皆からの同情と厚意もあって、少しは気持ちも落ち着いていた。
それに機関長の提案で、その日から皆が、交代で炊事をする事になり、全員が賛成してくれた。
私の職名も「賄係り」から「機関員」に変更してくれた。
ただ、普通は、内地ならば二年ぐらいで賄係りは交代することになるが、外地故に新しい交代を雇う事が出来なかった。
その為、賄係りは交代できなかったが、その後は人並みの船員として、新たに仕事に励む気になれると思うと幾分か気持ちも落ち着いた。
ところが、思いがけなく頼みの綱として慕っていた機関長が、突然内地に帰る事になったのである。
それを聞き、急なことで驚いて、私は機関長に聞いてみたが、詳しい事は何も言わず、こんな事を言ってくれた。
「親はなくても、そんなに悲しむな。俺も小さい頃、両親に先立たれ幼くして別れたが、いつまでもあると思うな・・親と金と言うではないか・・元気を出して頑張れば、また好いことがあるよ」と言ってくれた。
あの時の言葉は、今でも忘れずによく憶えている。
別れ際、「お前には、いろんな物を残して置くから」と、ポータブル蓄音機とレコード、衣類なども、私に着れる物は全部残してくれたのである。
それよりも、別れる寂しさが辛く、その後の事を想い、悲しさで一杯だった。
最後に「おまえは、俺がいなくても、もう大丈夫だ。身体に気をつけて、元気で過ごせ」と言ってくれた。
あの別れの言葉が、本当の今生の別れになるとは、その時には、想像も出来なかった。
それに機関長の提案で、その日から皆が、交代で炊事をする事になり、全員が賛成してくれた。
私の職名も「賄係り」から「機関員」に変更してくれた。
ただ、普通は、内地ならば二年ぐらいで賄係りは交代することになるが、外地故に新しい交代を雇う事が出来なかった。
その為、賄係りは交代できなかったが、その後は人並みの船員として、新たに仕事に励む気になれると思うと幾分か気持ちも落ち着いた。
ところが、思いがけなく頼みの綱として慕っていた機関長が、突然内地に帰る事になったのである。
それを聞き、急なことで驚いて、私は機関長に聞いてみたが、詳しい事は何も言わず、こんな事を言ってくれた。
「親はなくても、そんなに悲しむな。俺も小さい頃、両親に先立たれ幼くして別れたが、いつまでもあると思うな・・親と金と言うではないか・・元気を出して頑張れば、また好いことがあるよ」と言ってくれた。
あの時の言葉は、今でも忘れずによく憶えている。
別れ際、「お前には、いろんな物を残して置くから」と、ポータブル蓄音機とレコード、衣類なども、私に着れる物は全部残してくれたのである。
それよりも、別れる寂しさが辛く、その後の事を想い、悲しさで一杯だった。
最後に「おまえは、俺がいなくても、もう大丈夫だ。身体に気をつけて、元気で過ごせ」と言ってくれた。
あの別れの言葉が、本当の今生の別れになるとは、その時には、想像も出来なかった。