百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

夏休み。

2022年06月29日 | 萬伝。
  • 今は、参議院選挙、真っ只中。

人生は、何度も失敗しても、その度に再びチャレンジできる社会にしたい・・と言ってたのは、奈良の唐招提寺の前で叫んでいた若き国会議員馬渕澄夫さん(現、立憲民主党国会対策委員長)でした。

何度も挑戦できる社会・・そう、大きな失敗しても、福井県は何度も挑戦できる社会なのです。

一方、自民党の国会対策委員長の高木毅さん(66歳)。

高木さんは、福井県選出の国会議員で、若い頃に女性宅の下着を盗んだという噂で、パンツ大臣と揶揄されても、ちゃんと国会議員として活躍されているのです。

福井県民の選択なのです。

昨日、同い歳の元国会議員の笹木竜三さん(65歳)が亡くなったという訃報。

僕が福井で暮らし始めた頃、当時の笹木さんは、福井県選出の未来の首相になれると謂われた若き期待された逸材でした。

松下政経塾の1期生、初代OB会長、何度か話す機会がありましたが、大変優秀な方でした。

地元のホテルでの、福井県の政界経済界のバックアップのもと、彼の盛大な結婚式が挙げられたのも思い出します。

ただ与党と野党の推薦を受けるのに一度軸が揺れ動いたのが要因、国会議員として出馬辞退、その後、5年前の福井市長選に立候補、落選して政界引退。

福井の為、日本の為、もっと活躍して欲しかった同い歳の福井人でした。

ただ残念です。合掌

さて、小学生の時の宿題「夏休みの友」の日記に毎日のように最高温度36℃と書いていたような記憶があります。

勿論、当時はエアコンなんて家にも学校にも無かった。

物心ついた3歳か4歳の頃かなぁ・・蚊帳を吊った中で祖母が団扇で扇いでくれながら寝ていると、祖母の手が止まった時の暑くて暑くて、目が覚めた蚊帳の中。

幼な心に何という灼熱世界に生きているんだという生存感覚を肌で記憶しています。

鍛えられた子供の頃、肌がボロボロに剥けて真っ黒、中学生にもなると炎天下の中を走らされて、水を飲むなと言われました。

でも熱中症になった人は、当時いなかったという摩訶不思議。

そう言えば、昭和の時代、タンクトップ、ランニング姿の若者が多く闊歩していたけれど、令和の今、あまり見かけません。

多分、平成の時代に温暖化、夏の暑さは危険というイメージから変化が起こったのかもしれません。

昨日は、何十年ぶりかにパチンコ店巡り。

平日にもかかわらず、老若男女、大勢の方がパチンコ三昧の大賑わいでした。

昔のパチンコ台と現在のパチンコ台は大違い、ギャンブルとして考えると浦島太郎の気分でした。

とはいえ、パチンコ店内は換気もよくコロナ感染とは無縁、やや騒音ありですが、とても快適な時間を過ごしました❗・・涼みに行くのは、良いかも。

高校時代に聴いた吉田拓郎さんの🎵夏休み。

我々世代にとっては、ふと少年時代を振り返る懐かしい歌です。

ああ、同級生が鬼籍に入る人生の曲がり角の譜面帳。


命の処方箋。

2022年06月26日 | 萬伝。

昔、百島で採れて食べた松茸やら蕎麦・・今は全滅状態だろうなぁ。

もし休墾田畑を開墾すれば、何の種類を植える等々、考えていました。

最近、知り合った山奥で育ったという70歳代の男性の方との会話。

彼は既に年金生活者ながらもパートとして施設の夜勤警備をしています。

日常に使う移動は、もっぱら自転車。

日直明けのルーティンが面白い。

業務終了後、自転車に飛び乗り郊外にある自宅まで20分かけて猛スピードで帰宅。

着替えて、また自転車に飛び乗り、いつものスーパーに立ち寄るために約20分自転車漕ぎ。

ギャンブル好きで、そこから競輪場もしくはパチンコ店まで、また約20分の自転車漕ぎ。

真夏でも真冬でも、彼の余生の日常風景です。

毎日2時間ぐらい自転車を漕いで移動しているようで、とても70歳代の老年期とは思えない若々しい身体能力があります。

趣味は、ギャンブル、山菜取り、獣狩りだとの事。

山育ちなので、今の時期は蛇が大好物だとの事。

蛇を見つけたら、そのまま口から裂いて、皮を剥ぎ取り、そのまま刺身のように頬張るのが美味いとの事、蛇は滋養強壮そのものだとの事。

ただ、熊の肉だけは刺身はダメ、必ず火を入れて殺菌して食べないと病気になるとの事。

山の民ならではのオドオドロシイ体験談だけど、これらが笑い話、自然への感謝への想いに繋がるのが凄い。

海の民ならば、生の鰻やら生魚を食べるのも同じ感覚なのかな?

今日の新聞記事の訃報で、同い歳のコラムニスト小田嶋隆さん(65歳)が病死したとの事。

彼のコラムは反権力側と言うものの東京からのコンクリート視点で、地方という海の匂い、土の匂い、その嗅覚はどうかなと思いながらも、同い歳として自分には無い物を学ぶ事は多かったです。

コラムニストとしての人生の心労、お疲れ様でした。合掌

命というのは、使命、宿命、運命、天命、余命、そして寿命が尽き果てるまで生きる事。

その生き方も寿命も様々です。

アル中の人生あれば、病死、短命で終わる人、60代で死ぬ人、70代前半で歩行困難な人、70代後半で寝たきりの要介護の人、80代でマラソンを走れる人。

90代で働いている人もいます。

寿命とは、他の命を頂いて生きている事へのギャンブルのような楽しみなのかもしれません。

心底動揺。

心底感謝。

心底笑う。

心底清掃。

心の動かし方が、命の処方箋。

Be  Happy  百年人生❗


All Right❗

2022年06月25日 | 福伝。

フォークグループ、マイペースの森田貢さん(68歳)がなくなったいうニュース、合掌。

マイペースと言えば、大ヒットしたのは「東京」・・懐かしいなぁ。

🎵東京ヘは何度も行きましたね。君が住む花の都、東京ヘは~🎵

懐かしいなぁ❗

この歌がラジオからよく流れていたのは、上京したばかりの18歳、東京生活が始まったばかりの1975(昭和50)年でした。

同じ頃、大ヒットしたのが、イルカさんが歌っていた「なごり雪」🎵東京で見る雪は最後だと、汽車を待つ君が~🎵

さらには、「木綿のハンカチーフ」も大ヒット。

後に、「🎵死ぬほど憧れた東京のバカヤロー」と熱唱する長渕剛さん、湘南を大アピール、さらに東京ビクトリーを歌うサザンの桑田佳祐さんは、まだデビューしていない。

昔も今も、東京をテーマにした歌は、なんと多い事か❗

東京には人間が多い、その数だけ人間ジャングルのドラマがあるのでしょう。

しかし、東京の名を使って、海外でヒットした歌は、あるのかな?

思い出す限り、皆無です。

かつて英国のバンド Japanが歌った Life in Tokyo・・いい曲だったけど、世界では今一つ。

日本人が思い描く都会と田舎、外国人が思い描く日本と東京と地方には、ズレがあるようです。

昭和初期に生きた作家太宰治の言葉を借ります。

「火の鳥」から抜粋。

「あたし、もう、いやになった。あなたを相手に、こんなところで話をしていると、死ぬるくらいに東京が恋しい。あなたが悪いのよ。あたしの愛情が、どうのこうのと、きざに、あたしをいじくり廻すものだから、あたし、いいあんばいに忘れていた。あたしの不幸、あたしの汚なさ、あたしの無力、みんな一時に思い出しちゃった。東京は、いいわね。あたしより、もっと不幸な人が、もっと恥ずかしい人が、お互い説教しないで、笑いながら生きているのだもの。あたし、まだ、十九よ。」

「でも、ねえ。あの子を、いま田舎へかえすなんて、やっぱり、残酷よ。よく、そんなこと、言えるのね。あの子を国へかえしちゃいけない。あなたは、あの子が、去年どんなことをしたか知ってるわね。どんなに笑われたか、知っているわね。東京は、いそがしくて、もう、そんなこと忘れたような顔していて呉れるけど、田舎は、うるさい。あの子は、きっと座敷牢よ。一生涯、村の笑われもの。田舎の人ったら、三代まえに鶏ぬすまれたことだって、ちゃんと忘れずに覚えていて、にくしみ合っているんだもの。」

1975(昭和50)年、マイペースの「東京」が大ヒットしていた頃、あまりヒットはしないものの、「東京の水」を歌ったずっと今も耳に残る歌があります。

M氏への便り

作詞 吉田健美  作曲 杉本真人

東京の水って? 

都会の夢を流す事かな?

都会の夢を飲み干す事かな?

百年昔も今現在も、人間は、とりわけ若者たちは笑いながらも毎日頑張って生きてゆける未来の場所を探しているのです。

🎵 Don't worry  Be happy ;

All  right !


沖縄慰霊の日

2022年06月23日 | 空木宝剣

夏至過ぎて  六時過ぎても  陽は暮れず

ウィーンでは、核兵器禁止条約第一回締約国会議との事。

広島長崎の両市長は参加であるが、平和を語るに何の遠慮がいるのだろう?

唯一の被爆国、日本政府の不参加に、列国の首脳は、頭をひねっていた。

現在のウクライナ戦争。

何百万人もの人が国を追われ、難民となっている。

映画「家へ帰ろう」は、ホロコーストを経験した88歳のユダヤ人の主人公が、リヤ王のようでもあり、レジスタンスの実存主義者のようでもあった。

我々は、解ったつもりで何も分かってないのだ。

戦争は、ホメロスの時代より、手を変え品を変え、役者を変えて繰り返した。

個人が貧すれば犯罪。

国が貧すれば戦争。

戦争も犯罪も、保険は免責である。

保険の効かないものは悪である。

そろそろ悪を食い止める「防波堤保険」を開発する時か。


百島の20年後。

2022年06月21日 | 百島極楽遊園地

最近、移住絡みの番組や特集記事をよく目にします。

加えて、昨日のニュースで話題となったNTT の企業方針「勤務地は原則自宅、出勤は出張扱い(飛行機移動含む)」・・他企業も追随するだろうなぁ。

今の若い現役の方々が羨ましい限りです。

空き家は、今の梅雨時期に空気を入れ換えないとね❗

1カ月もしないうちに家の中はカビだらけとなりますから、ご用心❗

さて、都心から郊外ヘ、あるいは地方都市部ヘ、移住パターンは様々です。

個人的に気になる移住は、やはり山奥や離島に移り住む若者達・・月々数万円で暮らす目先の未来生活よりも地に足をつけた20年後、30年後の未来社会を考えましょう。

まもなく、移動は空飛ぶタクシー、車になるはず、お買い物の注文はタッチパネル、配達はドローン・・20年後の現実社会です。

では、20年後の我々前期高齢者の社会は、どうなっているのか?

後期高齢者が長生きして施設は満杯状態、高齢者用施設は足りない、介護者も足りないという介護難民だらけの時代となります。

さらに年金が少ない高齢者は行く宛ても移住先もなく自宅もしくは在宅アパートで老老介護ならば仕合わせレベル、特に都会では独り寂しく無縁死、孤独死が増えるのは確実、そんな社会世相を誰も驚かない現実となるならば、悲しいね。

僕が元気な限り、身内、親しい仲間には寄り添い、安心出来る老後社会、老後生活、サポートしたいと考えています。

訪問介護事業とかの起業ブランでは、ありません。

日本の訪問介護は、時給払いを相当高くしない限り、制度が成り立たなくなりつつあります。

今、20年後に向けてシナリオを書いています。

これからは、故郷ヘの愛着が強い方々が実り多い人生を過ごすと思います。

百島愛は、時代の天辺、パイオニア精神、フロンティア精神となるでしょう。


百の作付価値。

2022年06月18日 | 百島極楽遊園地

今週1ドル/135円台、20年ぶりの円安状態です。

物価上昇、貿易赤字、景気不況、でも社会には円高円安が極端に振れるほど、ほくそ笑む人間が多いのも事実なのです。

バブル崩壊後の20年昔の円安時期もそうでしたが、ちゃんと個人的に為替差益で利益を出しているのです。

20年昔は外資系企業の輸出入の業務セクションで働いていました。

当時は、ユーロ通貨の登場、地方の普通銀行に個人的な外貨預金も出来るようになって、銀行員の方が毎日営業に来ていたものです。

周りは優秀な人間ばかりで、資産運用もお手のものでした。

思い出すのは、その中でも単身赴任されていた方は、収入はたとえ少なくてもよし、とにかく収入がゼロ以下マイナス労働にならないのが肝心と言っていました。

資産運用は、数学というよりも算数なのだと教わりました。

今は、FX かなぁ・・昔も今も、バブル時、東日本大震災後に1ドル/80円を割った円高時点でドル買いに走った方々は、現状の円安は大歓迎でしょう。

実際、世界の基軸通貨はアメリカドルとユーロ、そして日本の円、英国のポンド。

僕の個人的な偏見かも?共産党指導のもとでは中国の人民元が、ドルの代わりに世界の基軸通貨になるとは思いません。

若い人に薦めるのは、ドルとユーロ、複数の通貨を少しでも貯めておくこと、長い視点での円高円安の状態で賢く為替差益を運用資産とする事。

こんなので稼いで儲けていると、汗水流して働くのが馬鹿馬鹿しくなりますから、要注意です。

お金に賞味期限を❗

さて、故郷の百島で、退職後、ミニ農業にトライしている同級生がいます。

リンゴ、さくらんぼ、ニンニク、たまねぎ、キウイ、ぶどう、スイカ、とうもろこし、カボチャ、きんかん、ジョロキア、だいこん、スコーピオン等々、プチ農家を称しながら多彩な野菜果樹を栽培しています。

農家ビジネスとして立ち上げるシナリオは、これからです。

瀬戸内海の百島でリンゴ栽培が出来れば、魔法の島となるでしょう。

竹林の活用、木工作家として同級生のトシくんの活躍を期待しています。

子供の頃は、ミカン、びわ、イチジク、はっさく等々、百島は柑橘類がいっぱいありました。

最近、百島にも梅やら金柑等々が成ることを知り、大変驚いています。

これは、錬金術という作付けに成るかもしれません。

楽しく生きる作付けは、百通りあります。


弘法大師 空海

2022年06月15日 | 空木宝剣

弘法大師 空海
(宝亀5年6月15日から生誕1238年)

帰命頂札遍照尊
宝亀五年の六月に
玉藻よるちょう讃岐潟
屏風が裏に誕生し
御歳七つの其時に
衆生の為に身を捨てて
遂に乃(すなわ)ち延暦の
末の年なる五月より
藤原姓の賀能らと
遣唐船(もろこしぶね)に乗りを得て
しるしを残す一本(ひともと)の
松の光を世に広く
弘め給える宗旨をば
真言宗とぞ名づけたる

(弘法大師和讃より)


百会倶楽部。

2022年06月15日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

先日、京都の丹後、兵庫の丹波をドライブ。

あの界隈をドライブするのは、楽しいです。

その途中に、一期一会倶楽部という看板を見つけました。

・・何かを思い出した感覚。

もう随分昔、20代の若い頃、社会に出て働き始めた頃の話に遡ります。

北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩いた事があります。

もう、どのルートを歩いて通ったか覚えていませんが、途中に洞窟の洞穴のような入り口があって、入ってみました。

銭洗い弁天という場所でした。

お金を洗うと、お金が貯まるというご利益が有るとの事で、その通りにしました。

当時は全く先入観が無くて、今はとても有名な場所です。

その銭洗い弁天を後にして、テクテクと歩いて鎌倉駅まで目指したのですが、その途中に今尚記憶に残るのが、一期一会倶楽部という看板でした。

「一期一会」・・一生に一度きりの出会いかな?

鎌倉駅に着いて、駅前の「扉」という喫茶店で一服。

その後、当時暮らしていた東京の調布のアパートヘ帰宅。

あの日を振り返れば、何か予期せぬ未来ヘの扉とその伏線となる個人的な不思議な一日でした。

あの日、東京に戻ってからの生活・・ほとんどお金を使わない日々となりました。

職場の上司から、取材は日中、その打ち合わせ、編集会議、その時間がほとんど外出先の夕方過ぎにと変更指示があったのです。

つまり個人的な遊興費を使う時間がない代わりに、仕事として打ち合わせ食事代もほとんど経費として領収証を貰うことが日常となりました。

その上司は、僕が瀬戸内海の小さな貧しい島、百島から上京、苦学してマスコミの世界に入ったと同情してくれたのかもしれません。

カメラも文具等々、ほとんど必要経費として、会社費用で購買。

外出先がない日にも、必ず昼食も夕食も御馳走になりました。

それから数年、お金を使う事がなかったので、ある程度のお金が貯まりました。

当時、友人だった朝日新聞記者の高額給与よりも、僕の給与は少ない額でしたが、支出が無い分、僕の方が余裕があったような気もします。

その後、1年間の休職期間を希望取得、英国に渡りました。

その1年後、もう日本には帰国したくないという気持ちになり、退職。

それから2年、約3年間ほど海外でブラブラと遊学。

その生活資金の貯えは、今でも銭洗い弁天とT上司のお陰様だと感謝しています。

余談ですが、日本三大弁財天は、神奈川の江の島、琵琶湖の竹生島、広島の宮島にあります。

いつか、百島も著名な弁財天になりますように❗

因みに何の縁なのか、今暮らす福井の我が家からの東京調布までの距離、広島尾道までの距離、その直線距離は、ほぼ同じ距離となります。

二等辺正三角型の頂点に、福井が位置しています。

東京、福井、広島の三拠点生活が、僕の理想かも?

一期一会・・人生で一度きりの大切な出会い。

再び出会った一期一会倶楽部。

これからの人生、百ほどの大切な思い出があっても善いでしょう、ありますように。

百会倶楽部を立ち上げます。


百島の松竹梅。

2022年06月14日 | 百島極楽遊園地

百島の実家の庭に佇んでいると、何故かアゲハ蝶が、飛び回っていました。

アゲハ蝶に付いていくと、ある樹にアゲハ蝶々が、いっぱい飛び回っていました。

この樹、何だろう?

今は、便利な時代です。

グーグルレンズで写真検索が出来ます。

梅の樹でした。

梅干しが沢山出来るぐらい、多く実がなっていました。

実家に梅の樹があるとは?・・全く気づかなかったです。

周りをよく観察すると、松と竹もありました。

父は、松竹梅を植えて楽しんでいたのでしょう。

以前、父が金木犀と銀木犀を並べて植えているのを見つけて驚いたことがあります。

父は幼い頃から漁の仕事を手伝っており、魚の事は非常に詳しくて、魚の種類、捌き方、釣り方も、よく知っているのですが、魚が大嫌いみたいでした。

何で子供の頃から嫌と言うほど、魚と絡んできたのにという理由だったかな?・・父は、ほとんど魚を口にすること、食べる事もありませんでした。

魚に関して、一切、教えてもらった事がありません。

でも、鯉はべつなのでしょう。

池を造り、鯉を飼っていました。

釣りに関しては、孫には、そっと教えていたようです。

そのせいか、息子は、案外釣り好きです。

魚嫌いな父だからなのかな?と思います。

父は、植物にかなり興味があったのでしょう。

父は、船乗りで全国の港に寄る度に樹木を買い集めていたようです。

玄関先のソテツはもう枯れそうですが、縁起が良くなりさそうな樹木を意図的に多く植えています。

百島の実家は、僕の個人的なパワーアップスポットでもあります。

僕が、若い頃に集めた世界各地、日本各地の石も置いてあります。

松竹梅というふうに、簡単に見分けが出来るように名前を記しておけばよかったです。


村田 英雄 (1929~2002)

2022年06月13日 | 空木宝剣

今日は、村田英雄さん没後20年の命日。

よって、午前3時のラジオ深夜便は、無法松の一生から始まって、人生劇場、花と龍、夫婦春秋、王将、柔道一代、黒田節、皆の衆。

以上8曲のオンパレード。

往年の大スターのヒット曲は、昭和30年代まで、時間を巻き戻してくれる。

同じく、6月16日が命日の鶴田 浩二さん(1924~1987)は、先週の深夜便だった。

さすらいの船唄、裏町ポルカ、赤と黒のブルース、好きだった、望郷のエレジー、名もない男のブルース 等のヒット曲が、団塊の老松を少年時代の高砂の松まで届けてくれる。

いろんな大人が生きていた、賑やかな昭和の時代だった。

今日は、昭和97年6月13日との事。

「歌は世に連れ、世は歌に連れ」

遠くなる昭和と共に、斜陽化する紅白歌合戦。

陽がまた昇るには、「世界紅白歌合戦」を提唱。

共産圏が赤組。自由圏が白組。

各国の選りすぐりの天才歌手の歌合戦を、クリスマスから大晦日まで繰り広げれば、戦意高揚の軍歌ではなく、平和の女神が降臨するに相違ない。

「世界紅白歌合戦」生きているうちに、見てみたい。


淀川 長治 (1909~1998)

2022年06月13日 | 空木宝剣

入梅や 緑いきいき 深緑

地球温暖化にコロナ禍。

欧米化とグローバル化。

人が動けば、金が動き、菌もついてゆく。

令和となり、コロナ禍での閉塞感も、はや3年。

ロシアが今年の2月24日に、ウクライナに侵攻して、5ヶ月足らず。

茶の間に流れる戦時下特有の、プロパガンダやフェイクニュース。

取り留めもない、敵か味方に立脚した茶番のニュースソースを避けて、せめて休日は、映画三昧。

戦後生まれの、団塊の子供時代を楽しませてくれたのが、淀川長治さん解説の「日曜洋画劇場」だった。

城山三郎 (1927~2007)の「毎日が日曜日」という小説があったが、令和の時代は、毎日が「映画劇場」。

今日という日は、有史以来の頂点の日。

団塊が若い頃、歴史は墓掘り人のような学問と、決めつけた事もあったが、とんでもハップ。

放っておけば、フェイクや茶番に満ちたこの世を直す、温故知新の学問と知った。

ましてや、ギボン(1737~1794)の「古代ローマ帝国の滅亡」や、シュペングラー(1880~1936)の「西洋の没落」を映画映像化して、BCからの歴史を尋ねれば、2000年以上の仮想寿命が可能となる。

戦争は、映画の中に閉じ込めて、再び地球上の如何なる場所も、戦場としない旨の国際禁止法の成立が急がれる。

やるんだったら、宇宙でやるべきで、地上は、人類や動植物の楽園としての維持に努めるべきである。

そうでなくとも、100年に一度の災害が、毎年のようにやってきたり、1000年に一度の大災害が懸念されたりする時代である。

沖縄や九州方面から梅雨前線が雨を降らせてくる。

各地に洪水やら大水害の水爆弾を降らす、線状降水帯は、空の上の、もう一つの戦場。

爆弾を雨あられのごとく降らす無駄な予算があれば、少しは、自然の怒りを鎮める科学技術に、予算を仕向けるのが賢明な策と確信する。

1966年から30年以上、日曜洋画劇場の解説を勤めた淀川長治さん。

番組の終いには必ず、「さよなら、さよなら、さよなら」と三回挨拶をしていた。

残念なことに、戦争や事件揉め事が大きければ大きいほど、映画としては、面白いが、神戸大空襲の体験をもつ淀川さんとしては、現実の戦争との決別のさよならの繰り返しだったに違いない。

リモートやメールで、会話や挨拶が疎かになりがちな昨今だが、良い事はウェルカム。

悪い事はストップと願いたい。

まさかや~この世は、リンゴ🍎をかじって楽園から追放されたアダムとイブの失楽園だった事を忘れていた。

失楽園を楽園に建て直す。

それが問題だった。


百島の金柑。

2022年06月12日 | 百島極楽遊園地

百島でミニ農業をしている同級生トシ君から、金柑を頂きました。

金柑だけではなく、物価高な玉葱やら他にいろいろと、感謝です。

福井に帰宅後、早速頂きました。

金柑は、宮崎県産のタマタマばかり食べていますが、百島の金柑、タマタマと競べても全く遜色のない美味しさでした。

あらためて、トシ君に感謝です❗

ありがとう🍀

百島に帰省した際、連絡すれば、「ワシに任せて、家にある何かの野菜を差し上げる」との事。

これは、身内、親しい方、百島の同級生だけの特典サービスにする」という事です❗

ミニ農業のこれからの可能性を考えて、同級生のみんな、トシ君を盛り上げましょう🍀

・・続く。


百島生き返り。

2022年06月12日 | 百島極楽遊園地

ラジオを聴きながら、実家の裏地の草刈りを行いました。

蟻とか虫が、ひたすら働いていました。

大きな蚊も飛び回っています。

痒くも痛くもないのらば、少々血をあげてもいいけど、ゴメン。

僕が草刈りをした事で、小さな生き物たちの日常が奪われました。

草刈りをしながら考えた事。

養老猛先生曰く、ウクライナ戦争とコロナ禍の共通項は、今の人間社会の日常が奪われるという事態である事。

日常が奪われるというのは、間違いなく100%起こるという事。

命あるものは、必ず死ぬ、という事。

近い将来、100%南海トラフの大地震が起こるとの事。

それは、11年前の東日本大震災の被害10倍ぐらい、関東から九州までに及ぶだろうとの事。

草刈り前の状況。

汗かいて、今日の草刈り終了。

リハビリ気分で、草刈り開墾。

そうそう、日本が再び大震災に遭い、その巨額な復興資金予算は、どうなるか?という議論がなされていないとの事。

産業、交通インフラ、全滅。

病人、高齢者、医療福祉、全滅。

水、電気、食べ物、薬、金が届かない都市生活者は、どうなるのかな?

そんな都会生活、嫌だ❗

草刈りのあと、片付けをしていると、百島でミニ農業をしている同級生トシ君から連絡あり。

金柑大好きな僕に、今から金柑あげるとの事。

楽しく生きる方法なんて、百通りある。

Be Lucky❗

・・続く。


百島行き帰り。

2022年06月12日 | 百島極楽遊園地

一昨日、百島に帰省して参りました。

山陽道福山西ICで降りて尾道バイパス通過、向島歌からフェリーで帰りました。

ちょうど、朝の通勤ラッシュ時で、バイパスも尾道大橋からも市街地に向かう車が渋滞・・凄いなぁ❗

歌の桟橋の駐車場に着くと、百島ヘ働きに行く方々の車ばかり。

学校、福祉関係の方々かな?

凄いなぁ❗

百島に到着すると、本村の新涯には、太陽光パネルが目立ちました。

尾道の寺院関係が、百島で太陽光バネルを設置しているらしいとの事。

雇用を産み出すモノを造ってほしいね。

神さま仏さま、生活の光は、自ら作り出すモノ。

曹洞宗の祖、道元禅師ならば、「そうじゃ」と言うだろうなぁ。

今、太陽光パネルの設置コストは、かなり安くなっ

ているらしいから、田舎の土地を探している輩が多いらしい。

帰福の際、百島の福田桟橋にて。

本村の方だと言っていましたが、80歳近いオッサンと初めてお話しました。

「百島の生活は、息がつまりそうじゃ。スポーツ紙は読めない、コンビニはない、イノシシとは出会う。人がおらん。百島ヘたまに帰って来て、百島はええのぅ。と言われてものう。こんな田舎嫌だ。」

ほんまじゃ❗

こんな田舎生活、嫌だ❗

現在の高齢者は気持ちが若くて、密度の高い生活の刺激が欲しいのかもしれません。

さて、誰も居ない実家に到着。

父と母のご霊前に、まずご挨拶。

父の声、母の声が聞こえて来ます。

草が生えた実家の庭で、ラジオを聴きながら、一人朝食。

毎朝の逆さま語は、さあ今。

さぁ、仕事探し、草刈りだ。

一日の始まり。

楽しく生きる方法なんて、百通りもある。

Be Happy❗

・・続く。


ある年の今日。

2022年06月06日 | 千伝。

バックパッカーという言葉が流行り出す以前、若い頃は、よく旅をしたものです。

今日は、旅での一期一会、その出会った方の命日でもあります。

ポルトガルを旅した際、ユーラシア大陸最西端、早春のロカ岬まで足を延ばした時の思い出。

ロカ岬までは随分と交通の便が悪く、ポルトガルの首都リスボンから電車に乗り、どこかの駅からバスを乗り継いで行きました。

ロカ岬に着くと、小さな土産屋の中にちょっとした小さな食べ物屋がありました。

ただ、帰りのバスが数時間に1本で、一度行くと帰るまでに随分と長い時間を過ごす事になりました。

ロカ岬からの見渡す限りの大西洋の大海原・・ただ何時間も眺め続けていると見飽きるせいか、さほどの感動も湧いてきません。

偶然にも日本からの女子大生が数人、卒業旅行でロカ岬を訪れていました。

それから、チェコからの家族一家での少人数の旅行者ぐらいだったでしょう。

時間を持て余しているので、いつの間にか旅仲間の一期一会、旅情報等々、会話が弾みました。

リスボンまでの帰りのバス、電車も同じ帰路を辿ります。

リスボン駅での別れ際、その中でとても朗らかで明るかった一人、4月から大手A航空に就職すると言っていました。

「今度、日本に帰国されたら、是非東京でお会いしましょう」ということで、ぼくのアドレス帳に自らの名前と住所を書き込んくれて、お別れをしました。

それから残念ながら音信不通のままとなりました。

その後、3年ぐらいが過ぎた6月6日。

僕は既に帰国して福井に引っ越し、あの日は週末で自宅の屋根裏で私物を整理していました。

そのうち、ポルトガル旅行での写真、当時のアドレス帳、その中には、あの時の朗らかな彼女の名前と住所と姿も・・お元気なのかな?

懐かしいロカ岬での思い出も甦りました。

そんな懐かしい思い出を振り返りながら、屋根裏から梯子階段で降りる途中、足を踏み出して階下の床へ落下してしまいました。

頭部を打撲、眩暈がして、1時間ほどソファにしばらく横になっていた。

頭部の痛みが消えて、テレビを点けてみました。

ぼんやりとテレビ画面を観ていると、ニュース速報のテロップが流れてきました。

セスナ機、富士山山頂に墜落。セスナ同好会クラブの飛行中のA 航空社員3名死亡。

その3名のなかに、数時間前に屋根裏で見つけた彼女の名前と住所が、そのままテレビ画面に流れていました。

僕が体験した実話です。

その後、墜落現場となった富士山山頂まで2度登頂しました。

深い意味はありません。

単純に富士山山頂のお鉢巡りを体験登頂したかっただけの事。

故人ヘの想いとして、「弔う」とか「悼む」とか「偲ぶ」とか、そのような語彙があります。

人間の正体、生かされている命の真理には程遠いのでしょうが、良きにつけ悪しきにつけて、多くの思い出、想いは物質として存在しているような気がします。

死があるからこそ、生が支えられているという命ヘの問い掛け、事実です。

合掌