昭和16年春、転属した安慶においても一年が過ぎた。
毎日何事もなく、此処が戦地とは思えないほど平穏な日々が続いた。
月日は流れる如く過ぎ去ったが、同じ班の工員達は、いつもと変わらず、河岸での補強工事や作業、又は道路の整備などで相変わらず多忙な日々を過ごしていた。
しかし、作業は殆ど現地の中国人を使うので日本人の労働は少なく、班長や現場での責任者の指示通りの段取りや指図が主な仕事だった。
私は、高速艇の乗組員になったので、他の工員とは違った仕事をしていた。
部隊からの将校が乗る以外は、いつも艇の手入れをして綺麗にすることだけであったのである。
これも運勢なのか、まだ幼さが残っていた為だったのか、特に年長者の人達からは可愛がられた。
あの安慶の街では、いつも幸運がついていると思ったのである。
「毎日が幸せであること」を信じて、あの安慶な日々を過ごしていたのである。
毎日何事もなく、此処が戦地とは思えないほど平穏な日々が続いた。
月日は流れる如く過ぎ去ったが、同じ班の工員達は、いつもと変わらず、河岸での補強工事や作業、又は道路の整備などで相変わらず多忙な日々を過ごしていた。
しかし、作業は殆ど現地の中国人を使うので日本人の労働は少なく、班長や現場での責任者の指示通りの段取りや指図が主な仕事だった。
私は、高速艇の乗組員になったので、他の工員とは違った仕事をしていた。
部隊からの将校が乗る以外は、いつも艇の手入れをして綺麗にすることだけであったのである。
これも運勢なのか、まだ幼さが残っていた為だったのか、特に年長者の人達からは可愛がられた。
あの安慶の街では、いつも幸運がついていると思ったのである。
「毎日が幸せであること」を信じて、あの安慶な日々を過ごしていたのである。