宿~高砂~新小岩~小松川~中川)。新中川・荒川の開削、さらに「環七」の開通などで寸断されてしまいましたが、ほぼ道路として残された水路跡を追うことができます。

   
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堀切菖蒲園駅~区立青葉中付近(用水路跡をたどる。その2)

2012-09-23 11:47:21 | 河川痕跡
 駅のガードをくぐると、商店街に並行して北上します。この水路は古隅田川に沿うように東南側を流れていました。
賑やかな駅前の商店街。中央通りに面して水路跡にお店が立ち並んでいます。橋の欄干がそのまま残っていました。水路は下水道化されて流れていないはずですが。流れは左から右へ。
店の裏手。奥の水路跡はお店の裏側に細く続いています。完全にふさがれてお店の敷地になっている箇所もあります。
右が水路跡の歩道。少し建物がはみ出しています。南側を望む。
左は、JR綾瀬駅方向に向かう広い通り。用水路跡らしき上には、建物が並んでいます。狭く細長い土地です。右側(裏)にも歩道。
いったん広くなった歩道も少し狭まって建物が建っています。駅前からこのあたりまで、様々な事情がありそうな・・・。
小菅近くなると、ようやく本来の水路跡らしい歩道に。
水路跡も広くなり、歩道が続きます。駅から来た方角を望む。
建物の裏手を進む。緑道になっています。
分岐地点。左に進むのが区立青葉中学の脇を通ってて京成電車「お花茶屋」駅近くに続く水路跡。西側を望む。
 葛飾区内には農業用の水路が縦横に走っていました。その後、宅地化されて生活汚水などが流れ込み、淀んだ流れに。下水道工事の進展でだんだんとそうした水路が緑道や道路に変わってきました。なかには宅地化された箇所も・・・。
 用水路跡の探索で新たな発見もありそうです。
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