百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

南洋編 6 ~スラバヤ勤務~

2010年06月25日 | 人生航海
私達停泊場の残留部隊は、クラガンに数日間滞在した。

敵側が残したいった乗用車が、戦利品として徴発されていた。

自動車は、フォードの41年型で、その数日間の滞在中に、停泊場の運転士から車の運転を教わることになった。

特に、私は運転に興味があって、覚えるのも案外早く、一人で運転ができるようになっていた。

残務作業もようやく総てが片付いて、停泊場本隊のあとを追い、スラバヤに向けて出発する事になった。

その際、私に「あの車を運転する自信があれば乗って行くか?」と訊かれて、運転士からも「大丈夫だろう」とお墨付きを貰ったのである。

早速、その自動車に積めるだけの食品を積み込んで、クラガンを離れ、スラバヤに向かったのである。

生まれて初めて、自動車を運転して走ることになり、内心喜んだが、少し緊張しながら走ることになった。

ジャワ島は、今までオランダの植民地だけあって、クラガンからスラバヤまで、当時の日本の道路事情と違い、どこまでも完全に舗装されてあった。

私の未熟な運転でも心配無く、車を走らせる事が出来たのである。

以後は、私は、自動車運転に夢中になったのである。

そして、スラバヤ港の停泊場本隊の司令部に到着後、全員で残務報告をしたのである。

とりあえず休養することになったが、翌日には、山賀少尉という将校から正式な辞令が出ると聞かされた。

日本軍は、上陸後速やかに、インドネシアの占有統治、スラバヤ港の管理統括の組織作りに着手していたのである。

翌日、私の担当の仕事は、港内の信号係と言い渡された。

職場は、武市軍曹の外に四人と私は、停泊場本部の中央埠頭突端にある信号所への勤務と決まっていたのである。