元共同通信ワシントン支局長でジャーナリストの松尾文夫さん(85歳)が、日本時間2月26日未明、訪問先の米ニューヨーク州内のホテルで亡くなられました。
(1956年、共同通信に入社。特派員として米国やベトナム戦争を取材。71年に米中和解を予測する論文で注目された。81年から84年までワシントン支局長。論説委員、関連会社社長を経て、2002年ジャーナリストに復帰。09年の著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、17年度の日本記者クラブ賞を受賞。今回の訪米も、日本とアジアが一層の和解を進める必要性を説くための取材だったとのこと。)
折しも、ベトナムのハノイでの米朝首脳会議。
今日は、地元紙(福井新聞)の今朝のコラムを紹介したく下記に載せさせていただきます。
【越山若水】松尾文夫さんの疎開先は福井市の手寄辺りだった。福井空襲の夜は家族とともに荒川を渡り東へ逃げた。その途中、焼夷(しょうい)弾が田んぼに落ちるのを目の当たりにした▼幸いにも降りかかってきたのは、ナパームの炎ではなく泥水のみ。不発弾だった。命を拾ったこの瞬間が、米国というものを知り抜こうとしたジャーナリストの出発点になった▼松尾さんは共同通信の特派員として騒乱の中にあった1968年の米国を見ている。キング牧師暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、ニクソン氏の大統領選勝利の年である▼記者の経験としてすさまじい出来事ばかりだ。名著「銃を持つ民主主義」の中で本人も「ワシントンで取材できた幸運をかみしめている」と述懐している▼ちなみに同書の文章は「が」が極めて少ない。論旨を分かりにくくするから逆接の接続助詞を意図して避けたものらしい。簡単にはできないことで、本人が後書きで少し誇らしげに明かしている▼松尾さんが亡くなったニューヨークは、特派員として最初の赴任地だった。米国にこだわり続けた生涯の旅を、米国で終えたことは本望だったろうか▼きのう2回目の米朝首脳会談が始まった。「米国第一はニクソン政権で始まった」「日米安保は米から中国への引き出物だった」。米国の本質を鋭く指摘してきた松尾さんが、会談をどう見たかはもう聞けない。
さて、亡くなられた2月26日は、1936年(昭和11年)当時の陸軍青年将校たちが、下士官兵1483名を率いて、政府中枢を襲った日本のクーデター未遂事件の日(2.26事件)。
奇しくもその日、松尾文夫さんの祖父松尾傳蔵氏が、首相の身代わりに暗殺された日でした。
時の首相は、岡田啓介氏(福井出身)、その首相秘書官が義弟となる松尾傳蔵氏・・・全ての公職を辞して、義兄である岡田首相の傍らで無給で働いていたそうです。
「わたしが、岡田だ」と言って、銃弾を受けたとのことです。
地元駅前にある岡田氏と松尾氏の銅像です。
今でも、2月26日の松尾の祥月命日には、地元の人々が慰霊祭を行っています。
福井の地に骨を埋めたいと生前言われた・・・松尾氏のご冥福を祈ります。
合掌