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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

藍染川幹線。白汚零。(「もう一つの藍染川」。その3)

2013-10-05 23:11:18 | 河川痕跡
 藍染川は日暮里の高台、文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました。昭和35(1960)年に保健衛生上の問題などにより全面トンネル化され、現在は道路になっていますが、トンネルを流れる藍染川幹線は三河島水再生センターで下水処理をされ隅田川へ放流されています。
「藍染川」の終点。京成線・隅田川橋梁脇。
さんより。)
 
 「西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました」とありますが、「東京都下水道局」のHPには、「大正2年、東京市下水道設計による最初の工事に着工(台東区龍泉二丁目付近)」とありましたから、このトンネルもかなり初期の頃に造られ、約100年の歴史を重ねていたことが分かります。
 
 今年の下水道局のカレンダーに載っている、とのことでしたが、ひょんなことからそのカレンダーを入手しました。
(「2013年下水道カレンダー」より)

 煉瓦のブロックで固められ、重厚な感じすらある内部のようす。他の写真も見応えのあるものでした。

 6枚の撮影者は白汚 零(しらお・れい)さん。プロフィール(「jinbochogarou.com/shirao%20profile.html」)によれば、
1965年 高知県生まれ。
1989年 東京写真専門学校卒業。
スクール・オブ・ビジュアルアーツ(ニューヨーク)に全学費奨学生として入学。
1991年 芸術学士号(BFA)取得。
1991年 ヘリオギャラリー(ニューヨーク)主催国際写真コンペティション最優秀賞受賞。
1992年 帰国後フリーランスカメラマンとなる。
1999年 富士フォトサロン新人賞受賞。
2000年 上野彦馬賞日本写真芸術学会奨励賞受賞。
2010年 写真集「地下水道」上梓。
2010年 国土交通大臣賞「循環のみち下水道賞」受賞。
2011年 さがみはら写真新人奨励賞受賞。
個展・グループ展多数

 とのこと。また

白汚零Ray Shiraoウェブポートフォリオ - So-net
(www014.upp.so-net.ne.jp/RayShirao/‎)
穴写真家、白汚零(しらお れい)のホームページ。下水道、鍾乳洞など穴があったら入りたい方はぜひお入りください。水道管や沖縄の亀甲墓の写真もあります。

 と。

 HPを訪れると、「胎内都市」「窟にて」「導管」「細道」「カミヌクー」というジャンル(?)ごとの写真が掲載されていました。まさに「穴」に徹底してこだわり、魅せられた(魅せようとする)写真家のようです。今まで接したことのない分野でした(そもそも写真という分野自体にも)。
 「原点・自分探し」(ある意味での胎内回帰)をこうしたかたちで完結させようという表現方法とお見受けしました。

JR高架線の東側。このあたりからトンネルではなくなっていたようだ。「さくら水産西日暮里店」の店の横。「藍染川幹線」の上にお店があるような印象。このごついコンクリート製のものはかつての橋の一部? 
横から見たところ。
その幅に沿って道路のようすが異なる。いかにも開渠だったころの名残り。
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大久保主水。巻石。神田上水跡をたどる。江戸川公園~小石川後楽園。その3。

2013-10-04 22:06:03 | 河川痕跡

 つるべ落としの秋の日。早くも陽が傾き始めました。先を急ぎましょう。上流から下流への道筋だと思っていましたが、ほぼ等高線沿いのたどり道。
「旧町名案内」。水道端。図書館前。そこには重要なことが書かれてありました。

 神田上水は最初の上水道で、徳川家康の命で大久保主水が造った。小日向台地を素掘で通した。明治11年頃石で巻いて暗渠にした。それで、巻石通りまたは水道通りと呼んでいる。

 ここに、造成者としての大久保主水という名と、「巻石」通りの由来が明らかに。


より。大変興味深い記事がありました。

大久保藤五郎と三河餅(掲載日2008年11月16日)

上水の始め
 天正18年(1590)徳川家康は、それまで領有していた駿河・遠江・三河などを離れ関東に移り、江戸に本拠を置きました。そのころの江戸は入り江や低湿地が多く、井戸を掘っても良い水に恵まれない土地でした。そこで家康は家臣の大久保藤五郎(おおくぼとうごろう 不詳~1617)に上水道の見立てを命じました。藤五郎は江戸の西にある井の頭池や善福寺池などを水源とする上水を開発しました。この上水は小石川上水とよばれ、後に神田上水へと発展しています。
 家康は藤五郎の功績に対して主水という名を与えました。大久保家では「もんど」では水が濁るというので代々「もんと」と名乗りました。

三河餅を献上
 話は藤五郎が上水道を開発する以前にさかのぼります。彼は家康の小姓を務めていたのですが、戦の傷がもとで、三河国上和田(岡崎市)に引きこもり、時折菓子を作っては家康に献上しました。江戸幕府の歴史を記した『徳川実紀』によれば、家康は主水の作った菓子を「御口にかないしとて毎度求め」ていました。そのなかに駿河餅とよばれる菓子があります。
 この餅は大久保主水家の由緒書などによれば三河餅となっています。三河も駿河も家康にとってはゆかりの深い土地ですので、どちらの名でもおかしくはありませんが、ここでは大久保家の由緒書ほかから三河餅の名をとりました。大久保家には藤五郎が鎧を着て、家康に餅を献上する絵が残されていますが、ずいぶん大きな紅白の餅で、これが三河餅と言われています。後年、家康が小石川用水の水源、井の頭池を訪れ、茶を点てた時にも三河餅を献上しています。この時には、湯を沸かした「宮嶋」という銘のある茶釜を主水は拝領しました。

幕府御用菓子屋大久保主水
 主水を名乗った藤五郎の子孫は、代々幕府の菓子御用を勤めました。古くは大久保主水一人で、徐々に増えて江戸時代後期になると4・5軒の菓子屋に増えています。しかし、江戸時代を通じて勤めた御用菓子屋は大久保主水家のみです。
 大久保主水は、幕府のさまざまな菓子作りに関わりました。6月16日は嘉祥の日、江戸城大広間には2万個を超す菓子などが並べられ、将軍から大名旗本へ菓子が分け与えられました。この菓子も歴代の主水が中心になって作りました。
参考:「徳川家康と嘉祥」、本HPコラム歴史上の人物と和菓子/『徳川実紀』第一篇

 「もんど」を「もんと」と濁らない。そして、本職は、和菓子作りだったとは? 新発見でした。

 さて、「巻石」の方は? どういう工法なのか?
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)当時も明治時代もそして今でも、神田上水の道筋はまったく変わらずにある。道の真ん中の破線になっているのが暗渠だったようだ。現在の「巻石通り」。
 ネットで調べると、お墓に関するものばかり。「お墓は石碑の周りを石で囲みますが、これを巻石といいます。」
境界線として石で囲むこと、また、囲んだ石を指すようです。でも、「巻く」という表現はどこから来るのか?
 お墓の写真を見ても、境界線に沿ってぐるりとしっかりと石を並べて定めていく工法のようです。神田上水の場合は上の部分に石で蓋をしたということでしょうか? 
 「巻石通り」という通称名はぜひ残してほしいものです。できたら、通り沿いにそのいわれも大きく掲示してほしいですのですが。

「www.honkane.com/bunkyou-suidoh1.html」<文京区民のページ>より。

●巻石通り
 文京区春日と水道の間
ここは昔、神田上水が通っていました。地域の人々は、”巻石通り”と呼んでいます。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。
 明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。
 その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた 兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
と荒木坂の説明にありました

 このHPの会社が葬儀屋さんというのも何かのご縁。

北側の小日向台地上は寺町になっている。
夏目漱石の菩提寺である「本法寺」。
坂道の多い町。
区立金富小学校脇。「金富」のいわれは定かならず。この小学校、校舎と校庭(グランド)の間には、お寺がどっしりと構えていました。寺町ならではの光景。

「旧町名案内」大和町。そこには、源頼朝にまつわる北野神社(牛天神)の縁起が記されています。当時、小日向台地の崖下は海(東京湾)だったようです。
(「今昔マップ」より)青い○が牛天神。標高は21㍍で、後楽園付近は5㍍。現在の地図からも東京湾の入り江が深く入り込んでいたことが分かります。(緑色の部分が標高の低いところ。)
 縁起によると、源頼朝が1184年東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間、夢に菅神(道真)が牛に乗って現れ二つの吉事があると告げた。武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があった。その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができ、ここに社殿を造営した。(「文京区」HPより。)
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央左に「北野社」。下方の流れが「神田上水」。このあたりから、開渠になる。右下が後楽園方向。現在の「牛天神下」交差点付近。
遠くに「後楽園遊園地」。
「巻石通り」を望む。
「小石川後楽園案内図」。左下の道が「巻石通り(神田上水)」。
築地塀の石垣。江戸城鍛冶橋門北側の外堀跡から出土した石垣の石材を使って再現した、とのこと。
すでに園外の街灯の明かりが。

(「同」)上方を流れているのが神田上水。
(「同」)東側を開渠で流れていく。

         
しばらく進むと、暗渠になり、南に向かう。「神田川」に架かる中央の橋が「水道橋」、右端の橋が「万年筧」。一方は、神田・日本橋方向へ、もう一方は内堀方向へ、辻、辻を曲がりながら流れていたことが分かる。青色の点線。
神田川・水道橋のほとりにある「案内板」。黄色い線が「神田上水」。

水道橋のたもとにあるレリーフ。かつての「水道橋」のようすを描いている。
現在の「水道橋」という表示。
橋の上からの「神田川」の流れ。
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巻石通り。水道町。神田上水跡をたどる。江戸川公園~小石川後楽園。その2。

2013-10-03 21:20:27 | 河川痕跡
 江戸川橋通りを越えて、いよいよ水路跡の道に入ります。
正面左の「巻石通り」。分岐点に「神田上水」跡という説明板あり。

 そこには、
 「神田上水は日本最古の都市水道」
 と記されています。

 「今昔マップ」によれば、分水地点が標高9㍍、そこから、ほとんど高低差がない崖沿いの標高7~8㍍のところを流れていき、後楽園で約4㍍、その先はぐっと低くなります。しかし、動力を使わずに一気に通水させていたわけですから、微妙な勾配を実現していたことに驚きます。実際歩いてみると、北側は坂道・台地、神田川側(南側)の方が低くなっています。
神田川側を望む。緩い下り坂になっている。
 小日向台地の南側を削って階段状にし、そこに水路を造成した、と。静岡の山間部を抜ける新東名高速のようなやり方? 
 (余談ですが、あの道路は海側に向かって傾斜がきつい丘陵地帯を切り開いたようで、高速の上を渡る一般道の橋はほとんど海側に向かってけっこう斜めに下がっている。)

 「上水道」として適度な水量と清潔さを保つためには、台地上から汚水が流れ込まない、淀まない、逆流しない、あふれない、水漏れしない、江戸川(神田川)方向に流さない、等々の工夫、頑丈な堤防、しっかりした暗渠など、相当の土木技術が要求され、またその後の地元民の苦労もたくさんあったと思われます。

途中で見かけた工事現場。関東ローム層?の赤土・粘土の地層が。関東ローム層も一段深く掘り下げれば、そこそこの強度があったという。
北側は、こうした坂道ばかり。工事現場からも分かるように、相当の高低差があります。

">(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。曲がりくねった道が「神田上水」。「後楽園」近くで再び開渠となる。カギ型に曲がる大きな流れが江戸川(現在の名称は「神田川」)。

町名も南側は「水道」。また、「水道」という名が付された施設も。一本南側の道沿いにある「水道交流館」。
中央の曲がりくねった道が「神田上水」跡。
旧町名案内。「小日向水道町」。説明の中に、「水道」と付されたのは、「神田上水」の土ざらえを定時に行うこと(「定浚―じょうざらえ―」)を命じられたもの、とある。
 神田上水に面した町方は、清潔かつよどみなく下流に流すための役目が義務づけられていたことが分かる。町名の「水道」という名にはそんな由来もあった。「旧文京区立五中(現・文京江戸川橋体育館)」付近。
心なしか少し上って曲がっていく道。
小日向台地を削って流れを築いたようだ。
振り返って来た道を望む。ほぼ平坦な道だった。
「区立水道端図書館」。
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大洗堰。芭蕉。神田上水跡をたどる。江戸川公園~小石川後楽園。その1。

2013-10-02 23:18:04 | 河川痕跡
 久々の都心。会合のついでに、地域探索。今回は「神田上水」。江戸川公園からかつての水路をたどってみます。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)「江戸川」と「神田上水」との分水地点。「関口」という地名もこれに由来しているようだが。

説明板。

 神田上水取水口大洗堰跡
 徳川家康の江戸入り(天正18年―1590)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
 大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
 大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。
 上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。
文京区教育委員会 昭和62年3月

「大滝橋」より「江戸川(神田川)」上流を望む。
少し広くなったところ。児童公園になっている。上の明治初期の地図では少し水路が広がり、堰があったあたりか?
「堰」の一部の遺構。
上流側。
説明板。

 神田上水取水口の石柱

 ・・・関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。
 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に寄り撤去されたものを移した。なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。 昭和58年3月 文京区役所


「大洗堰由来碑」
説明板。

 かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は400㍍程常リュ云為復元されています。
 大正8年、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して、由来碑を建てました。
 左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年、この碑文のみが見つかりましたので、ここに設置しました。平成3年3月 文京区役所

左岸は切り立った崖。崖伝いに東の方に流れていた。
大滝橋の一つ下の橋から江戸川の下流を望む。
里程標。みなもと↑18.6キロ、すみだがわ↓6.0キロ。
ヒガンバナ。別名曼珠沙華。
上流を望む。
芭蕉の俳句に詠まれた植物の樹木名板。ここに、芭蕉と神田上水との関連が記されています。

 ・・・俳人松尾芭蕉(1644~1694)は、延宝5年(34才)から同8年までの4年間に亘り此処に居住して神田上水の改修工事にたずさわったと言われている。俳聖と神田上水の工事とはまことに妙な取り合わせのように思われるが、彼の前身が伊賀国(三重県)藤堂藩の武士であったことや藤堂藩(藩祖高虎以来、築城土木水利の技術に長じていた)が当時幕府から神田上水の改修工事を命じられていたことなど考え合わせると彼が工事監督としてこの改修工事に関係していたことも納得がいくのである。・・・ 平成6年2月 東京都みどりの推進委員文京地区会

首都高池袋線。江戸川橋の上。

(「同」)右(東)端、江戸川に架かっていた橋が「江戸川橋」。
赤い○。大きな橋であったことが分かる。「神田上水」は、その北側を東西に流れていた。


神田川

 東京都三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。
 かつては「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。
 神田川の元の名前は「平川」といい、現在の日本橋川の分流点付近から南流し、現在の丸の内・日比谷に入り込んでいた日比谷入江に注ぎ込む川であった。当時はこの平川が豊嶋郡と荏原郡の境界となっていた。
 1590年(天正18年)に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給した。また、後に水害対策として平川下流の流路を隅田川に通じる道三堀と新たに開削した江戸前島を貫通する流路(外濠)に流れるよう改修した。この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠が埋められ、現在の日本橋川の河道が成立した。
 二代将軍徳川秀忠の時代には、江戸城の東北の守りを固めるために平川を天然の堀とすることが企図され、小石川から南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。この工事では、水道橋から東は神田台と呼ばれる台地が本郷から伸びていたため、これを掘り割って通し、現在の御茶の水に人工の谷を造成した。神田台の東では、元からあった川を利用して神田台から真東に浅草橋、柳橋の東で隅田川に合流するようにした。この改修によって、平川の元の河道は切り離されて江戸城の堀となり、東に流れるようになった平川は「神田川」と呼ばれるようになる。神田台の掘割の西には水道橋が架けられ、神田上水は日本橋まで給水できるようになった。後に日本橋の旧平川河道と神田川は再び結び付けられ、日本橋川となっている。
 高度経済成長期には生活排水の流入により水質が悪化し「死の川」と呼ばれたが、周辺部に落合水再生センターなどの下水道網、下水道処理施設の整備が進み、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善し、鯉や鮎、鮒などが生息するようになった。鮎は1993年(平成5年)から毎年確認されている。
 また、かつては洪水で有名という不名誉な肩書きもあったが、80年代以降の川岸整備や放水路の増設によって治水が成された(ただし今でも中野区上高田では危険水位にしばしば達する)。 この際の整備で高戸橋から江戸川橋にかけて植栽された桜が大きく育ち、花見シーズンには多くの人が訪れる。
 神田川の中流域の中でも今日の都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近まで、東京都内の約2.1キロメートルの区間は「江戸川」と呼ばれていた。この部分も1970年8月に「神田川」に名称が統一されることとなったため、これに由来する地名の多くは1966年までにその名を消したが、江戸川橋駅及びその由来である橋梁、文京区立江戸川公園などにその名をとどめている。なお、明治末頃まで、石切橋から隆慶橋間の両岸は、東京市内屈指の桜の名所と言われた。
(以上、「Wikipedia」参照。)
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もう一つの藍染川。日暮里~町屋。その2。

2013-09-23 21:14:56 | 河川痕跡
歩道には花壇が並び、地元の方々の整備が行き届いています。
それほど交通量も多くなく、歩道も広い。でもなんだか歩きにくい。どうも歩道が傾いています。
けっこうな角度。開渠だったころの川との仕切り壁をそのままにして歩道をつくった? 車道部分(藍染川跡?)が盛り上がっています。
この段差はどうしてできたのでしょうか?
車道と歩道と微妙な舗装の違いが。

 町屋駅にかけて、京成線の高架下には小さな工場や商店がありました。それらもすべて撤去されています。
かなりの幅で続いていた工場。
どういう工場だったのでしょうか。「禁煙」の表示や人名が残されています。
工場の名が。
フックのようなものが高架の壁にそのまま残っていました。
このお店はどういう商品を扱っていたのでしょうか?
入口のタイルの部分が残っていました。
明治通りにぶつかります。左が「新三河島駅」。
日暮里方向を望む。
ここからは「藍染川通り」となります。
取り壊した隣の家の姿。
「花の木橋」交差点。スカイライナーが通過中。暗渠になる前は、大きな橋が架かっていたようです。
新三河島駅方向を望む。
都電荒川線を越える。町屋駅方向を望む。
隅田川方向を望む。幾分カーブしているところが河川跡らしく感じます。右手が「荒川自然公園」。この公園は、「三河島水再生センター」の水処理施設の上部空間にあたります。
 「三河島水再生センター」は、1922年(大正11年)に稼動を開始した日本で最初の近代的な下水処理場。

 (以下、東京都下水道局HPより)

 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設
 大正11年3月の設立当初から稼働した赤いレンガ造りの喞筒(ポンプ)室は、水再生センターのシンボル的な施設でしたが、平成11年3月に別系統のポンプ施設に切り替え、引退しました。
 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設は、「わが国最初の近代下水処理場である旧三河島汚水処分場の代表的遺構として、高い歴史的価値が認められ、また、阻水扉室、沈砂池などの一連の構造物が、旧態を保持しつつまとめて残る点も、近代下水処理場喞筒場施設の構造を知る上で貴重である」と評価され、平成19年12月に国の重要文化財(構造物)に指定されました。・・・
 三河島水再生センターの歴史
 三河島水再生センターは、大正3年に建設工事を開始し、大正11年3月に日本で最初の下水処理施設「三河島汚水処分場」として、運転を開始しました。三河島水再生センターの下水処理方法は、散水ろ床法をかわきりに、昭和9年には、パドル式活性汚泥法(鋼製の水車を回転させ空気を取り入れる方法)、昭和34年に散気式標準活性汚泥法を採用し今日に至っています。


来た道を振り返る。
京成町屋駅のホームから隅田川方向を望む。
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もう一つの藍染川。日暮里~町屋。その1。

2013-09-22 20:54:35 | 河川痕跡
 「水再生センター」HPに、「流入水」として、「尾久幹線」「浅草幹線」と並んで、「藍染川幹線」というのがあります。現在の「藍染川」通り下の下水道施設。
 「水再生センター」。ここで下水処理されたものは、隅田川に放流されていきます。
※ 放流水は、「都民の健康と安全を確保する環境に関する条例」の水質基準を十分に満たし、魚がすめる水質。


のHPより。)
施設の北側に沿って流れていたのが「藍染川」。(写真では最上部のところ。)

京成線・隅田川橋梁脇。
●藍染川の終着点
 藍染川は日暮里の高台、文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました。昭和35(1960)年に保健衛生上の問題などにより全面トンネル化され、現在は道路になっていますが、トンネルを流れる藍染川幹線は三河島水再生センターで下水処理をされ隅田川へ放流されています。
さんより。
 
 「西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました」とありますが、このトンネル部分はレンガ積みで、その内部の写真が「2013年下水道カレンダー」に載っているそうです。
 「大正2年、東京市下水道設計による最初の工事に着工(台東区龍泉二丁目付近)」と東京都下水道局HPにありましたから、かなり初期の頃に造られたことが分かります。

 今回は、その藍染川通りを日暮里から町屋までたどってみました。すべて暗渠、京成線高架沿いの、ほぼ直線で広い舗装道路となっていて、痕跡はほとんどありません。 

日暮里駅前ロータリーの「太田道灌」像。
「舎人ライナー」。様変わりの日暮里駅前。
「立ち呑み酒屋」。以前は、ごみごみした街中にこうした飲み屋さんがありました。立派なビルに入っていても、コンセプトは変わらないことに敬服。
ここからスタート。「さくら水産西日暮里店」の店の横。「さくら水産」はここ以外で飲んだり食べたりするお店の一つ。「藍染川幹線」の上にお店があるような印象。このごついコンクリート製のものはかつての橋の一部? 
横から見たところ。
その幅に沿って道路のようすが異なる。いかにも開渠だったころの名残り。
 店の裏手、ガード際にも何か痕跡がありそうだが・・・。そこでJR線の方へ。
廃線を見つけた。線路の途切れた辺りが元の水路?
この辺りだけが雑草に覆われている。
「さくら水産」から尾久橋通りを望む。
「藍染川西通り」。西日暮里駅近く。尾久橋通り際。
振り返って尾久橋通り方向を望む。
JR貨物線の踏切を越えると、京成線高架沿いに直線で進みます。

京成電車がまだなかったころのようす。赤い線が「藍染川」。(「今昔マップ」より)
まだ暗渠にならない前のようす。(「同」)京成電車は藍染川に沿うように建設されたことが分かります。○は、「花の木橋」。大きな○は汚染水処理場。
現在のようす。(「同」)
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羽二重団子。芋坂。音無川出張所。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その4。)

2013-09-17 21:05:00 | 河川痕跡
 「尾久橋通り」・「竹台高校前」の信号を渡ってしばらく通り沿いに進むと、いよいよ日暮里駅への道に出ます。
斜めに入る道が音無川跡の道。左が台東区、右が荒川区。
「尾久橋通り」の向かいの高層マンションの先が来た道(音無川跡)。
右が荒川区、左が台東区。道は微妙にカーブしている。
奥に見える路地? が台東区と荒川区の区界となっている。右の建物が荒川区、左の建物が台東区。
ずうっと奥まで細く続く。区界は西側のJR線を越えていく。この先「音無川」跡は荒川区内に。ということは、ここで「goo」の明治期の地図も掲載されなくなるというわけ。

 その先で、「羽二重団子」の店先に。
「羽二重団子」。角に「王子街道」という道標。「音無川」が王子から流れてきているという証。正面の道が「芋坂」。
「芋坂」から通りを望む。

羽二重団子(はぶたえだんご)は東京都荒川区にある株式会社羽二重団子が製造販売している団子。
 きめがこまかく羽二重のようだと絶賛されたのが由来で、そのまま名前となった。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類が売られている。串団子であるが、粒の形が一般的な球形ではなく厚みのある円盤状なのが特徴的。
 文政2年(1819年)、初代 庄五郎が「藤の木茶屋」を武蔵野国谷中本村字居村(現在地 東京都荒川区西日暮里 付近) に開く。当初の品名は「大だんご」であった。 のちに団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、慶応4年の二代目庄五郎の頃には菓子名「羽二重だんご」、屋号も「羽二重団子」となっている。(以上、「Wikipedia」より。)

 以下、「羽二重団子」HPより。

●江戸の昔より、日暮しの里・呉竹の根岸の里といえば、音無川の清流にそうた塵外の小天地として知られました。花に鶯、流れに河鹿、眼には遥かな荒川の風光にも恵まれて、人々は競ってこの智に別荘を設けました。くだって明治大正の頃まで、粋で風雅な住宅地として憧れの土地柄でありました。
●文政二年、小店の初代庄五郎が、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しました。この団子が、きめ細かく羽二重のようだと賞され、それがそのまま菓名となって、いつしか商号も「羽二重団子」となりました。こうして創業以来六代百八十年、今も江戸の風味と面影をうけ継いでいるのでございます。
●団子というものは、そもそもは中国渡来の野趣ある菓子でありましたが、江戸時代に入って普及したものです。ことに元禄年間には名物団子が随所に現れ、流行になりました。けれども今日では、昔からの名ある団子が都内ではほとんど見られなくなりましたことは、いささか心さびしいことです。
●羽二重団子は、その光沢と粘りとシコシコした歯ざわりが身上です。よく吟味した米の粉を搗抜いて、丸めて扁たく串にさします。昔ながらの生醤油の焼き団子と、渋抜き漉し餡団子の二種類を商っております。材料の吟味に製法に、家伝に即した苦心を怠らず、いまの東京に類をみない古風な団子をご賞味いただけるのも、代々のご愛顧のたまもの、商売冥利と存じております。

「子規の句碑」。
芋坂も団子も月のゆかりかな

「芋坂」の説明板。

 芋坂
 善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。坂名の由来は未詳。明治15年ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が、失われてしまった。伊藤晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は天王寺の五重塔を望む芋坂の、のどかなたたずまいをよくあらわしている。荒川区教育委員会

上の赤丸が善性寺、下の大きな赤丸が芋坂と思われる。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 谷中の天王寺・五重塔
 1644(正保元)年に最初の五重塔は完成したが、1771(明和9)年目黒行人坂の火事で焼失し、19年後の、1791(寛政3)年に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された。このときのことは、幸田露伴の「五重塔」として知られている。
 総ケヤキ造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災、戦災にも遭遇せず、谷中のシンボルになっていたが、1957(昭和32)年7月6日、放火により焼失した。焼け跡から男女の遺体が発見された。不倫の精算のためだったという。現在は、礎石が残っているだけである。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石などすべて花崗岩。
 もとは、日蓮宗感応寺と称した。奈良時代からの古寺・浅草寺と幕府の寺・寛永寺の五重塔に負けじと五重塔を建てた。出来た頃は、将軍家光に大いに保護されていたが、1699(元禄12)年、この寺が日蓮宗の中でも過激な、不受不施派(他の宗派からは施しを受けない、施しをしない)の根城だったことから、幕府から邪宗だとして弾圧され、僧侶は流刑に処され、寺は寛永寺の管轄に置かれ、天台宗に改宗させられた。寺名が天王寺に改名されるのは、1833(天保4)年。
意外に狭い敷地。掲示されていた写真。

慶応4年(1868年)、上野の山での官軍との戦いに敗れた「彰義隊」が「芋坂」を逃げ落ちて行った、と。
「芋坂跨線橋」。JR線に架かる歩道橋。
芋坂跨線橋からスカイツリーを望む。
渡りきった谷中側にある説明碑。「芋坂」。
坂の由来。

 坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前に通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が、「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
 坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因んだという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
   芋坂も團子も月のゆかりかな 子規

「正岡子規と当店」。

 子規居士が上根岸町82番地に居を構えたのが明治25年である。爾来、亡くなる明治25年までの十年間随分とご愛顧を頂いたと当店四代目は伝える。
 『仰臥漫録』から明治34年9月4日の日記を抜粋すると「芋坂団子を買い来たらしむ(これに付き悶着あり)あん付き二本焼き一本を食う」とある。多分悶着とは妹の律さんと当店の団子のことで言い争いがあったのであろう。旺盛な食欲が日記から推察でき、死を目前にした子規居士の人間味を彷彿とさせる。
観月会
芋坂の団子の起こり尋ねけり
根岸名所の内
芋坂の団子屋寝たりけふの月
短歌会第四会
芋坂の団子売る店にぎはひて
 団子くふ人団子もむ人
俳諧稿巻一より
子規歌集より

 他にHPでは次の俳句も紹介されている。
芋阪に名物の團子あり
名物や月の根岸の串團子
秋昔三十年の團子店

明治10年代のようす。(「同」より)

「将軍橋と芋坂(善性寺)」の説明板。

 善性寺は日蓮宗の寺院で長享4年(1487)の開創と伝える。・・・宝永年間(1704~1711)、(六代将軍徳川)家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
 善性寺の向い、芋坂下には文政2年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の羽二重団子)がある。芋坂も団子も月のゆかりかな 子規  荒川区教育委員会
門前の通り。音無川跡の道。

「東京消防庁荒川消防署音無川出張所」。
消防車。表示が「音無川」となっている(○のところ)。

「日暮里駅」前より音無川跡(来た道)を振り返る。久々にやってきて、大きく変貌した駅前のようすにびっくり! かつては安い大衆酒場があったり、ラーメン屋があったり、と雑然とした町並みだった。

 日暮里から王子までは音無川跡もJR敷地内だったり不明だったりで、跡をたどるのはここまで。ただし、駅前から西日暮里駅に向かう蛇行した道が「音無川」跡のようです。
 「歴史的農業環境閲覧システム」さんより明治10年代のころのようすを。
中里付近の音無川。
石神井川との分岐点付近。蛇行している川は石神井川。飛鳥山の東側に流れていくのが音無川。
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笹の雪。子規庵。「獺祭」。ねぎし三平堂。音無川跡をたどる。番外編。

2013-09-16 23:46:26 | 河川痕跡
 ここでちょっと寄り道。根岸界隈は見所満載でもある。上の図で赤い線が「音無川(「跡)」。

「笹の雪」。
《句碑》
・水無月や根岸涼しき笹の雪
(みなづきや ねぎしすずしき ささのゆき)
・蕣に朝商ひす笹の雪 子規
(あさがおに あさあきなひす ささのゆき)

 ※上の句は、明治26年、下の句は、明治30年の作。

「笹乃雪」の名の起り
 笹の雪の祖先玉屋忠兵衛なる者 其の頃未だ江戸市中にきぬごし豆富など無かりしに 此のきぬごしを発明しを以て初めとし 上野東叡山の○(一字不明)用を承り候 輪王寺様の御称讃に預り、此は・・・

 以下はHPより。 

笹乃雪初代玉屋忠兵衛が絹ごし豆富を発明。
 元禄四年(約三百二十年前)上野の宮様(百十一代後西天皇の親王)のお供をして京より江戸に移り、江戸で初めて絹ごし豆富を作り根岸に豆富茶屋を開いたのが当店の始まりです。
 宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛され、「笹乃雪」と名づけ、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は今も店内に掲げてございます。
 当時の製法そのままに、井戸水とにがりを使用した昔ながらの豆富の味をご賞味くださいませ。

恋人は赤穂浪士
 本日は、当店の伝説ともなっている切ない恋のお話をいたしましょう。
時は元禄15年12月14日。ご存知、赤穂浪士の討ち入りがございました。主君の仇討ちを果たした浪士たちは4カ所の大名屋敷にお預けとなったのですが、そのうち大石内蔵助以下17人が預けられた細川様のお屋敷に、当店の豆富が届けられました。上野輪王寺の宮、公弁法親王様のお心遣いです。
 当店は、初代玉屋忠兵衛が親王様について京都から江戸へ移ってきたという縁があり、こうしたお使いも珍しいことではなかったのですが、この時届けられた豆富には、別の思いも込められていました。実は、娘のお静が細川家お預けの赤穂浪士の一人、磯貝十郎左衛門に心を寄せていたのです。
 最初の出会いは、お静が雪道で足をとられ滑りそうになったのを十郎左衛門が助けた時。そして、十郎左衛門が俳人の宝井其角に連れられて来店したことで2人は再会します。その後も十郎左衛門はたびたび来店したようですが、もちろん本当の名前も身分も明かすことはありませんでした。
 赤穂浪士たちのその後は、ご承知のとおりですから、この話に楽しい続きはありません。第一、この恋が片思いだったのか、両思いだったのかも不明。いずれにしても、凛として白いお豆富のように、おぼろで淡いお話です。
HPより。




「東京都指定史跡 子規庵 台東区根岸二丁目五番一一号 指定 昭和三五年九月
 正岡子規(1867―1902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)、本名は常規(つねのり)、別号は獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
 新聞「日本」及び「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
 著書には俳論『俳諧大要』『俳人蕪村』歌論『歌よみに与ふる書』歌集『竹の里歌』随筆『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』など多い。
 子規はこの場所に明治27年(1894)2月から住み、同35年(1902)9月19日病のため没す。母八重妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
 昭和20年(1945)戦災によって平屋造り家屋は焼失したが、昭和25年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。平成12年3月 東京都教育委員会」

 脱線。獺祭書屋主人「だっさいしょおくしゅじん」と読む。

獺=かわうそ。ニホンカワウソ(日本川獺)は、全国に広く生息し、愛媛県の県獣でもあった。しかし、乱獲や開発による生息環境の変化で激減。1979年夏の目撃例が人間に目撃された最後の例となり、2012年8月、環境省のレッドリスト改訂で正式に絶滅が宣言された。
(以上、「Wikipedia」より。写真も。)

 「獺祭」は、山口県岩国市周東町獺越にある「旭酒造」のお酒の銘柄でもある。

 弊社の所在地である獺越の地名の由来は「川上村に古い獺がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれておりますが(出典;地下上申)、この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。獺祭の言葉の意味は、獺が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。

酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代
 獺祭から思い起こされるのは、明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が自らを獺祭書屋主人と号した事です。「酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに伝統とか手造りという言葉に安住することなく、変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする弊社の酒名に「獺祭」と命名した由来はこんな思いからです。
(以上、「旭酒造」のHPより)
「音無川」跡の道と明治通りとの交叉するところにあった酒屋さんの店先に大きな宣伝が。そこには「山口の山奥の小さな酒蔵」とありました。

「子規庵」正面。
鶯谷の方から来ると、ラブホテルが建ち並ぶ脇を通ってくることに。ここから日暮里にかけては住宅街。
「子規庵」裏手。言ってみれば長屋。ここに日本文芸史的にはそうそうたるメンバーが集っていたことが特筆すべき事柄。


 子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。 
 子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。
 昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。  
 昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております
(「財団法人 子規庵保存会」HPより)


 出身地の愛媛県松山。道後温泉に「子規記念博物館」があります。道後温泉駅から歩いて数分のところ。
掲示板。建物正面の門扉・飾り格子(細工物)が、俳諧雑誌「ホトトギス」の表紙を飾ったデザインを模したものとの解説がありました。
正面入り口。2階窓と扉に注目。「蔵」をイメージしたそうで、立派な建物です。
正面に大きな垂れ幕。「遠足の十人ばかり花の雨 子規」。
入ってすぐのところにある子規の「ブロンズ像」。
 館内は、写真撮影禁止。
 けれども、じっくり見ていると、時間の経つのを忘れてしまいそうなほど。子規(さらに漱石などゆかりの文人、高浜虚子などの多くの門人達の)句や絵画、生涯が展示され、活字と写真でしか見ていなかった多くの資料の現物(複製もあるようですが)を目にすることができ、改めて子規とその世界を心底、味わうことができました。
 道後・松山の歴史展示や「日露戦争と秋山兄弟」などの映像作品も、豊か。
 特に、「子規とベースボール」コーナーは興味深い。「野球」のぼーるを最初に用いた人物であるとか、ベースボールに熱中して結核を発病したとか・・・。話では知っていたことでもバットやユニホーム姿など展示で再確認。

 うちはつす球キヤツチヤーの手にありてベースを人のゆきかてにする (明治31年作)

 子規が亡くなる数時間前に書いた「絶句三句(複製)」なども展示されていました。

①糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間にあはず
③をととひのへちまの水も取らざりき 

 これらの句にあやかって、子規の命日は、「へちま忌」といいます。・・・
建物脇の子規の短歌。
「足なへの 病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば 子規」
「道後公園」入り口の子規と漱石の句碑。
「冬枯や鏡にうつる雲の影 子規」「半鐘と並んで高き冬木哉 漱石」。どうも漱石の句の方が分が悪い、と思うのは私だけか。
「子規堂」。伊予鉄「松山市」駅近く。子規が17歳で上京する迄住んでいた居宅の復元。帰りの飛行機までの時間がなくて、残念ながら、見学は省略。
JR松山駅前にある子規の大きな句碑。
「春や昔 十五万石の 城下哉」

(以上、以前、松山を訪問したときのブログより)

《付1》上野公園内には、「正岡子規記念野球場」がある。
正岡子規記念野球場。公園の真ん中にある草野球場。公園内のベストポジションにあることには、深い因縁があります。
 歌人、俳人で名高い正岡子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889(明治22)年に喀血してやめるまでやっていました。ポジションは捕手。幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことも。
 「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚という人物ですが、読み方(のぼーる)は異なりますが「野球」という表記をすでにその4年前に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規だそうです。
 また、「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしています。ちなみに、子規は2002(平成14)年に野球殿堂入りをしています。そういう因縁があるのでは、簡単に草野球場をつぶすわけにはいきませんね。
記念碑。「春風や まりを投げたき 草の原」(子規)。

《付2》上京当時の仮寓の地。長命寺の桜もち「山本や」。さすが健啖家であった子規らしい住まいです。
隅田公園内。
大学予備門在学中の頃。
・向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん

 日暮里駅方向にしばらく進むと、「ねぎし三平堂」。昭和の爆笑王、初代林家三平師匠の資料館。かつての彼の住居を利用した館内に、ネタ帳やテレビ番組の台本など思い出の品々が展示されていて、来館者が楽しめる工夫を凝らしてある、らしい。
正面。
 落語会も開催している、らしい。次回の三平堂落語会は 9 月21日(土)。5時30分開演、木戸銭1,000円。
出演:「権助魚」林家 たこ平 。「品川心中」林家 鉄平。「鉄の男」柳家 小ゑん。


www.sanpeido.com/popup2_map/map.htmより。
 今回紹介した「笹の雪」、「子規庵」(「三平堂」の斜め右上辺り)、「三平堂」の位置関係。
おまけ。
「三平堂」前の路地。下町的な雰囲気。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)
明治10年代のようす。ほぼ中央付近が「笹の雪」、「子規庵(となる前)」などがあるところ。寛永寺、天王寺、徳川墓地などが記されている。「音無川」はもう少し上の方を流れている。
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隕石直売所。御行の松。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その3。)

2013-09-15 22:54:00 | 河川痕跡
 明治通りを越えて南に。常識的には東京下町の地形から考えると、南に向かうのは少し違和感があります。王子から南に下ってきた流れが今度は北東の方向に流れ、さらに東に向かうのですから。
 そこで、「今昔マップ」さんの標高を追っていくと、西側(JR線側)は上野台地(忍ヶ丘)からの低丘陵地帯があり、高低差から北に向かう(もちろん、「石神井用水」として田畑を潤すという灌漑用水の役目をしているので、低湿地にある田んぼ・農業地帯へ水を流すことは当然でもありますが)ようになります。

《標高のデータ》「今昔マップ」さんより。
・台東区根岸二丁目付近(上野の山からの続き)4~6㍍。
・東日暮里四丁目付近(東北側)2~3㍍。
・根岸五丁目付近2~3㍍。
・東日暮里一丁目付近1㍍。
・浄閑寺付近1㍍。
・明治通り0㍍。

 という具合でした。なお、「日本堤」は2㍍で盛り土をしたことが分かります。いずれも、現在は、道路整備・舗装工事あるいは大きなビル建設、整地などの関係で、上記のような標高差はまったく実感できません。
 しかし、たしかに水は、当然、高きから低きに流れていくわけです。

「明治通り」を越えたところにあった家屋。昔ながらの切妻造りでした。川沿い(暗渠沿い)に古くから商店街をなしていたことが分かります。周囲が近代的な建築になっている中で、さりげない存在感がありました。

「切妻造り」

街道沿いの商家等の町屋建築によく見られます。出入口によって、「平入り」(平入、ひらいり)や「妻入り」(妻入、つまいり)とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式。(以上、「Wikipedia」参照。)

広い道ですが、少し左右にカーブしていて、かつての河川跡らしい道のようす。右が荒川区、左が台東区。
通りに面したところにあった冠木門。古い感じだが、特に説明などはなかった。「ラホール根岸」というマンション。
その先を少し行くと、区界は左に折れて狭く曲がりくねった道へ。ここからしばらく細く曲がる道が続く。右が荒川区、左が台東区。
「粋な」黒塀。かつての水路跡沿い。
事務所、民家などの建ち並ぶ広い路地を右に左に進みます。
振り返って下流跡を望む。
けっこう曲がっていますが、かつての流れの曲がり具合よりも整然としている感じ。
角にあったお店。このお店は、台東区根岸。右が荒川区。

隕石☆隕石ジュエリーショップ Big'Bang' Meteorshower
HPより。
 
隕石☆隕石ジュエリー☆願いが叶う不思議なパワーを込めてオーダーメイドのジュエリーを企画、製作、販売
 ☆大宇宙の流れ星パワー☆http://meteorshower-shop.com/

「kakaku.com › テレビ紹介情報」によると、「テレビ朝日」の「若大将のゆうゆう散歩」でも紹介された、とか。‎

 2012/05/11放送。
- 台東区鶯谷を散歩する東幹久は「隕石直売所」と書かれた看板が気になり、隕石を使用したジュエリー「鉄質隕石ギベオン ペンダントトップ」などを販売する「Big Bang」に立ち寄る。東幹久は店内に置いてある数千年前の隕石を見せてもらい、...

 こちらは立ち寄らずに、先に進みました。興味のある方はHPにアクセスして下さい。

下町らしい路地裏。
お寺の脇から振り返ったところ。道(水路跡)は左に曲がっていきます。
左奥から来て少し広い道路を横切って進みます。正面が「御行の松」で有名な西蔵院。右が台東区、左が荒川区。

「御行(おぎょう)の松」(「www.taito-culture.jp/city/landscape/si_216/085/s1.html」より)

 台東区根岸四丁目九番五号 西蔵院境外仏堂不動堂内。
 江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその三代目である。初代の松は、大正十五年に天然記念物の指定を受けた当時高さ十三・六三メートル、幹の周囲四・〇九メートル、樹齢三五〇年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和三年に枯死。同五年に伐採した。
 二代目の松は、昭和三十一年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和五十一年八月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土中より堀り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡()といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。

「御行の松」。
(「TAITOおでかけナビ | 上野・浅草・谷中・浅草橋・徒蔵など台東区の公式観光情報サイト」より。)

:「今昔マップ」によると、この辺りは標高3~4㍍。川の流域一帯は2㍍ほどなので、上野、谷中台地から派生した、川沿いの微高地だったという風に読み取れる。

直角に曲がる。奥が台東区、手前が荒川区。
少し広く車も行き来する通りに出てきました。通り沿いの古い建物。切り妻造りの家の格好がそのまま。裏の方にも古いお家が残されています。
振り返ったところ。ゆるく曲がった道がかつての「音無川」の流路を想像させます。奥が下流。左が荒川区、右が台東区。
「尾久橋通り」にぶつかります。「竹台高校前」という信号機。「音無川」は通りを越えた右の奥の方から流れてきました。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)曲がりながら東北へ向かう流れが「音無川」。その北側が「北豊島郡」(荒川区)側。町家も川を境に広がっていきません。市中と市外との関係?

(「同」)上の地図の続き。日暮里付近のようす。道に沿って西北から流れてきています。左が谷中・上野台地。まだ鉄道は通っていません。
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「三ノ輪橋」。「日本堤」。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その2。)

2013-09-14 12:54:54 | 河川痕跡
 「明治通り」は台東区と荒川区の区界。「泪橋」交差点を過ぎてしばらく進むと、明治通りを北に越えて「台東区」が。右に折れて広い路地に入ると、東が荒川区、西が台東区というぐあい。日光街道までジグザクに道(「音無川」跡)は続いていきます。

右が荒川区、左が台東区。この道幅がかつての流れ「思川」だとすると、ちょっと川幅が広すぎる感じですが、「音無川」本体は川幅十㍍近くあったようです。
振り返って明治通り方向を望む。右が台東区、左が荒川区。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。北に直角に曲がり、さらに西に曲がっているのが「思川」。人工的な流れ(用水)という印象。ちょうど上の写真の部分か? 明治通りはもちろん、鉄道も通っていない頃。

 日本の鉄道は明治5年(1872年)9月12日(旧暦、新暦だと10月14日)に、新橋駅 - 横浜駅間で正式開業したばかりです。「歴史的農業環境閲覧システム」はそのしばらく後の地図(明治10年代初め頃)で、東海道線・横浜駅付近など興味深いようすになっています。それは、また別の機会に。

 山谷堀へ向かう流れとの分岐は、左上方付近。

(「同」)。「泪橋」から「三ノ輪」、「南千住」にかけて。
西に向かう。右奥が浄閑寺。吉原遊廓の近くにあり、遊女の投げ込み寺としても知られる。
浄閑寺門前の説明板。

 「音無川と日本堤」
 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端、日暮里、金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそってここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで灌漑用水に使われていた。
 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草七丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄り道路がその名残である。
                                               荒川区教育委員会

公衆トイレの後ろ。中央に家が建ち並び、その先の一部は公園。それをはさんで両側には道。その道と比べて一段低く家が建っていて、いかにも河川跡という印象。
少し道もカーブしている。このあたりは、一部を除き台東区の地域。 
道路とけっこうな段差がある。音無川をはさんでの「日本堤」。吉原「土手」とも言われるようにまさに土手の道。明治通りを越えるとまったく遺構はなさそうなので、ここが唯一の遺構?
明治通りに出たところから「山谷堀」方向を望む。
浄閑寺方向を望む。中央が音無川跡と日本堤跡。

斜め南東に向かう直線が「日本堤」。音無川は「土手」の北側を流れている。中央の区画された地域が新吉原。左上が「日光街道」。右の斜めの線が「奥州街道」。南千住で日光街道と合流する。
「山谷堀」と隅田川。吉原を過ぎた辺りからは音無川は暗渠になり、再び今戸付近で開渠となっている。
吉原「土手」、日本「堤」というように「日本堤」は土手のように土盛りされていることが分かります。

浄閑寺の西側の道。音無川は正面方向に流れ、その先で「思川」と分岐していた。
「音無川」は、日光街道・「三ノ輪橋」をくぐって浄閑寺の脇に流れていく。右は台東区、左が荒川区。
台東区側にある「三ノ輪橋跡」碑。

 かつて石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かっていた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となっっため三ノ輪橋も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。

 台東区は市中、荒川区は江戸時代は(もとより、明治に入っても北豊島郡という)市外。実にはっきりした台東区の説明ではある。
 ちなみに、「goo」の地図(明治中期)でも、「市内」は詳細に記されているが、「音無川」の北側などの「北豊島郡」地域は掲載されていない。「音無川」が、明治に入ってからも、東京市内と市外との境界線であったことのようだ。「三ノ輪橋」は表記されている。
 
こちらは、荒川区側の説明板。川は日光街道を渡った正面の道路方向から流れてきていた。

 三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が現在の日光街道と交叉するところに架けた橋である。橋の長さは五間四尺(約十㍍)幅三間(約六㍍)であったという
 音無川は日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り常磐線ガード手前を右折、その右角は私立池谷小学校(明治二六年廃校)跡。そして現日光街道を横切り日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
 明治四一年、三ノ輪が属する一六番分水組合が廃止され音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は都電荒川線の停留所名として残されている。荒川区教育委員会・台東区教育委員会
 
 二つの区の教育委員会が連名で説明している。市中、市外などいう表現もなく、客観的に記されていることに。けっこうな川幅であったことが分かる。

 さらに、気になった上の記述内容。「私立小学校の存在」。荒木茂さんという方の個人ホームページ
(www16.ocn.ne.jp/~ondoku/esseisyougakouhuukei.html)に興味深いことが記されていましたので、引用させてもらいます。

 「明治期の小学校の風景」より。
 明治時代は、学制によって設立された公立小学校と、従来の寺子屋から受け継いだ私立小学校との二つの種類の学校がありました。公立小学校は欧 米の教育制度や教 育内容や方法をまねた学校で教科書には翻訳物が多くありました。一般民衆はむしろ従来からの「読み書きそろばん」の寺子屋式な教育を歓迎しました。明治学制の新教育体制は、従来の寺子屋から内在的連続的に発展した学 校ではなく、まったく非連続的に発生した学校制度でありました。・・・
 唐沢富太郎『日本教育史』には次のように書いている。

 「私立小学校の方では組合を作り、組合長副組合長などの役員を置いて一致団結して公立と対立するようになった。かくて東京府においては、明治11年学校全数829のうち684校におよび、教員の全数が1914のうち1197名の多きに達し、小学生徒全数66539のうち46553名は私学生徒である。すなわち児童の66%はみな私学において教育を受けている割合である」
      唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭和28)より。

 恥ずかしいことですが、初めて知ったようなわけ。他にもこの方のHPは元々のテーマに沿った有意義な内容が多いのでまたの機会に訪問させてもらうつもり。

「日光街道」を西に渡ったところ。奥が常磐線のガード。その手前で左に曲がる。右が荒川区、左が台東区。
川の跡を追って、上流方向(南)に進みます。先に見えるのが「明治通り」。右が荒川区、左が台東区。
「明治通り」との交差点にあるお酒屋さん。
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「泪橋」。「思川」。音無川跡をたどる。(「台東区」と「荒川区」の区界。その1。)

2013-09-13 20:41:57 | 河川痕跡
 音無川。石神井用水とも。「石神井川」の水を王子神社と南の飛鳥山の間で堰をつくり、農業用水として東南方向へ流した。北区王子から田端、西日暮里、日暮里とJR線の東に沿って流れ、日暮里駅前から、荒川区と台東区の区界となっている。「三ノ輪」付近で二本に分かれ、東方向の流れは「思川」として明治通りに沿い、「泪橋」を経由して白鬚橋付近で隅田川に注いだ。南東の流れ・「音無川」本流は「日本堤」沿いに進み、「山谷堀」から今戸付近で隅田川に注いだ。現在は、JR敷地内はもちろん、すべて暗渠、道路の一部となっている。

 今回、荒川区と台東区の区界をなしている「音無川」跡を、久々に折りたたみ自転車でたどりました。東から西へ、約5㎞の道のり、探し探しで、約2時間。これまでの区界探索と同じように、けっこうくねくね曲がって、少し細い路地もありました。標高は0㍍地点から4㍍地点、その差は、約4㍍。低湿地帯の田んぼの中を流れていたようです。
「今昔マップ」より。明治末頃。赤い線が「音無川」、「思川」。途中、三ノ輪付近で分岐する水色の線が「山谷堀」から隅田川のルート。赤い○に注目!「北豊島郡」。明治になっても、ここから北は「北豊島郡」となる。「(本・元)豊島(十島?)」は、浅草寺、待乳山付近の隆起した島で、のちに海岸の縁となった低台地を指す。ここ一帯は「豊島」氏の支配下。
「同」より。現在。地図上でd、c、b、aの順でたどっていきました。eが旧山谷堀。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治10年代。)
「橋場の渡し」付近。現在の白鬚橋のたもと。中央上に見える川が「思川」か? 現在の「明治通り」? 田んぼが広がっています。
「橋場の渡し」説明板。

 対岸の墨田区寺島とを結ぶ約160㍍の渡しで「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は幾度か移動したらしく、はっきりしない。大正3年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。荒川区教育委員会

 渡し場は、上の地図では「思川」より少し南に位置しているようだ。ということは、「思川」は現在の明治通りよりも少し北側に流れていたのではないか(東京ガスの敷地内)。

「思川」と「山谷堀」との位置関係。隅田川上流が「橋場の渡し」、下流が「今戸の渡し」。

 白鬚橋の西詰から明治通りを西に。さっそく右手に見えるのが旧東京ガス千住工場。
広大な敷地に巨大なガスタンク群。昔から変わらぬ風景。ここの歴史はかなり古く、明治期の赤煉瓦造りの建物は、小平市にある「GAS MUSEUM ガスミュージアム」に移設されているそうです。また、最先端の研究技術開発などの建物があるようです。

《東京ガスの歴史》(「ガスミュージアム」HPより)
1872年(明治05年) 横浜で日本初のガス事業が始まる 新橋~横浜間鉄道開業
1874年(明治07年) 東京でガス製造工場が稼働し、銀座通りにガス灯が点灯
1876年(明治09年) 東京府瓦斯局が開設
1885年(明治18年) 東京瓦斯会社創立(芝区浜崎町)
1886年(明治19年) 東京電力の前身である東京電燈会社創立
1893年(明治26年) 社名を東京瓦斯株式会社に改称
・・・

「泪橋」。明治通りと旧奥州街道(コツ通り)との交差点。
荒川区方向。この先、JR常磐線を越えたところに小塚原刑場跡がある。
「歴史的農業環境閲覧システム」より。中央下の交差部分が「泪橋」。東西に流れる細い川が「思川」。

 泪橋(なみだばし)は 東京には荒川区と品川区に一ヶ所ずつの計二ヶ所あった。いずれも近隣の刑場に深い関連があるとされている。

1.荒川区南千住にある小塚原刑場跡の近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋。 現在では思川は全て暗渠化されているため橋の面影はなく、その名前は交差点やバスの停留所に付けられる事で残っている。

2.品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの立会川にかかっていた旧東海道の橋。 現在では名称が「浜川橋」に変わっている。

「泪」という名の由来

 江戸時代、小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場であり、磔火焙り獄門が行われ牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。
 小塚原は山谷地区の北端にあり、地区のはずれに泪橋がかかっていた。刑場にいくにはこの橋をわたった。ここが、江戸市中と市外との境界でもあった。「泪橋」は、現在は、台東区と荒川区の区界となっている。
 一方、鈴ヶ森は江戸の北の刑場である小塚原に対しての南の刑場として設置された。鈴ヶ森刑場の周辺は、かつて海岸沿いのさびれた地であった。鈴ヶ森の刑場に向かうには、近くの立会川にかかる泪橋をわたった。
 二つの泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。(以上、「Wikipedia」参照。)

 ここは、なんといってもあしたのジョー」 。高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画。

 泪橋の下に丹下段平がジムを構えていたという設定でした。作品では史実と異なり、実際に川が流れその上に橋が架かっています(ただし、川が思川と明言はされていない)。また、名前の由来は人生に敗れドヤ街へ流れ着く者が涙を流しながらこの橋を渡るからとされており、作中に登場する「泪橋を逆に渡る」というフレーズは拳一つでどん底から這い上がり明日の栄光を目指すというこの作品のテーマを示している、と。
 講談社の『週刊少年マガジン』に、1968年(昭和43年)1月1日号(発売日は1967年(昭和42年)12月15日)から1973年(昭和48年)5月13日号にかけて連載されました。
 累計発行部数は2000万部。連載中の社会的反響は大きく、ジョーのライバルである力石徹が死んだ時には東由多加によって実際に葬儀が行われ、よど号ハイジャック事件では、ハイジャック犯が「われわれは明日のジョーである」(原文ママ)と声明を残しているほど。また辰吉丈一郎をはじめ現実のボクシング界にも大きな影響を与えました。これら社会的反響の大きさから、「戦後最大のヒット漫画」の1つに数えられています。

《ストーリー》
 東京・山谷のドヤ街に、ふらりと1人の少年が現われた。矢吹丈(ジョー)と名乗るその少年に一方的にたたきのめされたアル中の元ボクサー・丹下段平は、その動きから天性のボクシングセンスを見いだし、一流のボクサーに仕立て上げんと奮闘する。しかしジョーは、ドヤ街の子供たちを引き連れて乱行を繰り広げた揚げ句、自分に向けられる段平の情熱を利用して犯罪に手を染め、警察に逮捕されて鑑別所・少年院へと送られてしまった。
 ある日、少年鑑別所のジョーあてに、「あしたのために」の書き出しで始まる段平からのはがきが届く。その内容は、左ジャブの打ち方から始まるボクシング技術の講義であった。時間と体力を持て余していたジョーは、そのアドバイスに従ってボクシングの練習に身を入れるようになり、やがて自分のパンチの切れが、今までと比べ物にならないほど向上してゆくのを実感する。野菊島の東光特等少年院での、ライバル・力石徹との宿命の出会いを経て、ジョーは本格的にボクシングの道へと足を踏み入れることとなった。
 その後、ジョーは強敵カーロス、金竜飛らとの対戦を乗り越え、世界チャンピオンの座を賭け最強のボクサー・ホセとの闘いに挑む。パンチドランカーに冒されていたジョーは、善戦むなしく判定負けを喫し敗れ去る。灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。

 TV放映中にちばてつやが病気で連載を休載したこと、また遅筆であったこともあり、ストーリーが原作に追いついてしまった。そのため矢吹丈VSカーロス・リベラ戦で終了している。原作の魅力に加え、初めて監督格となった出統の先鋭的な演出によりその名を高めた。また、矢吹丈と丹下段平の声を(元来アニメ声優ではない)あおい輝彦と藤岡重慶が担当し、そのハマリ具合の絶妙さから、続編や劇場版において他の人物の声の配役が大幅に変更される中でも、この両名だけは常に不動とされた。
《声の出演》
矢吹 丈 - あおい輝彦
丹下 段平 - 藤岡重慶
力石 徹 - 仲村秀生
(以上、「Wikipedia」参照。)

 
あしたのジョー名言集
「YouTube」より。
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霜降銀座。霜降橋。駒込。谷田川跡をたどる。王子~駒込編。その3。

2013-09-04 21:56:12 | 河川痕跡

「作成&管理霜降銀座栄会ホームページ作成委員会」より。

谷田川
 この川は上流より、谷戸川・境川・谷田川・蜆川・蛍川・藍染川とその流域により呼ばれたが、一般的には谷田川で、今は暗渠である。
 巣鴨の青果市場(御薬園渋江長庵御預地所)より染井墓地(播州林田藩一万石建部内匠頭下屋敷)の下を流れて、豊島区(上駒込村)の境域を形成して、霜降橋・谷田橋より荒川区西日暮里へ入り、谷中(台東区)と千駄木(文京区)の間を流れて不忍池へと入った。全長は不詳であるが行程よりみて一里あまりは充分にある。
 谷戸川の名が示すように最初の流域である西ヶ原村には、東谷戸・西谷戸・南谷戸・谷戸の小名があり、水田が多く見られた。谷戸・ヤトは地域的には谷間で水田が出来る地とされている。谷田・谷津谷地もまた同系統の言葉とされている。
 中里村を経て田畑村に入ると小名に東谷田・西谷田があり、川の名も谷田川と改まり、今も谷田橋通りに谷田の名を残している。
 霜降橋とは風流な名前で明治以降の命名とされ、市電・都電の停留所で知られたが、今はバス停に使われている。
 江戸時代には立会橋・境橋と呼ばれ、立会い橋の名は将軍日光社参拝の時に万が一があってはならないので、上駒込、西ヶ原村立会の下に点検修理を行なったがその必要も無くなれば境界を示す境橋という平凡な名に変わる。
 谷田川沿いの道は江戸時代には上野から入る六阿弥陀道として春秋の彼岸には大層な賑わいをみせた。大正に入ると暗渠化が進み、地区も昭和7年より工事開始となり、暗渠化の上は道路となって、両側には田端銀座・霜降銀座・染井銀座等の商店街が形成された。
 北区郷土館シリーズ「北区の水ものがたりより」抜粋

 とあった。ここでは、「谷田川」は、石神井川から分離した川ではないことに。

 次の文章も掲載されていたので、孫引きさせてもらいます。

「滝野川第4号」より
・今、幻の谷田川を探る(抜)
岩出進
谷田川の最源流は、南側台地の巣鴨御薬園跡地裏手斜面の湧き水で、それに続く西側台地の下瀬火薬製造所(元東京外語大)東側台地の染井墓地に降った雨水や、湧き水が谷に流れ込んで川になったと思われる。
 その周辺は森や池や沼が点在し所々に椎の木が立ち、牧場もあり、沼には植木屋の菖蒲園も見られ、のどかな田園風景が続いた。
 現在西ヶ原の谷戸の交番の近くに住む旧家小野沢秀雄氏の話によれば、染井墓地下の慈眼寺の傍に釣堀があり、その脇を谷田川が細く流れて、野菜の洗い場が所々に設けられていた。
 この辺は農家が多く、大根、牛蒡を作り、川の近くでは里芋やしょうがを作っていた。洗い場は清水が湧き出しているそばに作られていたので、いつでもきれいな水で野菜を洗って出荷することが出来た。
霜降橋から滝野川小学校を方面にかけて、夏は見渡す限りの大根畑や、とうもろこし畑であり冬は麦畑であった。
動坂下の辺は、田が多かったが、現在の北区側の中里から田端にかけては、畑であり、この辺にも洗い場が5カ所あった。
 そして本郷と上野の両方の台地からきれいな水が流れ込んでいた。洪水があると、釣堀や養魚場から流れ出した金魚をすくうこともできた。地図には谷戸川と言う名で載っているが、北区に入って西ヶ原、中里、田端の人々は谷田川と呼んでいた。
 川幅が約2メートル、深さも約1メートル以下の谷田川は、現在の扇屋そば店の前あたりから、現在の谷田川通りに曲がり、霜降橋のところの本郷通りの下を通り、駒込駅下の谷田川通りを経て、田端の谷田橋薬局の方へ流れている。そして昭和壱六年には全部暗渠が完成した。

・西ヶ原回想
 波多野政雄
 海軍火薬庫から流れていた谷田川では、鮒や濃いが釣れた。大根の洗い場があって、夏は蛍もいたしね。
 またあっちこっちに蓮池があって、蓮の実を採りに行って呼子に引っ掛かり肥杓子で追いかけられて押入れに逃げ込んだこともあった。
 谷田川が岩槻街道と交差するところに霜降橋があって土橋だった。冬霜が降ると白く見えたので霜降橋と伝った。
 ここらは湧き水があって、古河庭園の池は湧き水で、今地下水が減らないように、傍に井戸を掘って監視しながら調査している。
 この辺各家に井戸があったが今はうちだけが水道と井戸を使っています。現在は下水も無くなって谷戸川の風情はなくなりました。地名だけ残っている。
 暗闇坂の名前は切通しで大八車1台しか通れなかった。大正初期ですかな、私は明治44年生まれですが、道路が改正になって、こっち側が削られてなだらかになりました。
 急坂で切通しで、日本橋魚市場や神田の青果市場から荷を持って帰ると坂が上がれない。半纏を引っ掛けた立ちん棒がいて、旦那押しましょうかと声かけ、頼むと車の後を押した。ヨイショと掛け声ばかりで力が入ってないぞと云うと、すみませんと返事する。駄賃は2銭もらっていた。
 道路が改正になってから、中学に入ったのですけれど、大正5年皇后陛下(貞明皇后)が西ヶ原の蚕糸学校に行啓なさって、この道をお通りになった。
2階は窓を閉めて国旗を立て、家族のものは外へ出て拝顔するよう。犬猫は家に入れると布命が出た。当時馬力ですから馬糞は綺麗に掃除して、駒込橋から蚕糸学校まで三間幅で砂を敷いた。そうしないと砂利道ですからお通りになれない。
 行啓の馬車がくるさなかになって、馭者をふりきって馬が逃げてきた。近所に竹屋があり、うちの父が竹竿で通せんぼして馬を止めた記録があります。
私の小学校の時には浅野長勲侯爵、渋沢子爵、古河男爵この方々が出勤なさるのを知っています。渋沢さんは自動車七十七の緑色で乗用車が1台、それから当時貨物自動車、トラックとはまだ云わなかった。ファードの二十五馬力1台。これは王子製紙のトラック。
 浅野侯爵は二頭立ての馬車、車輪が金モールで飾った。お殿様はシルクハットをかぶり、二重廻しを着て後ろの座席にすわり、別当は紺のハッピを着て浅野葉の家紋をつけた帽子をかぶり、前の座席に一緒に乗った。
この坂に来ると後ろに乗り、ガス塔の付いた金の矢羽根のついた馬車で毎朝でした。
 それしかこの道は通らなかった。ある日貨物自動車がオーバーヒートして煙をだしたので、ボンネットを揚げて冷やしていた。「貨物自動車がとまったぞ}と親父さん連中がよってたかって見学していた。考えてみるとのんびりした時代でした。
 上中里の鷹番山は有名な大田道灌が鷹狩の場所で、鷹匠がいた所です。

編集者注(小野磐彦氏)鷹番は上中里と西ヶ原にまたがって一万二千五百余坪に亘る御用屋敷。一名兎御用屋敷があって、兎狩りや鷹狩がしばしば行なわれ、屋敷内には御鳥番の役宅が設けられていたという。鷹番も住み、鷹場もあったはず。

 そこに立てば西は富士が根、東は筑波山と両方見えた。稲穂の先に帆かけ船通る荒川が見え、黄金色に色づいた稲穂の中に王子軌道電車が通って見えた。川口へ肥料を運ぶ伝馬船も見えました。
 中学当時には荒川まで行って泳いだり、櫓を漕いで遊び、両国の川開きというと友達と弟三人で小台の貨船を櫓漕いで両国に行った。そんな経験もある。汚穢船を繁留していたおだいには、バケツで水を汲み中を洗っていた。そこで泳いでいたので、おじさんきたないなーと云ったら、水というものは三尺流れりゃきれいになると云っていた。
 その船頭のお神さんが米を洗って炊いていた。そういう時代だった。
飛鳥山下にきれいな小川が流れて、藻がなびいていた。金魚屋があって、少し大降りの雨があると金魚が流れてきた。あすこの下の土手に全部清水が出て、上中里の暗渠があって覗くとこっちへきた。
 田端中学の裏の土手に道灌山の三角屋敷に粘土が取れるので、登ってとり、汚れた手は下で洗えた。
 駒込は田端に行くJRは上へ上がっていくが、もっと下にトンネルがあった。トンネルを通ってこち側へ出た。駒込駅の橋は明治38年に建設したが、この間土手を掘り出したら、てかてか風化していなかった。九千?もあるのをつるして地下鉄を掘っている。38年の橋桁を保存するべく運動している。
 汽車がこっちから入って、あっちへ抜けると煙がパッと出るので面白く見に行ったものです。駒込駅の入り口が上にあって下にホームがある。階段の真ん中に杉の皮をむいた柱の手すりがあり、またがってすべりおりした。あすこの提のさつきは、家の前の鍋島侯爵の園丁の長崎さん(初代の人)に頼んで植えてもらい、町の有志が揃って手伝った。戦後駒込の商店街の方で管理するようになったが、もともとこっちの町会の有志がやったのです。
 六阿弥陀かけてなくらむほととぎす其角足立の長者の姫が、豊島の長者の許に嫁したが、姑の虐待に耐えかねて、思い余って、憐れにも沼田川に投じ、5人の侍女も後を追って之に殉じた話に六阿弥陀の像を刻んで六女の冥福を祈った行司が春秋彼岸の六阿弥陀信仰の由来で、昔のハイキングコースであった。第三番の無量寺、第四の田端興楽寺に古河邸から聖学院下を通って、興楽寺へ行って谷中に抜ける道中だった。
 信仰は物見遊山の肩身ごろ
 六阿弥陀像嫁のうわさの捨てところ

江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)
 a地点が西北の石神井川からの流れ(途中で消えている)。bが「谷田川」。c地点が水源の一つ。右下(東南)がのちの染井霊園。もう少し西南・巣鴨方向から流れてきた川が存在している。d地点が現「霜降橋」交差点。駒込からの「妙義坂」下。中央の道は「本郷通り(日光御成街道・岩槻街道)」。
 e地点に「植木屋多し」とある。ソメイヨシノ発祥の地か? 
 染井霊園北(また、巣鴨付近)から流れ出た「谷田川」と石神井川から切り離された川とは、直接、合流せず、水田地帯を細々と流れて、谷田川に注いでいたのかもしれない。現在、その痕跡は全く分からなくなっている。

 こうして、何となくかつての「谷田川」のようすと現状が垣間見ることができました。「谷田川」(その後の暗渠となったとそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
「霜降銀座栄会」。
この商店街がかつての「谷田川」。
古風な建物のお店。
「谷田川通り」は広い道路として「滝野川」方向への道。一方、旧谷田川は、商店街の方に流れていたようです。右が「谷田川通り」左の細い商店街の道が旧谷田川。
「谷田川通り」となっていますが、水路跡ではなさそう。
「本郷通り」。左へカーブして西ヶ原方向へ。ゆるい上り。
「〃」。駒込駅方向。左へカーブしていく。「妙義坂」というゆるやかな上り坂。
「霜降銀座」のアーケード。「本郷通り」側。
「霜降橋」交差点。
同じく「谷田川通り」方向。
下流・駒込駅方向。「谷田川通り」ゆるやかな下り。この辺りからは谷田川は「中里用水」という名もあったようです。
奥が山手線をくぐるガード・「中里用水架道橋」。
上流方向(「霜降橋」方向)を望む。
「駒込駅」改札口の案内板。霜降商店街、染井商店街が谷田川の暗渠の上にあることが微妙なカーブがあることなどで分かります。

 こうして、断続的(千駄木~上野。千駄木~駒込。王子~駒込)でしたが、「谷田川」跡をたどってみました。新たな発見もたくさんあってなかなかおもしろい「小さな」旅でした。
 「歴史的農業環境閲覧システム」さん、「今昔マップ」さんの地図には大変お世話になりました。特に「今昔マップ」。標高が表示されているのにはずいぶん触発されました。深く感謝します。
 
 飛鳥山西(標高18㍍)→滝野川第三小学校南(17㍍)→染井霊園北(14㍍)→霜降橋(13㍍)→駒込駅北ガード(11㍍)→谷田橋(9㍍)→千駄木・枇杷橋(6㍍)→不忍池(5㍍)。
 
 ちなみに秋葉原駅付近は、標高3㍍。
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ゲーテ記念会館。谷戸。水源?。・・・。谷田川跡をたどる。王子~駒込編。その2。

2013-09-03 19:20:25 | 河川痕跡
 明治通りを渡って、うろうろしながら、低いところ、低いところはと探したが、どうも武蔵野台地・本郷台地から連なる丘陵地帯の上り下り、という感じになってしまった。都電の線路付近が低いことに気づき、方向転換。桜丘高校、線路を渡って小学校付近へ。「西ヶ原4丁目」付近の小道を行ったり、来たり、・・・。暑さに参った!
高校の脇の道。西側は上り坂。東側は、都電の線路まで下り道。そこで、線路を越えていく。ちなみに、都電は徐々に高度を上げていき、標高25㍍(西巣鴨付近)、そこから大塚駅(標高19㍍)までゆるやか下りが続く(地図上ではそうなっているが、実際に乗った印象はどうだか、確信がない。
滝野川第三小。この辺りがこの近辺では標高としては一番低いところ。
このあたりかな? このへんは、東は上野台地(飛鳥山の南)西は、本郷台地(武蔵野台地)とのはざまの地域。
 
 しばらく進んでいくうちに、ひょんなところに出てきた。
「ファウスト」の一節
「ゲーテ記念館前ポケットパーク」。 

「東京ゲーテ記念館」公式サイトより。
Goethe Archive Tokyo
【開催中】
書籍展「ゲーテの格言」
8月28日(水)~12月10日(火)
【情報提供の例】
ゲーテについてのQ&A 『ファウスト』邦訳目録 ファウスト伝説関連図 《ゲーテ人物ファイル》
【活動暦】
 当館 は、ドイツの詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテについての資料や情報を提供する非営利の資料館です。利用者は専門家にかぎりません。基本原典のほか、初訳本、研究書、雑誌、新聞切抜きなど既整理総資料数15万点を収蔵しています。これらの文献は、すべて詳細な文献カードで整理されており、あらゆる角度から検索できるようになっています。なお、ギャラリーでは、「ゲーテ入門」の一助として資料の一部を展示・紹介しています。
【地域関係】
ゲーテの小径とゲーテパークの由来
【由来】
 1949年、ゲーテの生誕200周年を記念して、実業家・粉川 忠(こがわただし 1907~89)が「ゲーテの精神的遺産を継承発展するため」の研究機関・資料館として北区王子に《財団法人 東京ゲーテ協会》を設立。1952年、渋谷区上通りに移転、本格的な活動を始める。1988年、現在地に移転。新館落成。名称を《財団法人 東京ゲーテ記念館》と改める。
【利用案内】
◆開館時間:火曜~土曜、11am~5:30pm (入館は5pmまでに) 閲覧無料
◆休館日:日・月曜、祭日(展示は4~6月、8~12月)
◆資料閲覧(基本的に無料):電話かメールで予約してください
◆ゲーテ文献に関する質問:メールでお願いします(展示期間外も対応)
東京ゲーテ記念館
 114-0024 東京都北区西ヶ原2丁目30番1号
 tel.: 03-3918-0828
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「ゲーテ記念館」。小ぶりながら、どっしりとした印象をもつ、なかなか趣ある建物。

記念館の前の道はその先はゆるやかな下り坂。そのまま西に向かいました。
 すると、交差点に。
ここにも「ゲーテの小径」の案内。
 その角の交番。
「滝野川警察著谷戸駐在所」(赤い○の部分に注目)。大発見! この辺一帯が「「谷戸」と呼ばれた地域(らしい)。なんだかここまで導かれてきたようです。

 谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。
 多摩丘陵、三浦丘陵、狭山丘陵、房総丘陵などの関東の丘陵地が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸、谷津、谷地などと呼ばれている。
 これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
 これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している
 なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。
 大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間、利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
 こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧、燃料、道具等の材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
 反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形である為に日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
 戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。 さらに明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。 また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
 しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。
 生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
 たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。
 関東地方近辺では地域毎に主に下記の呼称が使われている。
宮城県やち茨城県や、やつ
谷田部(やたべ、東谷田川、西谷田川が存在する)千葉県(下総台地・房総丘陵など)、鎌倉付近やつ栃木県や、やつ群馬県かいと、やつ埼玉県(狭山丘陵など)やと(がいと)、やつ神奈川県、東京都(多摩・三浦丘陵)やと(相模野台地では「やつ」とも、武蔵野台地では「や」とも)
市谷、大谷田(おおやだ)
地名例
やち: 大谷地、大谷地村(おおやち)、前谷地(まえやち)、谷地畑(やちはた)
やと: 上谷戸(かさやと)、入谷戸(いりやと)
-や: 瀬谷(せや)
谷津干潟(やつひがた)、谷津駅(やつえき)
-がやつ: 扇ヶ谷(おうぎがやつ)
-がや、がい: 市谷(いちがや)、熊谷(-ケ谷、-ヶ谷、熊井)、越谷(こしがや)、鎌ヶ谷(かまがや)、世田谷、祖師谷、保土谷
 以上、「Wikipedia」を長々と引用しました(赤字は引用者)。自分なりに、この発見はとても気に入りました。「谷田」といういわれもここにあったと思われます。

「今昔マップ」より。戦前のようす。青い○のあたり。東側(駒込寄り)の地域には、「谷戸」という地名が表記されている(赤い○)。
明治14年頃のようす。右上の街道が「本郷通り」。中央が「谷戸」水田という表示。細い流れが田んぼと畑(高台)の間に流れているのが分かる。両側の高台に住まいがある。上の図の青丸辺り。
 残念ながら、明治末・大正期からの急速な宅地化によって、かつての「谷戸」(里山のようなもの)が全く失われ、面影はありません(「三四郎」の頃にはまだまだ残っていたのでしょうが。)
 どこを河川(「谷田川」「谷戸川」・・・)が流れていたのかも全く定かではありません。この交番とその先にあった町会の倉庫に「南谷戸」とあったのが目に付いただけでした。

はるか南の方に延びる「商店街」の道。「染井銀座商店街」、「霜降銀座商店街」に通じる。この道がかつての水路跡?
「西ヶ原みんなの広場(旧東京外語大キャンパス)」東側。このあたりが標高14㍍。公園の西側の住宅地は25㍍。一説では、水源はもっと西側の巣鴨の青果市場付近にあったという。染井霊園そのものは標高24㍍の高台なので、霊園の北側を抜けて東(谷戸方向)に流れていった。それにこの辺りの湧き水が合流して今度は南方向へ流れていった、ということが考えられます。
「北区」HPより。
北区と豊島区の区界。右が北区、左が豊島区。
「染井霊園」の北の隅。この辺りに水源があった?

江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)

 かつての「谷田川」とそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
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音無橋。赤煉瓦酒造工場。谷田川跡をたどる。王子~駒込編。その1。

2013-09-02 18:51:59 | 河川痕跡
 炎天下。王子駅で涼しい電車から降りたときには、もう汗が噴き出してきて。今回は、石神井川から下ってみようと。しかし、飛鳥山公園脇のカーブを上っていくと、石神井川(北区役所)方向へ進む横断歩道が見当たらない。急坂で幅広く、
さらに都電まで通っているのだから仕方がありません。
 本郷通りと明治通りがT字型になっているところの歩道橋を渡っていくことに。石神井川に架かる橋の下は緑も濃く、ほっと一息。それからおもむろに駒込方向に。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治14年ころのようす。中央蛇行している川が「石神井川」。右が飛鳥山。当時も、もちろんすでに流れは王子方向に落ちるように流れていきます。さらに現在は隧道で飛鳥山の下をくぐるようになっています。飛鳥山に沿って北西に進む道は、「本郷通り(岩槻街道)」。中央部分に細い流れが見えますが、これが「谷田川」?
 なお、「音無川」は石神井川から王子の滝(音無橋下流にあった滝で、今はない)付近で分岐し、飛鳥山の東を流れ、日暮里、三ノ輪、思川、さらに山谷堀(日本堤)となり、今戸で隅田川に流れていました。

「飛鳥山公園」の一角。
歩道橋からの「飛鳥山公園」。
「本郷通り」はゆるい上り坂で駒込方向に進みます。一方、「明治通り」の方もゆるい上りで池袋方向に進みます。王子の坂がかなり急なカーブの坂になって王子駅方向に下っていきます。そのせいか、石神井川の南地域で低いところは見当たりません。石神井川の急な谷のような流れが大雨の時にあふれてしまう、とは想像もできません。しかし、現実にはかつてはよく氾濫したようです。

※音無橋
 3つのアーチ型の橋脚と欄干の優雅な曲線美が印象的な音無橋は、昭和5年の架橋以来、交通の要として、また、王子のランドマークとして多くの区民に親しまれています。
 この橋から川の下流方向には、水車や東屋、行灯などを配する音無親水公園が見えます。江戸風情を感じさせるその景観は、訪れる人々の心を和ませます。
 この公園は、平成元年「日本の都市公園100選」に、同2年「手づくり郷土賞」に選ばれました。
 春には、桜の花見客で、また、夏には水遊びの子どもたちでたいへんなにぎわいを見せる場所です。
(「www.city.kita.tokyo.jp/misc/100select/01/01_03.htm」より)

なかなか重厚な趣のあるアーチ式の橋。その親柱。
この橋の下が「音無親水公園」。

※音無親水公園 
 音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。
 しかしながら、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となり、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和30年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。この改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園がでいました。
 音無親水公園は、全国の都市公園の模範たる公園として“日本の都市公園100選”に選ばれています。都内では、国営昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園が選ばれており、園内には記念碑があります。
(「北区」HPより)

橋の階段をけっこう降りていかないと公園(流れ)にたどりつけない。
隧道(トンネル)の上部。「石神井川飛鳥山隧道」とあります。
その上から眺めると、遙か下を激しい勢いで一気に隧道内に入っていきます。
ところがほんの少し上流に行くと、澄んではいますが、見た目にはほとんど流れていません。おそらく隧道をつくる前は川幅と増水量がアンバランスだった感じです。洪水を起こしやすい川の構造に。
王子方向を望む。川は遙か目の下です。

 石神井川に飛鳥山の下を通る隧道が出来る前は、今の「音無親水公園」から王子方向へ流れていきました。洪水などを防ぐ目的で、江戸時代初期に流路の変更工事を行ったという説もありますが、もっとはるか昔、太古の頃から浸食作用(東京湾が上野台地まで浸食していた)によって、流路が変わったようです。
 それ以前は飛鳥山の縁に沿って南下し、上野台地と本郷台地の間を流れていた。「谷田川」は、王子方向に流れていなかった頃の「旧石神井川」であった、という見方があります。(以前、紹介しました。)
 それが今の石神井川が王子方向に流れていった時に断ち切れてしまい、ほとんど細い流れに。そこに染井霊園の北側付近にあった湧水が流れ込んで、南の方に流れていた、というふうに想像できます。

「takata.cafe.coocan.jp/hitkt/ccinfo/index92-2.html」さんのHPより。‎

 6000年から7000年前の後氷期有楽町海進最盛期には、石神井川は谷田川に流れ王子の飛鳥山と王子権現の間は切れていなかった。 この部分は海進と海退の繰り返しで侵食し、後に石神井川は荒川に流れた。それによって谷田川への流れが途絶えた。

 とありました。「谷田川」が石神井川から分かれたときに、いつしか当時の地勢、「谷」「田」を持つ川として命名されたのではないか。
 東西二つの台地にはさまれた谷間の地で、畑地、水田などの農業を行い、人々の生活が成り立っていくためには、それなりの河川の存在がないと実現できません。石神井川からの流れが途絶えても、農業が明治初期まで(その後は宅地化されていく)営まれてきたことは重要な視点です。石神井川の南から染井までの間にも畑が目立つことは何らかの水路(人工のものも含めて)の存在があったはずです。 
 しかし、実際歩いてみて、石神井川から谷間への水路は確認できませんでした。ようやく「染井墓地」北、「東京外語大」跡、豊島区と北区の区界を越えて南に入った辺りから、「谷田川」らしい水路跡がたどれます。

 さて、石神井川から離れて出発。これだけの峡谷ですから、上り道ばかり。「今昔マップ」による標高ではこの辺りが低いところとあれこれ狙いをつけてもまったく分からず。そのうち、レンガの舗道へ。
「音無のレンガ道」。
振り返ってみたところ。ゆるやかな上り道。
「赤煉瓦酒造工場」。
建物配置図。
趣のある煉瓦造り。
外にあった大型の甕。実際にお酒をつくっているそうです。


東京事務所酒造工場(赤レンガ酒造工場)の一般公開
 平成16年10月に、東京都北区滝野川にある赤レンガ酒造工場の一般公開を行った。
 また、赤レンガ酒造工場は、酒造工場として高い評価を得ているだけでなく、築後100年を経過した、 歴史的・文化財的建築物である。このことを国民に広く認知してもらうために、夜間のライトアップ設備を設置した。
より。
 研究所の研究成果やお酒についての技術的な情報等を分かりやすく解説した広報誌「エヌリブ」を年間2回発行しているようです。
創刊号から23号まで
 酵母、麹菌、原料、醸造法、酒類総合研究所きのうきょうあす、清酒の研究、お酒の安全性とおいしさ、などを特集しています。(PDFファイルで閲覧できます。)

 毎年、桜の季節にも一般公開しているそうで、そのときには利き酒の会もあるとか。研究を中心とした「独立行政法人」。広島に本部が置かれているらしい。歴史的にはなかなかのもの。知りませんでした。公開日にぜひ来てみたい。

 しかし、100年も前からこの場所にあった、ということはこのあたりには谷田川の流れはなかった、ということでもあるのか? お酒の製造にはたくさんの水が必要でもある。地下水を利用していたということに?
 本郷通り沿いにある「国立印刷局滝野川工場」(当初は、飛鳥山の東側、旧「王子製紙」工場のそばにあった。)製紙工場を含めて大量の水を必要としたのではないか。このへんの事情は不勉強のためさだかではありません。いずれにしても、水と大いに関わりのある製紙工場、酒造工場、さらに農事試験場などが明治時代からこの近辺にあったということは、「石神井川」の存在はもちろん、それだけでなく中小河川(荒川・隅田川を含む)の存在が大きかったと思われます。

※「国立印刷局滝野川工場」
 明治4(1871)年7月27日、大蔵省紙幣司として創設されました(同年8月に紙幣寮と改称)。創設当初の業務は紙幣の発行、交換、国立銀行(民間銀行)の認可・育成等紙幣政策全般でした。
 当時、国内では印刷技術が未熟であったことから、明治政府は、近代的な紙幣の製造をドイツやアメリカに依頼しました。しかし、紙幣は国内で製造すべきであるとの声が強まったため、紙幣寮において紙幣国産化の取組が行われることとなり、併せて証券類、郵便切手(明治5(1872)年1月に製造開始)の製造、活版印刷等の印刷・製紙業務を行うこととなりました。
 紙幣寮は、研究を重ね、明治10(1877)年10月15日に国産第1号紙幣(国立銀行紙幣(新券)1円)の製造を開始し、名実共に我が国近代印刷・製紙のパイオニアとしての第一歩を踏み出しました。
 そして、明治31(1898)年11月1日に、官報(明治16(1883)年7月2日創刊)を発行していた内閣官報局と統合し、官報も含めた事業官庁となりました。
 その後、幾多の変遷を経て、平成15(2003年)年4月独立行政法人国立印刷局となり、現在に至っています。
(印刷局のHPより。)

明治通り。左奥が飛鳥山。道はその方向へ少し下ってまた飛鳥山の方に上っていきます。池袋側は上り坂。
中央の円筒形あたりが一番低いところ。
これまでの他の河川跡探索の経験では、その辺りに河川が流れていたという感じですが・・・。現在の石神井川からは上って来る位置なので何とも言えない。但し、石神井川から明治通りにぶつかる道は不自然なほど(道路としては)曲がりくねった流水路のような道がこの辺りまで続いています。
 「今昔マップ」に表示された標高は、石神井川・音無橋付近:16㍍、赤煉瓦酒造工場の東(曲がりくねった道)a地点:18㍍、明治通りの上記の地点b地点:18㍍、飛鳥山下の本郷通りd地点:19㍍、明治通りの西(池袋方向)c地点:19㍍。
 明治通りにある横断歩道を渡っていき、都電の線路を挟んだ東側「滝野川第三小」の南地点e地点:17㍍。ということになっています。また、さらに下って旧東京外語大(現在、「西ヶ原みんなの広場」)の東f地点:14㍍。ちなみに、王子駅の南東の標高は、4㍍。石神井川が一気に王子方向に流れ落ちていくことが分かります。
「今昔マップ」1980年代。飛鳥山の標高は20㍍。意外に高く感じるのは、山の東側(崖下・JR線)が標高3~4㍍なので、高く見えるのだ。
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田端銀座。中里用水。やっと駒込駅へ。谷田川跡をたどる。その3。

2013-08-31 12:33:37 | 河川痕跡
 駒込駅は、豊島区。その東側は「北区」になります。区界を追ううちに谷田川通りから西の方へ。そのままたどると、商店街になりました。「田端銀座」商店街。
(「田端銀座商店街振興組合・HP編集委員会」より引用)谷田川通りとクロスして伸びています。下町的雰囲気のお店。さびれがちな商店街が多くなった中で、まだ元気がある方ですか。
ここから北に続いています。この通りは、右が「北区」、左が「文京区」の区界になっています。文京区はこのあたりまで。
「谷田川」通りから先のようす。賑やかそうでした。
 この先で、文京区本駒込、北区中里、豊島区駒込と三つの住居表示が混ざってきます。
右の家は、「北区田端3」ですが裏手は「豊島区駒込1」、左手は「文京区本駒込5」という具合。
回り込んだところ。「豊島区駒込1」。
この通りが三つの区の区界。
駒込駅方向に進む道。
「中里用水架道橋」。駒込駅の北東にある「ガード」の名。
この道がかつての「谷田川」の流れだった。
南東方向を望む。
ガードをくぐったところから。標高からもこの場所がこの辺では一番低い。ガードをくぐるために掘り下げたということではなさそう。
北西方向を望む。この先の「本郷通り」との交差点が、「霜降橋」。
線路沿い(田端駅方向)の道はゆるやかに上っている。
田端駅よりに進んだところから、駒込駅方向を望む。谷田川(中里用水)が底にあたり、駅方向もゆるやかなのぼりになっている。やっとここまで来ました。


 今回のコース。右下が「不忍池」方向。中央が低地の部分。蛇行するように北西方向に向かっています。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
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