百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

HELLAS

2007年08月26日 | 千伝。
昨日からの世界陸上大阪大会・・テレビのチャンネルをそれにあわせてしまいます。

人間、足腰が元気ならば、いつまでも走れる身体でありたいものです。

昨日の男子400M障害、日本の為末大選手は、あっけなく予選落ち。
だが、ギリシャ選手は、残っています。つい応援してしまいます。(笑)

ギリシャ代表の選手達ユニフォームの胸には、GREECE ではなくHELLAS とマークされているはず・・ギリシャ人は、自国をHELLASと呼びます。

以前、ギリシャには、1週間ほど滞在したことがありますが、とても退屈な時間を過ごした記憶があります。
しかし、この頃・・興味津々。
ギリシャ神話、オリンピック発祥の地 ギリシャです。

がんばれ ギリシャ! HELLAS!

天才と平和

2007年08月23日 | 千伝。
港の風景・・父の描いた油絵が、とある病院のロビーに飾られている。

「若い頃から、海や港の絵を暇なときに描き続けていたら、ひょっとして、港を描かせたら日本屈指の画家になっていたかも知れないね」と言うと・・。

母が間髪いれずに「当時は遊びに忙しくて絵など描く気もあったもんじゃない」と言った。

たしかに、そうかも知れない。

徹底的に何かに没する事は、博打であって、その絵が売れなければ、喰っていけない。

多くの天才は少なからず食っていけない時期を乗り切って、天才と呼ばれる高みまで押し上げられる。
 
だが、みながみな、そんな事をしたら社会は大変である。

程ほどに好きな程度で、選択の余地がある能力のほうが、平和である。

勝利の女神

2007年08月21日 | 千伝。
もうすぐ大阪で世界陸上大会開催されますが、ギリシャ代表の陸上選手達が合宿している・・その練習風景を見学に行ってまいりました。

とりわけ、前回のアテネ五輪女子の400メートル障害の金メダリストのファニ・ハルキア選手は、風格さえ漂っていました。

エーゲ海のサモトラケ島の二ケ、ミロ島のヴィーナス・・ギリシャ彫刻を思い浮かべるようなトラック選手の肉体美に、携帯電話で写真を撮るのを忘れるぐらい見とれていました。(笑)

ギリシャ神話の勝利の女神ニケ(NIKE)・・パリのルーブル美術館で圧倒されたのを思い起こしていました。

やはり、人生は、肉体あっての魂を・・燃やすことだと確信しました。

早速、自宅に帰って、来年の東京マラソンの参加申し込み方法を検索、トライ・・。
が、すでに締め切られていました。がっかり。

明日は、甲子園決勝・・若い日々は輝いています。

若さは、取り戻せないですが、情熱は、決して、消してはならないのでしょう。

勝利の女神が、微笑みますように!


海を眺めて

2007年08月18日 | 千伝。
さっきまで、NHK衛星で吉田拓郎さんのつまごいコンサートで熱唱している再放送の番組を観ていた。

先日、広島へ行ったとき同じく広島出身の日本ロック界の大御所 矢沢永吉さんの若い頃を知っている方の話をきいた。

お二人とも、広島を離れて東京へ出てゆかねば、今頃「ただの人間なんて~~♪」という人生を、広島で過ごしていたのかもしれない。

人間は、生まれてくると、どうも本能的にこの世にメッセージを残したいのかもしれない。
それが、子孫であったり、言葉でもあったりする。

例えば、若い頃の恋愛は、人生の一部ではなく人生の音楽のような感覚全てだったような気もする。
当時、ディープパープルやレッドツェッペリン・・ホワイトスネイク、ジャパンを聴いていたが、洋楽の原点は、讃美歌であると確信した瞬間があった。

昨日今日と台風一過のニュースが流れるように、世界的な株安、円高傾向の報道が耳障りである。
年収1億円の生活レベルが、年収1千万円の生活レベルに下げるとなると、精神的に非常に苦痛となる。
「この世は金次第という感覚」に変化が起こるのは、年収1500万円以上になる。
また、年収500万円が、それ以下になるならば、貧富の格差が辛いという感覚になる。

要は、安定を求めない気持ちのバランス感覚です。

海はいいなぁ。
まだ、あの世とこの世の境界が無かった太古の時代・・海面を境に上と下の異質世界に生きる命は、月の光、太陽の光を浴びたくて、異次元の陸へ上がったのでしょう。

もういちど、思い切って、人生の舟を漕いでみたくなりました。

今、イーグルス ホテル・カリフォルニア♪を聴きながら・・次は、瀬戸の花嫁♪もいいけど・・(笑)

讃美歌エルサレム♪を聴きたいです。

送り火

2007年08月17日 | 千伝。
昨晩、NHKで「京都五山送り火」の生中継のテレビ番組を観終えると、何だか蠢くような余韻が残った。

京都の大文字焼きは、二度、見物したことがある。

初めて観たのは、昭和54年(1979年)の夏。
前年に関東と関西から選抜された秀逸な学生20名近くが、二年目の行事として「京都の五山送り火」の見学となった。
とある著名な作詞家のご好意のもと、北区鷹峰にあるご自宅に宿泊して、その鉄筋5階建てビルの自宅屋上から京都の送り火を眺める集いに参加したことがある。

お昼に京都駅に集合して、それぞれ各自別行動で夕方に鷹峰に集合予定。
ぼくは、京都駅から、京都の女子大生と京都駅から鴨川沿いに北上して、西へ、それからさらに北に向かって坂道を歩いて鷹峰まで歩いた・・その時の鮮明な情景が浮かんでくる。
途中、下鴨神社で休憩しながら「∞」に関する会話をした印象深い記憶が残っている。

送り火を眺めたあと、屋上で学生達が円陣になって座り込んで、ある学生が、「皆で手を繋いで何か念じてみよう。今夜は特別な夜だから何かが現れるかもしれない・・」と提案してきた。

皆、子供のように他愛もなく無邪気で黙して念じていたのを思い出す。

残念乍、その後、三年目からの行事がなくなった。

あの時、提案した学生は、その後、30歳の誕生日のクリスマスイブにポックリとあの世に旅立った。

あれから30年近く、あの時の学生達は、格差社会の頂点から底辺まで・・さまざまな境遇、生涯を過ごしているらしい。

彼ら自身も、あの時の「京都五山送り火」をそれぞれが思い出しているのに違いない。

それぞれに秘めた出会い、別れ、想いを胸の奥、心の隅にしまいこんで、今年も「送り火」が焚かれた。

・・・・・ 生きているこそが無常の喜びかもしれません。
合掌。

もとめるもの

2007年08月10日 | 千伝。
人間として、夢とか希望とか愛とか・・

子供の時からいろいろ教育されてきましたが、相手に愛や理想を求めても、酷な場合が多いのも事実です。

普く、人類に共通するものは、豊かさと快適さかもしれません。
縮めて、「豊快」。

豊かさが先行し過ぎると、それは崩壊に向かいます。

快適な環境を豊かさで支える社会は、人類が解放された環境となります。
 
常に、快適な環境を目指して模様替えや掃除に努めれば、豊かさがうまれるのでしょう。

やがては、愛も育むという公式となるのでしょう。

さて、明日は、尾道 百島まで出かけてきます。

ナガサキ

2007年08月09日 | 千伝。
今日8月9日は、ナガサキの日である。

こんな話がある。

どうも原爆投下も含めて、アメリカからの空襲情報は、事前に日本の何某の組織は、把握していたようである。

例えば、どこかに空襲される当日「今夜、空襲でやられるから逃げろ」という人間が実際にいたという。

考え方によれば、その類の人間は、当時のアメリカ側のスパイだったかもしれないし、ソ連側の共産党シンパっだったかもしれないという憶測も可能ではあるが・・どうも複雑怪奇な昭和史の暗部を覗くような気もする。

かつて、大本営側で働いていた方の話である。

ウソかマコトか・・ヒロシマに原爆が投下されたあと、大日本帝国大本営は、次なる新型爆弾(原爆)が、長崎か新潟か東京に投下される情報を把握していたということである。

アメリカからの意図的な情報漏洩かもしれないが、興味深いものがある。

東京は、皇居を除いた大空襲の惨劇を踏まえて、今後の終戦処理の場所としては投下されないだろうという確信があったとのこと。

残るは、長崎か新潟か・・。

当時の新潟県知事(内務省出)は、国家機密の掟を破り、英断をもって新潟市民に、その情報を知らしめ中心街から4KM以上離れた郊外、里山へ避難勧告をしたという。

この英断は、今もって活字になってニュースになっていない。

第二の原爆は、新潟ではなく、62年前の今日、ナガサキに投下された。
合掌。

ヒロシマ

2007年08月05日 | 千伝。
明日8月6日は、ヒロシマの日です。

「おまぁは、原爆じゃろうが・・」
たまたまテレビを観ていると、そんな差別的な言葉に傷ついたという被爆者の声がありました。

例えば、地獄図絵が起こるということが判るはずなのに核兵器の使用を賛同する輩は、最悪の人間に映ります。

そして、「おまえは、○○だろうが・・」と平気で差別的な言葉の暴力を使い、自尊心を傷つけるような輩は、最低の人間に映ります。

無情と薄情の違いのようなもので・・最悪と最低のレベルを天秤にかけても仕方ありません。

単純に戦争という殺し合いのない国、世界になってほしいというよりも、それ以前に、基本的な人権を中心に置く社会、国、世界になってほしいものです。

罪もない失敗や恥しさやコンプレックスを見下ろすように、せせら笑う世界は、嫌いです。

1945年8月6日・・この日、母がヒロシマに居りました。

いつのまにか被爆者二世としての自覚が深まる何とも言えぬ想いに駆られます。
合掌。

御来光

2007年08月03日 | 千伝。
ハプニング・・

富士山五合目から、車で30KMぐらい富士宮市まで下って、「にこにこ長屋」という焼きそば店があります。

前回そこでソフトクリームを食べました。

今回も、このお店で何か昼食を取る予定で駐車しました。

・・そのとき、何故か金剛杖が浮かんできました。

そう、五合目のテラスに、親子二本の金剛杖を置き忘れたことに気がつきました。

もし、これが高速道路上で気がついたら、きっとあきらめて、嫌な思い出になっていたかもしれません。

「にこにこ」の看板に感謝しながら、五合目まで引き返しました。

往復距離60KMと約1時間のロスでしたが、富士山山頂まで一緒に登った金剛杖です。

無事、手に戻ることができました。

諦めと油断が大敵なのが、よく理解できた今回の富士山登山でした。

そして前回の単独登山と違い、六根清浄と唱えることもできた・・苦しい、苦しい道程でした。

今は、日焼けで火照った顔面に氷をタオルに巻いて冷やしています。

でも、気持ちは、今、とても天晴れ状態です。

御来光を!

御来光

影富士

2007年08月03日 | 千伝。
富士山山頂から、昨日の深夜に自宅に到着しました。

親子 富士山登山記。

7月31日(火)朝6時頃、富士宮口五合目(標高2400M)に到着。天候、曇り晴れ。

平日なのに、かなりの車が駐車していた。
おそらく登山中の方々のもの。
中学生の息子と朝6時45分頃、ゆっくり出発。

6合目までは、20分間ほどで到着。
ゆっくり休憩して8時ごろ出発。

6合目から7合目・・これまた、ゆっくり登って途中飲食しながら3時間かかる。
7合目に11時頃、到着。
雲を見渡すことができる。

7合目で、東京からきた大正9年生まれの86歳の西尾さんと出会う。
隣に座っていて、「6合目から7合目まで2時間もかかった」と話されるので、「我々は、3時間かかりました」と答えると笑っていた。

東京からJRの電車で来たとのこと。
富士宮で前泊、そこからバス経由で来たという。

80歳から毎年富士山登山をはじめ今年6回目だと言う。

この人、何者なのだ?!

いろんな話をされた。
富士山登山は、異様に外国人が多い。
西尾さん曰く、大都会から1~2時間で来れる3000M級の山があるのは、世界的にも珍しいとのこと。
だから海外では、日本にいくと「必ず富士山に登れ」というメッセージがあると言う。

西尾さんから「9合目の萬年雪山荘に自分が撮った富士山の写真が飾ってあるからみてください」と言われた。

7合目から元祖7合目まで、この86歳の西尾さんのペースにあわせて登ることにした。
約2時間で登る。86歳の西尾さんの方の到着の方が早い。

だんだん寒くなる。
この頃から、中学生の息子が下山したいと言う。

元祖7合目から8合目・・西尾さんは、はるか先に登っている。
親子喧嘩をしながら登る。

親子で来るものではない。
息苦しい・・。

胸突き八丁とは、よく言ったので8合目から急速に苦しくなる。

酸素缶を買う。

9合目・・非常に寒い。
独りならば、前回同様に一気に山頂まで登るが、息子が「頭が割れるように痛い」と訴える。典型的な高山病である。

我々が到着したら、西尾さんはすでに食事中。

9合目の萬年雪山荘で宿泊を決定。寒い。

夕方、箱根方向にのびた影富士をみる。
山小屋の宿泊料金(一人素泊まり5000円。二食付きで7000円)。
午後7時に布団に潜り込む。小生も酸素不足で息苦しい。

小生は、山小屋の泊まったことを後悔。
息子は、富士山にきたことを後悔。

御来光目的ならば、午前2時半には出発予定。

8月1日午前2時、トイレにいく。
隣の人と立ちションしながら話す。

「しんどいですよね。眠くて、ボーとして、息が苦しくて、疲れますよね。どうして、こんなに苦しみながら富士山に登るのでしょうね」
「そうなんですよ」と相槌をうつ。

外は、徹夜組の登山者達の足音が聞こえる。

午前2時半・・息子が起きない。
もう登りたくないと言う。「頭が割れそうに痛い」と連発。

富士山頂上まで行けたら「○○」という条件を出す。
あわてて用意して、親子で凍える月夜のなかを2時45分に出発。
上も下も、ヘッドライトをつけた人間の行列が頂上を目指している。

頂上には4時半ぐらいまでに到着しないと、富士宮口からでは「雲上からの御来光」が見えない。

とにかく、息子をなだめつつ励ましつつ怒鳴りつけたり、急がせる。
20メートルぐらい登っては、30秒か1分間ぐらい休憩。

その間、「前かがみで呼吸をするな。胸を張って背筋を伸ばして空気を吸え」と何度も声をかける。

暗闇の中から、どなたかが、息子に「強く息を吐き出せ。そうするとたくさん空気が入る」とアドバイスがある。

感謝である。

マラソン選手が喘ぐときの「ハァ、ハァ、ハァ」である。

9合目半をすぎて、だんだん空が薄明るくなる。

午前4時半頃、頂上に到着。

息子は、やっと着いたという感覚であるが、すぐに移動しなければならない。
御殿場口を通り過ぎて、山梨県方向に移動しなければならない。
そうしないと雲上からの御来光が見えない。

とりあえずの場所まで辿り着くと、猛烈な風と寒さで、息子が地面にうづくまりながら震えて「寒い。頭が痛い」を連発。

午前4時45分頃・・「御来光」・・富士山の御来光は、写真では巧く表現できないほど素晴らしい。

息子が、今すぐ下山したい・・と言う。

「わかった」と言いながら、富士吉田口へ向かう。
さすがに多勢の登山客が居て、賑やかである。

甘酒とココアの缶を買う。金剛杖に焼印。

反時計周りで「お鉢巡り」・・息子が、それに気がついたのか「騙したなぁ」と怒る。
ぼくが先に歩くと、ついていくしかなく、何とかついてくる。

息子も小生も、強風で身体が煽られ、しかも寒い。

午前6時ごろ、剣が峰に到着。
馬の背の下り坂をみせて、ここを降りると富士宮口で、ここから下山すると説明。
息子も少し元気がでたようである。

馬の背を下る。

富士宮口にある鳥居は、ちょうど3年前に小生が富士山登山した朝に立て替えられたものである(大昔から申年に12年ごとに交換)。

その鳥居の下に座って、富士山に「万事が無事」を感謝。そして一礼。
振り返ると、86歳の西尾さんが、ちょうど富士宮口に到着したところだった。
「西尾さんから勇気と元気をいただいたお陰で親子で無事頂上まで辿りつくことができました。ありがとうございます」とお別れの挨拶する。
何だかお互いに・・妙に涙ぐんでしまった。

さて、実際は、下る8合目までが、おう吐するぐらい非常に苦しい。

息子の帽子と小生のタオルが、強風に吹き飛ばされて、そのまま富士山に残してきた。

そのあと、どんどん元気がでる。
10時頃、五合目に到着。

息子と缶ジュースで乾杯・・。
下山を喜び合いながら「もう一生富士山には登りたくない。富士山を見たくもない」と笑いながら言い合う。

駐車場には、車が満杯状態。これから富士山に登る方々である。

午前11時頃、帰路へ。

それにしても、富士山の影は大きくて、影なのに存在感がありました。