百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

織田作之助 (1913~1947)

2020年11月30日 | 空木宝剣
鮟鱇や 待ち食いコロナ 吊し切り

合理主義の欠点は、相手にとって不合理となる場合がある。

自分に得な条件は、相手にとって損する場合がある。

競争で疲れきった資本主義は、100年程でまな板の鯉。

得体の知れない新型コロナウィルスの解決方法とは❔

例えば、横断歩道に歩行者がいた場合の車の一時停止。

長野県が72,4%でトップとの事。

広島は、不名誉なワースト2だったが、今年は、全国12位にランクアップ。

その意味するところは、「自己優先は、事故のもと」歩行者を見たら一時停止。

側道から割り込もうとする車があれば譲り「一日一膳」のノルマ達成。

心豊かに、あおりやいざこざ無しの治安となる。

同様に、このコロナ禍の解消は、夫婦善哉、家庭善哉、区域善哉、地方善哉、国家善哉、世界善哉の展開を善・善・善と積み上げ、コロナに全ての悪を食わせた上、まな板ではなく、吊るし切りのような方法で料理するのが最善かも知れない。 


百年後の人類。

2020年11月26日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
NHK BS 世界のドキュメンタリー「新人類2.0 夜明け」を観て考えたこと。

すべての生命体は、個体を基本として存在している。

人類も然り、進化して現代人まで辿り着いているが、個体として人類1.0レベルであるとのこと。

新人類2.0レベルになると、人間とサイボーグ間の交換行動、人間とロボット間とのセックス、さらには人間間同士でのテレパシー交流の実現は、百年以内に可能だとのこと。

スウェーデンの科学者か政治家だか知らないけど、こんなコメントを言っていた。

「新しいテクノロジーを受け入れることに我々は躊躇わない。古いテクノロジーに依存するということは競争力に負けることで、失業する?未来を失う?」

実際、既に、集団生活の中で実験が始まっている。

本人の個人情報データを極めて小さなマイクロチップにインプット、それを手のひらに埋め込んでの実験社会が進んでいるのである。

手のひらを当てるだけで、本人確認も支払いも可能になるのである。

例えるならば、スマホが小さなマイクロチップになり、マイクロチップが、細胞化するのである。

もうひとつ例えるならば、どこの街中にもある貸し自転車、レンタルな物がサイボーグと化して、すべて通信可能、自動化歩行可能なAI サイボーグであれば、それを通して一体感のバーチャル視化的に、いつもどこでも行けるドラえもん感覚になれるというイメージ。

AI ロボットとのセックスに関しての感想は省くが、頭部を交換移植できるグロテスクな科学医療レベルな話よりも、まだ現実的かもしれない。

つまり、人工AI マイクロチップが細胞化すれば、神経細胞、遺伝子レベルからの人体改造も可能だとのこと。

脳内に脳波を利用したマイクロチップが細胞化すれば神経細胞まで利用可能、言語の壁を超えて、テレパシー的な交流も可能だということ?

そうなると、人間は言葉を覚えると同時期に、脳内に細胞化したマイクロチップの中に人類全知識をインプットすれば、勉強する必要がないのでは?

欲しい情報は、すべて自動的に脳内で集められる。

誰もが天才になれる、そうなるとコミュニケーションはどうなる?

心を交換移植できる(盗む)ということにもなる。

ここまでが、今の人類の科学知識で人間工学ソフトウェア設計上、可能な段階だとのこと。

百年以内に新人類2.0誕生は可能だとのこと。

意識ある世界なのか、無意識な世界なのか、新人類2.0の誕生のあとにも、進化するであろうとのこと。

それは、心の移植が可能となるならば、新人類は2.1レベルに進むとのこと。

夢想社会なのかな?

百年後の未来社会、新人類を観て見たいものです。


十八番(おはこ)。

2020年11月26日 | 千伝。
今日は、届け印が分からなくて、久し振りに銀行の窓口に立ち寄りました。

高齢者ばかり見守っていると、銀行の窓口は、とても新鮮に映りました。



そこで、感じたこと。

若い窓口の担当者から、僕のような年齢者が来ると、先ずはシルバークレイマーが来たと構えてしまうのかな?

今の時代は、寿命が長くなるというものの、いづれ誰もが身体が硬くなり、足腰も動けなくなり、介護が必要となります。

そして、頭脳は、だんだんと小さな脳となり、赤ん坊に戻るのかと思うぐらいです。

意味不明な言葉、下品な言葉を繰り返すこともあります。

怒鳴る、泣く、喚く、徘徊、認知、さまざまな高齢者の姿を目にします。

悲しいことですが、時間がくると起こされて、時間がくると食事を用意されて、その曜日がくると風呂に入り、何を着たいのか? 用意した服を着せられて、一日中、冷暖房の効いた箱のような建物に閉じ込めらたような究極の引きこもり生活。

人生の終焉生活には、それなりの人間愛が必要です。

幸せな人間に介護されない限り、不幸となります。

神様が、介護するわけではありません。

人間愛溢れる人柄の若い方に、介護の担い手になってほしいのです。

しかし、現実の介護業界の休日、給与水準は、今流行のgo to トラベル、イーツにも利用、参加できないくらいの貧困レベルなのです。

日本全体の福祉の基本軸となりつつある介護の質は劣化する一方となります。

殺人犯罪の多い社会は嫌ですが、自殺の権利を求める声が大きくなるような近未来の日本社会です。

最近、よく耳にするSDGs (持続可能な開発目標)、Sustainable Development Goals.

2015年9月、国連サミットで採択された2030年まで持続可能なより良い世界を目指す国際目標です。政府、企業、自治体、非営利組織、個人も取り組んでいるとのこと。
地球上の「誰一人残さない」と誓っていますが、目標数は17ゴール、169のターゲットに構成されています。

17ゴールの目標、ご存知ですか?

添付します。



17ゴールの次は、18番です。

高齢者、弱者、引きこもり、失敗者を見下ろすような笑いは、最低です。

同じ人間なのです。

気持ちが上機嫌、心が上向くような笑顔を、十八番(おはこ)にしたいものです。

煉獄杏寿郎。

2020年11月26日 | 空木宝剣
三島忌や 関の孫六 関のリサ

1970年11月25日水曜日。

ぽかぽかの小春日和の日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地にて、盾の会率いる三島由紀夫(1925~1970)が割腹自殺を遂げた。 

あれから50年後の今年11月25日も水曜日。 

今は菅内閣。

50年前は佐藤栄作(1901~1975)内閣。

当時の参院予算委の最中、佐藤総理に「三島氏が自衛隊に乱入し自決」のメモを渡す様子がテレビで放映された。

それから、何日もその事件は報道され、本屋には、「剣」「花ざかりの森」「金閣寺」「午後の曳航」「豊穣の海」やらが山積。

団塊は、むさぼるように読んだ。

「檄」にあった50年後の日本は、西洋人でも東洋人でもないヘンチクリンな国に変貌するだろうと落胆したものだった。

2020年。

令和2年早々、新型コロナウィルス騒ぎは、香港より横浜港に入港したダイヤモンド プリンセス号から始まった。

コロナ禍。

花見のない春。

マスクを着けた夏。

行楽自粛の秋。

gotoトラベル・イートによる第三の波で、閉塞感のまま迎える年末。

運勢的には、大凶の2020年であるが、アニメでは「鬼滅の刃」の映画収益46億円。単行本では一億円との事。

鬼滅の「紅蓮華」や「炎」を歌う lisa(織部里沙)は、名刀「関の孫六」の刃物の町、関市の出身。

三島由紀夫が携えたのが、「関の孫六」だった。

半世紀前の「関の孫六」と、「鬼滅の刃」を歌う関市生まれの lisaのその切れ味のよい歌唱力。

関の東を関東。

関の西が関西ならば、「コロナの咳」は、関で咳止め。

織部色市松模様の旗を高く掲げよう。



空気は読むものではありません。
空気は吸うものです。

呼吸、全力集中。

日本一 史上初の同日優勝。

2020年11月25日 | 千伝。
プロサッカー日本一❗

等々力競技場にて、Jリーグ史上最速で優勝を決めた川崎フロンターレ。

今春入団した新人、旗手怜央選手のファンとして、素直に嬉しいね❗

11連勝という記録更新もした今年の川崎フロンターレの強さは別格、選手層も厚くてレギュラー争いも熾烈だけど、これからの旗手の突破力に期待します。

来年は、フル出場できるように成長を望みます。

怪我をしないように踏ん張れ、走れ・・・旗手怜央❗

もうひとつ、プロ野球日本一❗

福岡ドームで、ソフトバンクが日本シリーズ4連覇、しかもシリーズ12連勝というのだから素晴らしい❗

これまたソフトバンクの圧倒的な優勝、嬉しいね🎵

メンバーの柳田(広島市出身)、熱男の松田(亜大出身)、よく頑張った❗

そして何よりも、今回の日本シリーズMVP男は、福井市出身の栗原陵矢選手。

いいね❗

嬉しいね🎵

地元福井の県立高校からソフトバンクに入団、激しいレギュラー争いにも勝ち残った❗

その活躍ぶりが素晴らしい🎵

旗手選手、栗原選手、若い両選手の選手生活は始まったばかりです。

応援しています。


森の美徳。

2020年11月25日 | 千伝。
50年前の今日、当時、中学2年生だったけど、あの異様な三島事件の報道はよく覚えています。

松本清張は、三島由紀夫の割腹自殺事件を「書くことがなくなったから」と冷たく評しました。

互いに嫌いな文豪作家だったのでしょう。

それから、14、15年後かな?

写真週刊誌フライデーが、三島由紀夫の生首を載せたものを発売。

当時、僕は20代後半、取材編集担当の仕事をしていました。

ほぼ毎日、嫌になるぐらい退社時刻に合わせての打ち合わせ・・・写真、イラスト、原稿等々、今でいうフリーランサーとの打合せの続きが、夜の会合となるのです。

20代という若い時代に、毎夜毎夜、そんな日々がずっと続くと思うと嫌で、30歳手前で一年間の休職期間を頂いて、そのまま、延べ3年に及んだ海外生活、その後、転職人生となりました。

今では、あの時の上司からの恩恵に感謝の念しかありません。

結婚して福井生活、50歳手前までドイツの外資系企業に辛抱勤務、それから介護業界へ。

はて、美徳というのは、自分の履歴書を飾ることと、もう1つは、死後の追悼の辞に表現される、どんな人間性として生きた証を飾る二種類あるとのことです。

ほとんどの人間は、自分の履歴書に生きた美徳を飾る生き方をするようです。

三島由紀夫は、若い頃、太宰治に「あなたの作品は嫌いだ」と直接言いました。

ノーベル文学賞候補になっていた頃には、「松本清張の作品は文学ではない。文体(個性?)を成していない」と酷評したとのこと。

因みに、太宰治と松本清張は同い年で、三島由紀夫よりも17歳も年長です。

さて、僕が毎夜の打合せをしていた20代半ばの頃の三島由紀夫に関する思い出話です。

あの三島事件から10数年、忘れた頃に写真週刊誌が三島由紀夫の生首を載せたのです。

三島由紀夫は、海外でもハラキリの作家文士として有名ですから、世界中で話題になりました。

当時、警察絡みの死後の検体は、東大か、慶応大の医学部に運ばれていたとのこと。

割腹自死後の三島由紀夫の検死も、どちらかで行ったはずです。

ある夜の打合せ、会合で聞いた話です。

テレビ番組ディレクターからの三島由紀夫の美徳という話題でした。

三島の遺体を検死した医師の一人に取材した時の事。

武士の切腹作法は、介錯人が一刀のもとに首を斬るとのこと、そのために姿勢は真っ直ぐにして、腹は、軽く線を引くかたちのような作法が美しく正しい切腹作法だとのこと。

しかし、三島由紀夫の割腹は、深く長く凄まじい切り口があって、途端の苦しみにもがいたはずだとの事、さらには、激痛のうえ首の周りに力が入り過ぎて筋肉が膠着状態となり、介錯人は首を切り離せなかっただろうとのこと。

それゆえ、三島の首の切り口は、日本刀でノコギリのように斬られていたとのこと。

嘘か誠か、割腹前、男性の精子を体内に残す行為をしていたとのこと。

「三島由紀夫の生きた美徳、死の作法なんて、こんなもんだよ」と彼が話していたのを思い出します。

個人的には、三島由紀夫の文学は天才的な作品だと思います。

心中自殺した人間失格の太宰治と、仮面の告白をする三島由紀夫は、ちょっと同じ匂いがします。

潮騒の「その火を飛び越えてこい」・・・いいなぁ。

松本清張は、書くという才能は、延々と座って机に向かう事だと言いました。

書くというのは、社会に対して何かしらの敵対心、心の中に不満不安という熱情がないとね。

熱は、上に上に上がるものです。

生まれも育った環境も大違いの松本清張も三島由紀夫も、不思議な事に、森鴎外を尊敬していました。

あの太宰治さえも、森鴎外と同じ墓地に眠ることを願っていたとのこと。

・・・夏目漱石の名が出て来ないなぁ。

先日、NHK Eテレビで「中高年の引きこもりの家族」を訪問医療している老医師の活動が映し出されていました。

小堀先生という医師、森鴎外のお孫さんだとのこと。

森鴎外の作品に、尾道や百島という地名、氏名が出てくる「細木香以」という史伝作品があります。

細木香以なる人物は、紀伊国屋文左衛門と比較されるほどの幕末の大商人、パトロン、文化人だったけど、遊蕩三昧、没落人生?

細木香以は、芥川龍之介の母の叔父であり、芥川龍之介の短編作品「孤独地獄」にも名があるとのこと。

美徳の傾きは、文学作品になるのかな?

森鴎外、本名は、森 林太郎。

遺言には「余ハ 石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」

「墓ハ “森林太郎墓”ノ外 一字モホルベカラズ」

三鷹、禅林寺境内、思いの外小さな墓石の下で眠っています。


勤労感謝の人。

2020年11月24日 | 百伝。
昨日は勤労感謝の日、11月23日は、1963年、アメリカのケネディ大統領が暗殺された日・・・ぼんやり記憶かあります。

それから、1990年には、鉄の女と言われた英国のサッチャ首相が退任した日だとか・・・ロンドンで暴動、しっかりとした記憶があります。

流石に、英国もアメリカも、今の首相、大統領は、ジョンソン、トランプと言えると思うけど・・・案外、自国の元首の名を知らない、言えない知識階層が民主主義の国には存在するのです。

日本も然り。

今の日本の首相の名前を知らない、言えない人がいるのは事実です。

首相の名前よりも、ゲームの機種、名前を知る方が遥かに価値基準が高いのです。

介護業界の入るワケありの若い新人もそうですが、僕自身、菅首相の名を言えても、ほとんどの閣僚の名前を知らない、言えません。

首相の名前を知らなくても、別に不幸ではありません。

世俗と隔絶した禅寺で修業している僧は、世の中の動き流れをもっと知りません。

現在、日本社会の引きこもり人口は、約百万人だとか。

そのうち、40歳から64歳までの中高年が、約61万人だとか。

・・・とある研修会の資料から。



その多くの引きこもり中高年の方々が、老親の介護と対峙する現実問題が浮き彫りとなっている昨今です。

老いた親の年金が頼りの綱とする中高年の引きこもり、今後どうなるのかな?

昔、日本に年金制度がなかった昔は、子が、老いた親に仕送りをしたりして養っていました。

それが、当たり前の時代でした。

亡くなった親父がよく言っていた言葉。

「おまえは馬鹿なんだから身体だけは丈夫にして生きろ」

この歳になって、親心の好い言葉だと身に染みます。

「おまえは賢いんだから」と言われ続けて育っていたら、いつか親の期待に沿えなくて押し潰されていたような気がします。

振り返れば、若い頃、殆ど就職活動などしたことがありません。

努力、学力よりも、すべて行動力という体力、人脈という好意、どなたかのコネという器量で生きてきたような感覚です。

来春からは70歳就業法に改正。

まだまだ働く機会は増えるだろうけど、世間はセクハラ、パワハラがいっぱいです。

今は、危うい時代。

先月だけの日本の自殺者は、コロナ禍の死者数を上まわっているとのこと。

死にたくなるような超高齢化社会、外に出たくなくなるような引きこもり社会。

幸せとか、温もりとか、心の在処を見つけるのは、孤立化の世界ではありません。



未来とか、自分を変えることがてきるのは、生きているからです。

最近、失禁したり、物忘れしたりすると思い出すのが、百島幼稚園の頃の幼心の動き。

失禁した時、幼心にも大変不安になりました。

みんなに囲まれて、クサイとか、笑われはしないかと、泣き顔になりました。

その時、仲間の一人からの「大丈夫」という言葉に救われたのです。

みんなから囲まれて、嘲笑い者にされたら、たとえ勉強が出来る大人になっても、多分トラウマ常態として人間嫌いになっていたかもしれません。

僕自身、中高年の引きこもりになっていたかもしれません。

人間不信、人間嫌いは当たり前ですが、すべての人間に対して、そう思うのはダメだと教えてくれたのが、百島という生活環境でした。

自分よりも頭のいい人間は沢山生きているように、自分よりも心優しい人間も沢山生きているのが世の中、世の常です。

でも、悪党も沢山生きているから要注意です❗

勤労に感謝出来る人は善い人ですが、勤労に結果優先第一を求める人は勝負好きのような気がします。

二律背反。

2020年11月16日 | 空木宝剣
秋深し あれやこれやと 専門家

コロナ感染最多更新の最中。

go toトラベルの見直しが迫られている。

安全と経済の間で、社会生活が制限されている。

経済のために行くべきか。

感染阻止のため行かざるべきか❔



この二律背反の状況を、行くも地獄、行かざるも地獄という。

こういった場合の解決策は、二者択一ではなく、十者沢山の細分化が肝要となる。



グローバルで失なわれた村社会。

競争で失なわれた相互扶助。

一方通行ではなく、回り回って、助け合いこそが社会の安寧秩序を保つ事と信じるべきである。

コロナ禍の夜道を、安全に進むための提灯は何か?

その専門家に聞くべし‼️

良寛さんの魂。

2020年11月14日 | 日本の百々巡り。

「良寛和尚さんみたいな人間になれたら、いいなぁ。」と言ったのは、中学校の社会科の先生だったかな?



北陸道下りの敦賀の杉津(すいづ)PA~の眺めは、いいなぁ。

良寛さん、備中から越後の国へ戻るまで、当然の如く托鉢しながら諸国行脚しています。

ここ敦賀も通り過ぎたのかな?

曹洞宗大本山永平寺に関しても、越前の国に関しても、何も語らず避けています。

その理由は、多分、僧として価値観、仏教界への不満、そして越後の国の出雲崎の実家にあると思う。

その前に、余談ですが、先日の日曜日、NHK 「麒麟がくる」では、「越前敦賀の金ヶ崎の戦い」が描かれていました。

この金ヶ崎の戦いは、もっと注目を集めてもよいほど、歴史上大きな分岐点になったのです。

越前朝倉攻めに陣地を張った織田信長軍・・・そこに、朝倉、浅井両軍による挟み撃ち。

信長、織田家臣の重鎮、徳川家康、松永久秀、ここから大出世する豊臣秀吉、明智光秀も居て、歴史上のオールキャストが、あわや全滅となるような織田信長の逃げ戦だったのです。

殿(しんがり)を務めたのが、秀吉と光秀・・・この敦賀の地から、歴史上の天下獲りの歴史が、どんどんと変化していきます。

万が一、この時、朝倉浅井両軍が勝利していた場合でも、東からは東北の上杉、伊達、関東の武田、北条、西からは、中国の毛利、九州の島津が覇を競っていたと考えます。

ずっと戦国が続いて、地域別に独立国が生まれ、結局はスペイン、ポルトガルの西欧列強国のキリスト教布教に続いて、植民地化されていたかもしれません。

良寛さん、勿論、戦国時代の信長、秀吉、家康の天下獲りの話、本能寺の変のあと、秀吉が備中高松城から中国大返しという離れ技をして、明智光秀を討ち取った歴史も学んだはず。

そして、徳川幕府の時代になって平和な世になったものの、異教禁止、鎖国制度、身分差別制度の確立。

そんな徳川政権の江戸時代末期、越後の国に生まれた良寛さん、何を生きる指標にしたのかなぁ?

良寛さん、22歳から34歳頃まで、玉島の円通寺で修業中、その間、実家のある出雲崎では、越前敦賀から越後出雲崎に移り住んだ新興商人「敦賀屋」が競争相手となり進出拡大、出雲崎で一番の商家であった実家橘屋は没落。

良寛さんの父親は自殺、家督を継いだ弟もいろいろありました。

越後に戻った良寛さん、持ち寺のない托鉢のみで、清貧に生きています。

あの新潟県分水町の国上山の五合庵での20年、さらに10年、30年にも及ぶ山中生活・・・自信があったのでしょう。

良寛さん、現代風の云えば、フーテンの寅さんのようにおどけた人間にも映りますが、世相への冷徹な観察力、抜群の記憶力と集中力を備えていました。

良寛さんの深い人生観、社会観、宗教観は、時代、国を越えた世界に通用するものがあります。

対君君不語
不語意悠哉

良寛和尚を想う。

良寛さんを想うと、元気になる。

良寛さんの魂❗


百々のみちびき 円通寺。

2020年11月12日 | 日本の百々巡り。

岡山県倉敷市玉島にある円通寺を参詣。





円通寺の美しい境内、円通寺公園からの美しい景色、良寛さんが修行した曹洞宗の禅寺として観光地化しています。





良寛さんが修行されていた頃の円通寺は、柏島という小さな離島にありました。



倉敷市街地方向のこの界隈は、すべて海の中でした。

小舟で行き交うという交通不便だったという印象は、間違いです。

江戸時代には、舟というのは現代の車以上の移動手段としての価値がありました。

良寛さんの修行の地という事で、全国的にも有名な円通寺です。



昨年の同時期に、良寛さんの故郷越後(新潟県)まで足を伸ばしました。

玉島の円通寺、ここは、良寛さんにとって厳しい修業の地であったと伝えます。

僕のような俗な人間の感想として、良寛さん、ここは、心のパラダイス、桃源郷、極楽のような、今で言うならば、海外遊学、ハワイで暮らしているような修業感覚だったのではと想像しています。

良寛さんの懐かしい故郷出雲崎は、目の前は日本海、うっすらと大きな島影の佐渡島、冬には毎日鉛色の空模様、雪吹雪、荒々しい風、浪の音・・・良寛さんの心象風景です。

それに比べて、玉島の風景は、別世界、日々晴れ渡り、瀬戸内海はさざ波が輝いて、小さな島があちらこちらに浮かんで、その間を小舟が行き交う・・・良寛さんの異なる心象風景です。



良寛さん、22歳から34歳ぐらいまで、この円通寺での長い修業期間の身であったこと。

ほんとうは、玉島で、もっと長く暮らしたかったのではないかなぁ?

されど、良寛さんは、美しい風景の中での生活、暮らしを営むにも、不公平、不幸な人間が多く暮らしている矛盾、現実を、仏僧、禅師、和尚として身に沁みたのではないのかなぁ?

真面目に生きても変えられない身分差別、お墓、戒名まで異なる仏の世界でした。

良寛さんは、円通寺での悟ったこと書き遺しています。

自来円通寺
幾度経冬春
・・・・・
  ・
・・・・・
僧可可清貧

良寛さんの自戒の根本は、「清貧」であるべきだとして、生涯貫いたのです。

円通寺住職であり師である大忍国仙和尚を、後年、弟子であったことを誇りとしました。

師である国仙和尚の死の翌年、良寛さんは、諸国行脚ののち、故郷の越後に戻ります。

因みに、良寛さんは、百々という地名に懐かしさを覚えたかもしれません。

玉島の百々の近くは、春になれば今も「桃の花」が広がる美しい樹園が広がります。

玉島六島だった江戸時代は、どうだったのかなぁ?

良寛さんの故郷越後にも、百々という地域があるのです。

現在の上越市、妙高市にあり、今は上百々、下百々となっていますが、何故か、良寛さんの晩年の愛弟子貞心尼を連想します。

良寛さんの越後での後半生、彼の心の支えは、瀬戸内海の風景、国仙和尚の教え、そして「清貧」、そして、貞心尼との交流だったと思います。



去年痴僧今又来

袖裏 毬子値千金

一二三四五六七

良寛さんと童の遊んでいる声が聞こえてくるような気がしました。

良寛さんは知っているのです。

貧しい村の子らは、売られていくということを。

良寛さんは、円通寺で号「大愚」を授けられました。

桃花如霞挟岸発

今、大愚良寛禅師は、禅寺ではなくて念仏寺で眠っています。

曹洞宗大本山永平寺のある越前(福井県)の国を語ることを避けた良寛さん。

始まりは越後から、良寛さんに導かれた僕の百々巡りです。

備中玉島円通寺の宿泊施設良寛荘からの風景です。



良寛さん、越後も越前も、備中も備後もええ所です。


倉敷市玉島 百々。

2020年11月11日 | 日本の百々巡り。

倉敷市玉島にある百々(どうどう)地区は、山陽自動車道玉島ICを降りて、すぐ近くに位置します。

中国能力開発大学のグランドの隣りにあり、玉島ICからでも、歩いても行ける近い距離にあります。

真ん前の小高い山には、くらしき作陽大学、作陽音楽短大もあり、新幹線の新倉敷駅にも近い位置にあるのが、倉敷市玉島の百々です。

つまり、今まで訪ねた百々の中で、一番、「百」らしくない特徴のない宅地造成地になっていました。

百々公会堂という集会場の建物がありました。





不審者を見つけたら、110番通報します!(百々町内会)の案内板が張り付いていました。



それでも、昔の名残りだと思うのですが、百々という地域の誇りが垣間見えます。

百々への入り口に石柱が立っています。

その石柱を通り過ぎる向こう側から、百々地区です。




大正時代の十一月一日の刻印が見えます。



ここの百々地区は、新幹線の新倉敷駅、山陽道の玉島ICが開通してから、学校や企業の進出もあり、この界隈は大きく変容したとのことです。

それでも、「百」という残存エネルギーが微かに残っている地域でした。

感想コメントは、これぐらいです。

江戸時代までは、この界隈は、海辺の近かったのかもしれません。

あの良寛さんも、この界隈から舟に乗り、柏島の円通寺まで行ったのかと想像しながら、円通寺に向かいました。


岡山県美咲町百々。

2020年11月10日 | 日本の百々巡り。

美咲町百々(どうどう)に参りました。

この地域は、ちょっと分かりにくい住所になっています。



北和気路案内マップ・・・百々の地区範囲がよく分からないのです。



とりあえず、後醍醐天皇ゆかりの大宮神社に参詣しました。



とても清々しくなる神社でした。





宮司、瀧本さん宅に伺い、少しの時間、お話を聞かせていただきました。

病伏せるお身の上、申し訳なく、百々、大宮神社の由緒等々、お聞きしました。

奥様からも、いろいろと教えいただきました。

以前は、百々地区には百世帯ほどあったが、今は90世帯ぐらいとのこと。



鎌倉時代末期、この百々の地に後醍醐天皇が隠岐の島に流される途中に立ち寄ったとのこと。

(参考までに、鎌倉時代初期、承久の乱に敗れ、隠岐の島流刑になったのは後鳥羽上皇。隠岐の島は後鳥羽上皇の終焉の地となったが、後醍醐天皇は隠岐の島から帰還して鎌倉幕府を倒した。)

百敷に行き交じる人々の歴史模様がありました。

遠い古を思い出すような長閑な時間を過ごすことが出来ました。

感謝です。

百々(どうどう)に、百(もも)を見つけた地域でした。





美咲町百々・・・また、いつか。



さて、美咲町から、国道52号、53号を走り、岡山IC経由、倉敷市玉島の百々へ。

そして、良寛さんが居た円通寺までの約2時間の楽しいドライブでした。


百々とサムハラ神社 奥の宮。

2020年11月10日 | 日本の百々巡り。

良寛さんと円通寺のことを書くまえに、津山市加茂町にある「サムハラ神社 奥の宮」について書きます。

サムハラ(𪮷〓𪮷𪮇)神社・・・難しい文字で、漢字ではなく神文字だとのことです。



「神様に呼ばれた人だけが行ける神社」ということですが、今の時代はネットの時代、地元加茂町の方、観光協会、トラベルブックの情報源から誰でも行けるはずです。

祭神は、祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神。



つまり、伊勢神宮の天照大神の親神様だとのこと・・・世界唯一の宇宙一の神様ということ?

帰宅後、ネット検索すると、この超絶なパワースポットには驚かされました。

あの斎藤一人さんも、天之御中主神を信心しているとか。

是非、ここに集う皆様、是非共、ネット検索してください。

そして、もし「サムハラ神社奥の宮」を参拝しようと思うならば、僕のブログを参考してくだされば有難いです。

百々橋ならぬ百々参拝道です。

そう、このサムハラ神社が鎮座されているのは、日詰山という素晴らしく「百」に近い名のお山の名前です。

「百」の表意文字の意味は、日を吊り上げ、吊り下げていますからね。

僕が、まったく偶然にサムハラ神社奥の院に参拝できたのは、百々を訪ねた御蔭様です。

さて、まったく新しい視点で、サムハラ神社に参拝、感謝です。

日詰山には、室町時代以前には、百々城が築かれていました。

その後、戦国時代には落合城が築城されて、その頃に、サムハラという神文字が石碑に刻まれているのを見つけたことで、古代からのサムハラ信仰が一気に広まったとのこと。

江戸時代には、金刀比羅宮が、この日詰山の分祀されたとのこと。



明治元年、日詰山の麓(百々)に生まれたのが田中富三郎翁、人生百年を全うします。

まだ、セーラーもパイロット万年筆も無い、百年昔。

故郷の百々を愛した田中富三郎翁は、百x百の萬年筆の先駆者として、大阪から全国普及に努めて財を成したとのこと。

そして、郷里の日詰山の古い祠を、大阪で「サムハラ神社」を私財で建立したとのこと。

と、簡単に説明しましたが、さて、日詰山への参詣記です。

まずは、金刀比羅宮へ参拝、隣りの「荒神社」の祠にも参拝。



ちょうど、ここの宮総代か、氏子さんが、神事の準備作業をしている最中でした。

僕は、何にも考えず、声掛けして、「百々」「百」の地を訪ねて、このサムハラ神社に偶然、参拝したことや、いつものように「百」の歴史観を話していると、どうも皆さん忙しいのか、煙たがっている雰囲気、全く興味を覚えていない様子でした。

はて・・?

ちょっと境内をひと巡りして、もう一度、彼らのもとに行き、質問しました。

田中富三郎さんは、百々出身ですよね? 「はい」という返答でした。

皆さんも、百々の方ですよね? 「いいえ、中原です」という返答。

そういえば、サムハラ神社の住所は、加茂町中原であり、加茂町百々ではないのです。

しかも、皆さんは、サムハラ神社の氏子さんではなくて、地元の氏神様、金刀比羅宮の氏子さんなのだと理解できました。

例えば、百島の福田地区の方に「福」の効用、意味、素晴らしさを説明すれば興味を示すでしょうが、百島の本村地区や泊地区の方に「福は素晴らしい」と説明しても、今ひとつという感覚です。

百福となれば、食品業界の革命となったインスタントラーメンを思い出します。

田中富三郎翁・・・サムハラ神社に、ちょっと「百」を付けて欲しかったなぁ。

百々地区で生まれ育った田中富三郎翁・・・目の前にある日詰山から上がる日の出を毎日眺めていたはずです。

僕は、偶然、百々地区から参拝して、その証を見つけました。

気になる石の小さな鳥居を見つけました。

柱石には、田中富三郎と刻印されていました。



おそらく、田中富三郎翁は、幼い頃から、この場所から日詰山を眺めて、山に登っていたのかなと想像できる位置にありました。

因みに、ネット検索すると、サムハラ神社の参拝路は、百々の側からすると日詰山の裏手の中原地区になりますが、ほとんど通らない百々からの参拝路が有難く思えました。

「サムハラ神社」の御蔭様、写真で拝むだけでも御利益があるとのこと。

サムハラ、サムハラと唱えるだけでも御利益ありとのこと。

全国から熱心な信仰者が、ここに集います。

サムハラ神社奥の宮です。





深く七拝、強く八拍手・・・サムハラ、感謝。


津山市加茂町百々。

2020年11月09日 | 日本の百々巡り。

桃の国、晴れの国、岡山県の百々巡りをして参りました。

津山市、美咲町、そして、倉敷市玉島へ。



初めに、岡山県北東部に位置する津山市の百々(どうどう)まで出掛けて参りました。

中国自動車道津山IC で降りて、さらに北へ15~20キロほどの位置する加茂町(現、津山市)まで向かいました。



加茂町は、加茂川沿った美しい町でした。

地図を見ていると、やはり荒神山も青山もあります。

百々温泉の看板が見えたので、その指示通りに入ると、百々温泉は中原地区になっています。

その界隈をウロウロしていると、百々地区への道標を見つけました。



いつものように誰も歩いていないので、百々地区の集落をぐるりと廻って、二、三枚写真を撮って、次の美咲町の百々へ向かうつもりでした。



とりあえず、高い場所に上がって俯瞰するのがよいと考えて上がって行くと、一人百々地区の方が、偶然歩いていました。

お声掛けして、「日本中の「百」を巡るつもりです」と言うと、立ち話なのに盛り上がりました。



やはり、「百」への愛情に対して共感するのです。

この地域の会長も務めたこともあるという岡崎さん。

岡崎さんと・・・出会えて善かった!

僕が知る「百島」という地域性、歴史観、岡崎さんの「百々愛」と相通じるものがあるのです。

百という団結力、固い絆・・・そして、(隠れ砦の反対語の)隠さない砦、関所、軍の殿(しんがり)のような独特の歴史風土があるという共通認識です。

この百々には、源平の戦いの頃からの言い伝えが残っているとのこと。



寿永3年(1184年)、平敦盛を討ち取った源氏方の熊谷次郎直美、時に16か17歳の若武者だったとのこと。無常を感じた直美は出家して諸国を巡り、この地に立ち寄り、桜の杖を土に立てると根を張り、桜が咲いたとのこと。

・・・桃ではないのかなぁ?

別れ際に去ろうとすると、岡崎さんが一言。

「あの目に前にある山(日詰山)に、全国から人が来るんだよ」



よく聞いてみると、この百々出身で百歳まで生きた田中富三郎さんという方、大阪に出て財を成し、この百々から大阪に「サムハラ神社(現:西区立売堀)」を分祀、分霊したところ、現在は強力なパワースポットのような有名な存在地になっているとのこと。

岡崎さんのアドバイスの従い、帰り際、その奥の宮「サムハラ神社」に参詣しました。



吃驚仰天でした。

確かに、朝早くから、全国から参拝者が来られていました。

田中富三郎翁という伝説人物、サムハラ神社御参詣感想、等々は後日に。

別れ際、最後まで手を振ってくれた岡崎さんに感謝感激、拝。

さて次は、加茂町百々から、車で約1時間南下して、美咲町百々まで参りました。


百島愛。

2020年11月09日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
また、百島の宝が一つ消えました。

溢れる百島愛一筋だった藤田武士さんが亡くなられたとのこと。

藤田さんは、松下電器を退職後、故郷の百島に戻り、百島農園を立ち上げました。

ブランド化栽培として、瀬戸イチゴを世に出したのも藤田武士さん。

百島活性化の為の仕掛け作り、起爆剤となるような発想力、様々な活躍をされた藤田武士さん。

テレビ朝日の「人生の楽園」にも、ラジオにも出演されていたなぁ。

生前の藤田武志さんとは、一度もお話しをする機会がありませんでしたが、兄によると、父が元気だった頃には、我が家の実家にもよく遊びに来られていたとのこと。

藤田武志さんとの個人的な繋がりは、ほんのひと月ほど前に、Face book上で友達になったばかりでした。

百島のこと、百のこと、何もお話しできなかったことが、残念でなりません

昨日は、岡山県の百々巡りをしながら、こういう体験を藤田武士さんに直接伝えて、話してみたかったなぁ・・・と。

心より深く、ご冥福をお祈り申し上げます。

合掌