百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

おかげさま参り

2011年09月29日 | 易行難行修行
おかげさま参りの百島から無事に帰福できました。

おかげさまで、身体が動けます。

我が家に帰ると、パソコンが、ダウンしていました。

これまた、何とか復旧させました。

さて、今から三重県まで。

26年ぶりの伊勢詣に出かけて参ります。

明後日から、10月。

10月1日には、なでしこリーグの神戸INACの試合を観戦予定。

これも、あれも・・「おかげさま参り」だと思えば、

おかげさまで、福笑いの感謝となります。

ニュートリノ。

2011年09月26日 | 易行難行修行
百島に滞在中の彼岸の中日。

亡き父が使っていた部屋のソファに寝転んでテレビを観ていた。



BSジャパンの「フィレンツェ・ラビリンス」という番組・・日本の女性ライターが、自分の前世を追いかけてイタリアのフィレンツェまで行き、取材を行うというドラマ仕立てである。

イタリアには、トリノという街がある。

そのトリノではないが・・ちょうど、その日、素粒子ニュートリノが、「光より速い」というイタリアとスイスからの大ニュース。

「虫が知らせる」とか「デジャブ」とか「テレパシー」とか「前世」とかの現象は、光より速いのではないか?と、考えていた。

だから、このニュースは、ある意味、正しいような気がする。

ただし、我々が生きている地球上の空間、時間は、光よりも速いものが存在すれば、根底から崩壊する。

それこそ、太陽、地球、月の距離が消えて、魚が空を飛び、ドラエもんのポケットのようなSFの世界で、時空を超えて、未来にも過去にも宇宙の彼方まで・・どこにも行けるようなものなのである。

素粒子ニュートリノが、光よりも速いのは、条件があるような気がする。

ニュートリノが、あらゆる物質を通り抜けることが出来るが、光は、通り抜けできないのでは?!

だから、障害物がある状況下の中では、光が遅くなるのではないか?

物質は、観念や想像力を超えることはできない。

さて、昨日の朝、百島を離れる時、急に同級生のやっちゃんに電話をしたくなった。



百島の福田桟橋から、フェリーを待つ間・・鎌倉に暮らすやっちゃんと話す。

このブログ・・だんだん内容が、難しくなっていると言っていた。

もっと簡単明瞭がいいのかなぁ・・と考える。

これこそ、虫が知らせるニュースである。

百島 曼珠沙華

2011年09月25日 | 易行難行修行
百島へ、お墓参り。

それから、草ぼうぼうと茂っている我が家の裏畑の草むしりをしてきました。

この頃、イノシシが、よく現れるようです。

草取り前の状況です。



草取り後の状況です。



草むしりをしていると、曼珠沙華(彼岸花)が、咲いているのを見つけました。



この花の表情・・毒がありそう。

イノシシも近づかないような気がして、そのまま残して置きました。

草むしりのあと、

我が家の水神さまが、暮らす井戸水で、手洗いをして、水をごくりと飲みました。



ひと仕事・・今、足腰の筋肉が痛いです。

いい表情になれたような気がします。感謝。

山ゆき 島ゆき

2011年09月22日 | 易行難行修行
知り合いに、登山にはまっているご夫婦がいる。

最初に尾瀬ヶ原に行った事がきっかけだったという。

60歳くらいの人だが、清掃業を子供に任せて、山のブログを持っていて、情報交換しては自然探求に動くのだという。
 
母親の介護に疲れて、年を取って動けなくなるまえに、いろんな景色を見ておこうと思ったそうで、足が病院から逃げるように山に向かったとの事。

話しを聞くと、北海道から九州まで随分いっているようだが、白山での降るような星空は感動したとの事。

動かなくなった母親を介護してみて、自らが動き続けるためのエネルギーをもらうために、自然の中に踏み込んでいるようである。
 
最近、山で雪崩にあったりして遭難する事故もあとをたたないが、これらの人たちも、エネルギーを求めての山行きであろうが、危険なエネルギーもあることに注意しなければならない。
 
山あれば谷あり、安全の隣に危険ありが、この世の掟かも知れない。

さて、明日から三連休。

台風と小生の腰痛で、百島へ行けるかどうか思案していましたが・・摩訶不思議。

小生の腰痛も、だいぶよくなりました。

じっくり、腰の用心。

ゆっくり、帰省します。

お彼岸のお墓参り。合掌。

百島 旗色掌

2011年09月22日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百島 海老呑地区の沖合いに小さな岩礁がある。

その名を「白石」または「旗石」という。

これは、中学生の時に、石山(軍殿山)に登った時に、福田地区の同級生から聞いた伝承話である。

むかし、おおむかし、十文字山の方から、大きな山の神・・龍のような蛇が、山を背負って、海の中を泳いでいたとか・・。

その時、山の神が、背負っていたのが、「白石」もしくは「旗石」だという。

小生は、何かを秘かに祀った祠に映る。

そして、何故・・「白」と「旗」が混在しているのか?

・・謎解きである。

嘉吉の乱後・・百島に赤松一族が逃れてきた。

それまでの赤松家の居城は、播州播磨の「白旗城」であった。

赤松一族が祀っていたのは「白旗八幡宮」「白旗観音」である。

つまりは、赤松一族は、赤(桃)旗の平氏一門ではなく、八幡宮に連なる白旗の清和源氏一門の流れを汲むのである。

百島の本村地区の八幡神社、福田地区のある貴船神社。

一方、平家一門は、瀬戸内海を制覇しており、百島の泊地区には厳島明神がある。

平家一門の氏神となる厳島神社は、毛利家一族まで連なるのである。

百島には、旗手(はたて)姓がある。

だが、泊地区には、村上姓も旗手姓もほとんどない。

かつて、泊堂の道ができるまでは、百島では、泊と福田・本村の文化風習が、少し異なるものがあったという。

こんな小さな百島の社会(世界)でも、源平の戦以来の無意識にテリトリーの構築区分がされていたのではないだろうか?

小生の個人的な憶測見解であるが・・

旗手のおじさんへ。

旗手姓のルーツは、読み書きの出来る神官か僧侶の身分ではなかったのかと考えるのです。

百島を安住の地となるべき(当時のネゴシエイターとしての)役割のような時代の旗手(きしゅ)として、旗手(はたて)姓を名乗ったのかもしれません。

尚、百島にある天理教、黒住教も、旗手一族の方によって継承されています。

さらに、平家の桃色赤旗に遠慮しながらも、「桃」島から「白」に似た「百」島を名付けたのは、旗手一族のご先祖の方かもしれませんね。

草々。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~

白地に、赤く・・日の丸染めて・・日本の国旗の成り立ちである。


金の斧

2011年09月19日 | 易行難行修行
若い日に覚えたことや、習ったことは、なかなか色あせない。

まるで宝物のようである。

おそらくこれは、神からのプレゼントに違いない。

神から受け取ったものは、終生大切にしなければいけない。

「金の斧」のイソップ寓話のように、神はウソをつくものには、運命を開かない。

感謝をするものには、褒美を。

愚痴をいうものには、逆流を。

褒美と逆流を・・与えるのが神の仕事のようである。

最近、腰痛に苦しめられている。

腰痛の間は、心臓への圧迫感が消えて、持病を忘れているが、身体の動きが鈍い。

肉体は、生きていく乗り物であり、道具であるというのを痛感する。

職業に貴賎なしの意味が、ちがって解釈出来るようになった。

要するに、ロットの高い商売も、百円商売も、関係ない。

縁のある商売に、いかに熱心になるかだけだと思う。

折角、縁あっての仕事の火を燃やし、大火事にするか、クスぼってしまうかの違いのようである。

鮪(まぐろ)も、シラスも、大きさは違うが、儲けはどっちが大きいか分からない。

仕事を追及すれば、お金がついてくる。

だが、痛みも伴う。

金の斧が、宝物ではない。

「金の斧」の教訓が、宝物なのである。

百島パラダイス

2011年09月18日 | 百島極楽遊園地

百島の泊地区に「極楽遊園地ロケの地」の記念碑がある。

ここから眺める展望は、幼い子供の頃から大好きな風景である。



世界に誇るエーゲ海であろうが、英国の湖水地方だろうが・・それらと並ぶぐらいの瀬戸内海の絶景である。

小生、随分昔から、この場所を・・各メディアが主催する日本の百選、広島百選、尾道百選、夕日百選、風景百選応募等々、さまざまな百選に推薦した。

お陰さまで、なにかの縁があったのであろう。

「小さな旅」にも取り上げられ、ロケ地に採用されたり、願いも叶ったのであるが・・

百島が、いつかホントに、日本の何かの百選に名を連ねればいいと思う。

・・ところで、今、腰痛に苦しんでいる。

天井を眺めながら、思い出すには、中学生の頃。

中学生になった頃から、遊ぶ範囲が広くなった。

泊から、本村、福田まで遠征してゆくようになった。

ある土曜日の放課後、福田の同級生の英文、敏信、英雄、義人に案内して貰って、一度だけ石山(軍殿山)に上ったことがある。

山頂で、「これが水晶だ」と、教えてもらったり・・皆で、石山の頂に腰掛けて、海を眺めながら、福田に伝わる昔話を聞かせてくれた楽しい思い出がある。

スタンド・バイ・ミーよりも、

ニュー・シネマ・パラダイスよりも、

面白く、切なく・・全国に散らばった同級生達。

そんな百島の思い出があることを誇りに思う。


百島 名水の由

2011年09月15日 | 易行難行修行
子供の頃、百島の我が家の井戸水を飲んでいたが、美味しかった。

飲めば、元気が出た。

昨年、心臓の病を患って以来、ひんぱんに北陸の小京都と呼ばれる大野市まで出かけるようになった。

福井県大野市・・日本名水百選のひとつ、名水の里と呼ばれるぐらい「水が美味しい」のである。

一昨日も・・名水と呼ばれる湧き水を飲みに行った。



この大野という町は、ユニークな町おこしを行っているということでも知られている。

江戸時代末に大野藩は、大野屋という商号を使い、今でいう全国チェーン店舗を展開していたのである。

平成になって、大野市は、平成大野屋として、同じ名字を持つ全国の大野さんに呼びかけたのである。

大野市への招待、そして、大野市の宣伝協力、助言、特産物のPR等々・・平成大野屋の支店長として、全国の大野さんとのネットワーク作りを構築しているのである。

一昨日、地元のラジオで、広島市内に暮らす大野さんが電話インタビューを受けて、「大野には、大学誘致がいいのではないでしょうか・・。それから、宮島や平和公園もよいですが、是非、江田島にもおいでください」と逆宣伝されていた。

こういう手法は、百島でも使えると考えます。

ところで・・例えば、船に積み込む「水」は、何故腐らないのか?

水というものは、揺れ動かしていると腐らないようである。

心も・・同じかな?


百島 十文字山

2011年09月14日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
十文字山の頂上には、石がある。

その頂上の石のどこかに仏像が置かれていたという事実がある。

誰が、仏像を隠し置いたのか?

十文字山という地名は、何か意味するのであろうか?

おそらく、夏至の日に、東西南北の方向で、何かを探る手立てがあるような気もする。

十文字山にあった仏像を調べた結果・・近江(滋賀県)に関連すると聞いた?!

百島の「百」は、朝鮮半島の百済(くだら)をイメージする。

近江(滋賀県)には、百済寺が存在する。

神功皇后が、邪馬台国の卑弥呼であるという説もある。

百島の八幡神社の祭神は、神功皇后とその息子の応神天皇である。

・・はてさて、備後風土記に登場する蘇民将来という伝説上の庶民を考える。

備後の国に生まれた蘇民将来と桃源郷を探したスサノオウ(出雲の神、天照大神の弟)との出会い・・。

全国各地で「蘇民将来子孫の門」または「笑門」の注連飾りを飾る風習が残る。

とりわけ、伊勢神宮のある伊勢や近江地方では、一年中、これらの注連飾りを飾る地域もある。

蘇民将来が、桃島に生まれ育ったことを前提にすれば、「笑う門には福が来る」の原点は、百島にある。

茅の輪くぐりは、厄病や罪祓いのために左回り、右回り、左回りと「∞」の形でまわる・・十文字のイメージと合致するのである。

今月下旬の秋分の頃に百島へ。

今月末には、伊勢神宮へ参る予定です。

観光気分転換です。

百島 女男石

2011年09月13日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百島の軍殿山の北側の麓に、女男石(みょうといし)という岩があります。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、瀬戸内海の島々からも、多くの男達が戦さに出兵しました。

桃島から出陣した男の一人が、加藤清正の軍に加わり、その清正軍の一部が、蔚山(うるさん)という土地に残りました。

そして、その男は、運悪く、そのまま蔚山で亡くなったとのこと。

ほかの桃島の男たちは運良く帰国しましたが、その男だけが帰らないので、妻は深く悲しみました。

そして、その妻は、陰暦七月十三日の夜半、夫を追いかけて、その岩から海に身を投げたようです。

それ以後、その岩を、女男石と呼ぶようになったとのこと。

また、毎年七月十三日の夜になると、波間の音が、女のすすり泣く声に変わるようです。

ところで、百島の最南端の泊地区には、だんご岩があります。

とてもシンプルな名勝地で、昭和の時代までは、ほんとうに団子が積み重なった形をしていました。

そこから、弘法大師 空海が、百島に上陸したという伝説があります。

そうなると、だんご岩のほうが、女男石よりも歴史的に古くなります。

百島の南北にある・・不思議なパワーストーンの伝説話でした。

因みに、百島が、桃島だった頃・・桃島二島(磯島と五十島)、浦崎二島,戸崎一島、田島三島、横島、加島、向島数島、さらに礁も多く、あの界隈の島々を総称して百島と呼ばれていたようで、その真ん中にあった桃島が、そのまま文字代表して百島とも呼ぶようになったかもしれません。(沼隈郡誌を参照再考しました。)

さらに、沼隈郡誌を読んでいると、大変興味深いことを発見できます。

近隣の地域や他島の生活、人柄等々を・・怠け者などとストレートに批判揶揄した紹介を記載されており、現在では人権侵害、侮辱罪で裁判沙汰になるかのような過激な表現もあります。

しかし、百島に関しては、非常に高く評価されています。

百島の人々に関しても、大変人柄もよく、勤勉であることを紹介しているのです。

今、考えるのは、日本全国に散らばる「百島」という苗字(姓)を持つ方々のタイアップが面白いかもしれません。

百島 軍殿山

2011年09月13日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百島には、十文字山と並び較べられる軍殿(いくさんど)という石山がある。

誰が、名付けたのやら、不思議な名前である。

むかし、昔、大昔・・中秋の満月の日。

神功皇后(じんぐうこうごう)が、朝鮮半島(当時は、新羅、高句麗、百済の群雄割拠時代)へ出征する際、瀬戸内海の桃島にも立ち寄ったという伝説。

神功皇后は、その桃島の山の麓にある大きな岩を見るやいなや、天の神に祈ったそうである。

「この戦いに勝たせてくれるならば、この岩を切らせたまえ」と竹刀を打ちおろした。

そして、その岩は、見事に真っ二つに亀裂が出来たそうである。

今日まで、この岩の亀裂の切れ目には、苔がつかないそうである。

そして、千年以上の歳月が流れて、安土桃山時代になる。

再度、豊臣秀吉が、朝鮮出兵を行った。

秀吉は、小早川家家臣の百島村上一党から、この神功皇后伝説を聞き及んだという。

そして、その縁起を担ぎ、この山に戦さの神・・「軍殿さま」を旧暦六月一日に祀ったとのこと。

百島では、今尚、六月一日は、軍殿さまの祭礼になっているという。

ところで、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の百島村上の水師大将は、村上高吉・・。

桃山時代の建築様式を備える百島 西林寺に眠る、その戒名は「安養院殿春紅桃林大居士」。

山なのに、「桜島」もあるが。

桃山時代・・かつての百島は、春紅桃林の風情を持つ「桃島」だったのかもしれない。

今宵、十五夜の満月が、軍殿山の上に浮かんでいる。

百島観音

2011年09月06日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
荒海や 九十才の 人柱

嘉吉の乱。
赤松七人衆 旗手一族の末裔が亡くなった。
嵐に向かってドンキホーテのごとくに挑んだのか。
荒海を鎮め、オフェリアのように浜辺まで漂ったのか。
末裔は、はるか昔の獅子奮迅の夢を見たか。

(空木宝剣)

~~~~~~~~~~~~~~~~

旗正丸か、百島丸か、野木丸だったか?

ふと、作家の志茂田景樹さんも乗船して、感涙していたのを思い出した。

旗正丸・・。

何度かお世話になりました。

最後に乗船させて頂いたのは、しまなみ海道が全通した記念日で、常石のベラビスタ境ガ浜のホテルには、皇太子ご夫妻が宿泊。

山陽高速道から、とんでもない大渋滞に巻き込まれて、百島への最終便に間に合わなかった。

他の島は、しまなみ海道(橋)でつながり、交通便がよくなったのに・・この不便さ。

翌日か翌々日には、Uターンせねばならず、どうしても当日に百島に帰省したかった。

夜遅く22時半頃、浦崎の道越の桟橋まで、旗正丸に迎えにきて頂いたのを思い出す。

まだ、3歳か4歳だった息子と、船首に座って、ポン、ポン、ポンポン・・と船の音を聴きながら・・親子で、声を出して真似る。

百島へ帰る不便さの苛立ちが・・雲散霧消する。

楽しそうに、はしゃぐ息子と、そして、ポンポン船が、一掃してくれたのである。

そして、笑いながら、帰省できた・・楽しい思い出に変わった。

あの日の夜、月明りに浮かぶ百島を眺めながら、あのポンポンという響きがこだました光景を、私と息子は、今でも鮮明に憶えている。

百島の思い出が、またひとつ、遠くになったような気がする。

だが、輝いている。

感謝です。

旗手正守さんの御冥福を深くお祈りいたします。

合掌。

お~ と あ~

2011年09月01日 | 易行難行修行
昔は、そこかしこに喫茶店があり、コーヒープラス憩いの場所でもあった。

忙しい仕事中毒者たちといっても、ゆっくりする心のゆとり、サボるゆとりが、ひと昔にはあったような気がする。

今は、サボるというゆとりが、心から消えると同時に、憩いも、消えたのではないかと思う。

憩いを取り戻すには、「お~」という感嘆詞が良いと思う。

「お~」のあとには、お~素晴らしい!やら、Oh! ビューティフルやら、プラス用語が導かれる。

「あ~」はその逆で、「あ~」となると意気消沈である。

今から「お~」で行こう。

エイエイ、「お~」である。

今日から、も「ぉ~」九月。

まだ「ぁ~」九月である。