百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

お母ちゃん、ありがとう❗

2021年04月07日 | 人生航海
  • 趣味は、親孝行でした。

ひとつ趣味を失った悲しみは、その有り難さが身に沁みます。

山よりも高い、海よりも深い、親の恩。

親孝行という趣味は、不完全燃焼。

桜の花が満開の今、とうとう母は逝きました。

「死ぬことは、人間にとって最後の仕事」

と、語っていた橋田壽賀子先生。

橋田先生は、対岸の愛媛県今治市のお墓で眠るとの事。

橋田作品のテレビドラマをよく観ていた母・・・奇しくも、命日も荼毘に付されて、旅立つ日も橋田壽賀子先生と同日となりました。

橋田先生が描くような辛口のホームドラマではなく、和気藹々と、極めて身内だけのこじんまりとしたお通夜、家族葬を執り行いました。

コロナ禍の今、尾道の長者原から、母を見送ることができました。

兄貴達に感謝。

甥、姪に感謝。

母の孫、曾孫に感謝。

家内、息子に感謝。

曹洞宗西林禅寺ご住職に感謝。

母を笑顔にしてくださった皆さん全員に感謝。

 

お別れというのは、感謝の念しか湧いてきません。

お母ちゃん、ありがとう❗

合掌。


父の日 満艦飾

2011年06月19日 | 人生航海
1978年(昭和53年)の6月第3日曜日。

父と一緒に過ごした最初で最後の父の日。

たまたま、船が東京湾に停泊したため、父は、二人の息子に会いに来た。

当時の私は、21歳の大学生。

次兄は社会人兼大学生・・何故か、あの日は連絡が取れず会わずじまい。

結局、私が、背広姿の父を日曜日の東京案内することになった。

当時、日本一高かった池袋のサンシャインビルに上ったり、明治神宮を散策したり、新宿の小田急か京王デパートの屋上で雑談をしたことを思い出す。

アルバイトの報酬があったのであろう・・私は、デパートでカフスボタン買って、プレゼントを贈った。

夕方になり、「俺の下宿家に泊まるか?」と父に訊くと、嬉しそうに「行ってみるか」と答えた。

中央線に乗って、杉並区南荻窪にある私が暮らす下宿家まで行く。

風呂無し、賄い無し、共同トイレ、共同洗濯機、共同洗い場・・父が、大家さんに、そこそこの挨拶をして、私の部屋を案内する。

小さな部屋に万年床のような布団一枚・・「親子一緒にここで寝るよ」と言う。

父は、何一つ表情を変えずに「うん」

親子二人で、近所の銭湯(風呂屋)まで行く。

同じ布団の中で、父と子が、枕を二つにして寝る。

「結婚したい相手がいる」と父に話しかける。

「・・卒業して就職先をみつけて仕事や生活が安定して結婚しろ」と、その程度ぐらいの事を言われると考えていたが・・何も言わない。

「いい女か?」とだけ訊いてきた。

「わからない」と答えた。

翌朝の月曜日、荻窪駅近くにある喫茶店で、モーニングセットを食したあと、父は、職場である船へ。私は、講義のある学校へ・・。

当時、続けざまに三人の息子を東京の私立大学に進学させて、我が家の経済状態は、どれほど逼迫していたのかと想像できる。

翌年、末っ子の私が大学を卒業すると同時に、55歳になった父は、きっぱりと船乗りを辞めて陸に上がった・・仕送りをする事もなくなり、年金を貰える年齢になったからである。

父のいちばん輝いた時期は、30代と60代だったかもしれない。

父は、60歳になってNTTの百島販売代理店を開いた。

ダイヤル電話をホームテレホンやプッシュ電話に切り替えてほしいという営業販売である。

百島だけでは、ごく僅かな顧客数である。

物足りないので、松永局を皮切りに、売り上げがどんどんと伸びたせいか、NTTの情報月刊誌にも紹介されたらしい。

広島支社からも表彰状を受けて、尾道局、福山局エリアも開拓して営業をするようにと依頼があったのである。


(NTT時代の表彰状の一部)

毎日のように、父は、備後地区をバイクに乗って走り廻り営業に出て行った。

まだ、携帯電話が一般化されていない時代である。

70歳近くなった父は、ショルダーバッグのような大きな携帯電話を持ち歩いて、バイクで営業に出かけていたのを思い出す。

だから、百島の我が家は、今尚、電話がたくさんある。

トイレの中まで、電話がある。

70歳になり、父は、NTTの販売代理店を閉じた。

「跡継ぎが、いないからだ」と言っていた。

「電話屋の商売なんて・・」と、我ら兄弟は、正直考えていた。

・・が、まもなく携帯電話の時代に突入したのである。

船乗りにもなれず、父が暗示した道にも歩まず・・。

・・どうにかこうにか生きている。

父が、私の下宿家に泊まった日・・後日、母に言ったそうである。

「子も苦労している」

あの時の父の年齢(54歳)と、私は、同年齢になった。

・・子も親も大事。

親孝行は、親が生きているうちにする事が、誠の親孝行である。

今日は、父の日である。

父が、30代の頃・・である。

船乗りとして、父が、いちばん充実して最良の時期であったに違いない。

船長としての父の見栄であったのだと思う。

正月になると、百島の泊港の波止場に繋船して、国際信号旗を満艦飾で掲げていた。

新年の仕事初めの始発港を、百島にしていたのである。



(写真は、1963年(昭和38年)正月 百島 泊港にて 檜丸)

人生航海 第一部 ~あとがき~

2010年09月09日 | 人生航海
過ぎし日の想い出は、やはり、スラバヤやラバウルでの滞在時であり、他にマレー半島での初年兵時代と、終戦時の捕虜生活時代の頃である。

あの俘虜生活での食料難の苦しさは、今でも忘れる事はない。

当時の苦労を思い出すだけでも気が遠くなるくらいで、私達は惨めな毎日であったが、それをよく我慢してきたものである。

それ以前に、ラバウルでの大島大尉のご厚意がなければ、今此処に、私が生きている事は不思議であり、あの時に、もし帰国出来なかったら、現在はどんな事になっているのか分からない。

あれから、六十年近い歳月が流れ去ったが、今でも消息不明の方も多い。

スラバヤにて、世話になった方々のうち、何人もの方も戦死しており、消息不明の方も多くいる。

今尚、元気でいる方もいて、戦後、何人かの方に会う事も出来て、当時を懐かしく思い語り合った。

あの厳しい教育の最中で、苦労を共にした幹部候補生の相谷や吉谷達、特に仲の良かった同年兵とも会ってみたいと時々思う。

教育班長の井上軍曹、特攻艇の艇長だった小田軍曹の消息は、今も分からない。

他にも気の毒な方も多くいる。

そんな人達も大勢いる中で、こうして、生き延びてこられた事だけで、このうえ何よりも喜ばしい事で、幸せと思う他なく、嬉しく思わねばならないだろうが、何れにしても、この上好い事は無いと思うのである。

第一部 完 平成十六年十一月十日

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父が、帰国した昭和21年春・・故郷の百島の我が家に戻ると、祖父母は亡くなって、弟も亡くなっており、実家の跡継ぎである兄は、百島を出てゆく状態であった。

戦後、マラリアを患いながらの父の出発は、百島に居を構えて、跡継ぎとして、先祖のお墓と仏壇を守ることであった。

砂一合もないと蔑まれた貧乏家庭へ嫁ぐのかと・・母は、父と結婚する時に言われたという。

それから10年後の冬、私は、父の三男としてこの世に生まれて、父と出会うことになった。

私が物心ついた時は、父は、大阪、神戸と四国、九州を行き来きする瀬戸内海の内航貨物船の船長であった。

父が船長だった白鉢巻した煙突船のある関西汽船のスマートな貨物船は、子供心にも羨望にも似た気持ちがあった。

まだ、フェリー輸送や陸上輸送が全盛到来する以前・・昭和30年代の海上輸送が花形だった時代である。

父から教えられたことは、何だろう?

きっちりと人生の教訓を受けたことは何も無いのである。

「協調性やら人との和を大切にしろ」と言われたことはない。

「野放図な大胆な生き方をしろ」と言われたこともない。

「頭のいい人間は鼻筋が通って言う事もきちんとしている。おまえのような馬鹿は馬鹿なりに健康であれば身体を使って生きろ」と叱られた記憶がある。

唯、生きているだけで怒られ罵られても、そのあとに、笑える嬉しさや歓びがあれば、事足りるのである。

父に出会えたことに感謝である。

これで、亡き父の代わりに「人生航海 第一部」を あとがき 脱稿 とさせていただきます。

ありがとうございました。

第二部は、日を新ためて気分上々に。合掌。

夢に見た故郷へ

2010年09月07日 | 人生航海
船が岸壁に着くと、タラップを降りて、第一歩を踏み締めた感触と嬉しさで、それまでの全てが消え失せた。

婦人会の温かい歓迎を受けて、一人一人に「ご苦労様でした」とお茶菓子等の接待を受けて、その厚意に感謝するとともに嬉しかった。

上陸したその日は、名古屋の復員局に一泊して、それまでの軍隊での俸給等をすべてを精算して貰った。

一応、リバテー乗船の事を聞くと、思った通りで、「何も関係無い」と言われたので、安心して、夕方、夜行汽車に飛び乗ったのである。

そう、夢に見た故郷の百島へと・・名古屋駅から尾道駅に向かったのである。

祖国へ 2 ~郷愁の念~

2010年09月06日 | 人生航海
航海中は、少しは凌ぎ易くなったが、幾ら暑くても、あと何日か過ぎれば、日本へ帰れるのだと思えば、それほど苦にはならず、皆も、やはり歓び勇んでいた。

人は誰しも故郷を遠く離れると、生まれ育った処は、どんな田舎でも忘れることは出来ないものだ。

郷愁の念は、いつも、いつでも、いつまでも、どんな時でもあった。

椰子の葉陰やゴムの木の下で、遥か遠い北の空を仰いで、今は亡き両親や祖父母、そして、小さな弟や妹を思い浮かべた。

懐かしさのあまり、幾度も一人涙したこともあった。

そんな過ぎし日の数々を思い出しながら、船は、夢にまでみた日本に、日一日と近づき、航海を続けていた。

船は、北上を続けて、八日目には鹿児島沖を通った。

櫻島から噴煙が立ち昇るが見えて、誰かが「あれが櫻島だ。日本に帰って来たぞ」と叫ぶと、その声で次々に、皆が甲板に出て来た。

懐かしそうに眺めて、何年ぶりかの祖国を見て、感涙する者もいた。

そして、四国も過ぎて、紀伊半島を周り、十昼夜目に、長い航海を終えて、ようやく祖国の名古屋港に無事に入港できたのである。

祖国へ 1 ~リバテー船上 歓びと悲劇~

2010年09月05日 | 人生航海
乗船するまでは、随分長い時間を待ったはずだったが、この船で日本に帰れると思うと、少々位の時間待ちは何も気にならず、歓びで一杯だった。

皆同じ気持ちらしく、大勢の兵隊で岸壁は大変な賑いだった。

そんな混雑の中で、リバテーの乗船係りは、その整理のために忙しく働いていた。

そのうち、いよいよ乗船が始まり可也の時間を費やして、何とか全員が乗り終えた。

船倉に入ると、大勢の兵隊がすし詰め状態で身動きも出来ないほど窮屈であった。

そのうえ暑さで、蒸し風呂のようであり、出港もいくらか遅れたようでもあった。

ようやく船は、岸壁を離れ動き出すと、通風筒から風が入り、幾らか涼しくなった。


復員船リバテーの船員は、2~3人のアメリカ人の指導で乗船していたが、殆ど日本人であった。

いづれ、この私も、帰国後は、こんな船の船員になると思っていた。

名目は、リバテーの乗組員として採用されて帰国するので、内地に着く早々、乗船させられると思っていたのである。

その話を、若い甲板員に聞いたが、仕事は、案外楽でも、兵隊が大勢乗るのが厄介だと言っていた。

嬉しいはずの帰国への航海の途中に、兵隊と上官、初年兵と古兵との間で、お礼参りとか言って、夜間に甲板に呼び出しては、袋叩きにする出来事もあった。

もっと悲しい事件は、夜陰に紛れて海に突き落とした話があったのも多くの事実である。

それも、戦争が残した悲劇なのか・・。

捕虜時代(俘虜生活) 8 ~さらばラヤンラヤン~

2010年09月04日 | 人生航海
こうして、部隊で私が唯一人だけ、一足先に帰国が出来ることになった。

その時は、帰国の喜びで、天にも昇る心地であったが、あとに残る人のことを思うと、何故私一人なのかと・・やりきれない気持ちもあった。

復員が決まり、中隊長や他の将校や班長にも申告して、リバテー(復員)船の入港を待つことになった。

いよいよ別れの時が近づくと、もし家の近くに行く事があれば、「元気でいる」と伝えてくれるようにも頼まれた。

そして、愈々その日を迎えたが、常夏の国の事で季節もはっきり分からない状態だったが、昭和21年の春であった。

ともに苦労をしてきた初年兵達とも別れを惜しみ、ラヤンラヤンをあとにした。

トラックに乗って、シンガポールまで・・いろんな想いが駆け巡った。

それまでの日々を振り返ってみると、ボルネオでの現地入隊してからは、地獄のように思えた日々もあり、いろいろな事がありすぎた。

生涯の中で、あの時が、最悪の時代であったのは確かである。

が、敗戦の出来事や俘虜生活での食料難等の辛さや苦しさを経験したことは、何ものにもかえ難いものであったといえる。

あの悪夢は、一体全体、何だったのであろうか・・しかし、いつの間にか、それをも消え去ろうとしている。

シンガポールの岸壁に着くと、そこは既に大勢の復員者で喜びに溢れているように思えた。

乗船まで待つ時間は、過ぎし日々の多くの想いが甦り、待つ時間の事などは少しも気にならなかった。

ただただ、帰国できる喜びだけで他には何もなかったのである。

捕虜時代(俘虜生活) 7 ~タピオカと船員募集~

2010年09月03日 | 人生航海
俘虜の生活と言っても、敗戦の兵としての扱われ方が良かったなのかもしれない。

ましてや、私は高熱の病におかされて苦しい時もあったが、「災いが転じて福」となった。

自分勝手な言い分かもしれないが、強い運勢に助けられたと思うのである。

そんな事を思うと、何とか生き延びてこられたのが不思議なのである。

そんな頃である。

或る現地人が、戦争中に日本軍のお陰で、事業が成功した恩返しにと・・タピオカ芋を植えた大きな畑を、そのまま私達俘虜に提供してくれたのである。

各部隊は大喜びで、交代で掘りに行くように決めた。

タピオカ芋は、日本の桑の木のようにみえ、その根は山芋に似ているが、中身は全く違って白く、蒸して食べれば、とても美味く、主食代わりにもなった。

それ以後、食べることにも困らず、皆から大変喜ばれたのである。

その頃は、まだ敗戦の惨めさの中では帰国のことなど、ある程度の諦めもあったことは事実である。

しかし、その後何ヶ月か過ぎた頃に部隊からの通達があった。

「アメリカの復員船リバテーの乗組員を募集するので、応募する者は誰かいないか?」と聞かれたのである。

私は、早速、希望して書類に必要事項を記載して提出した。

あとで分かった事であるが、その時のリバテーの船員募集の理由と目的の本位は、乗組員の募集ではなく、一人でも多く復員させるためであったらしい。

私が、元船員であった事は、誰もが知っていたし、部隊内では、他に船員の経験者は誰もいなかった。

そこで病気等も考慮されて、私が一番適当だということになったのであろう。

部隊の中で、私一人だけが採用される事になったのである。

捕虜時代(俘虜生活) 6 ~幸運~

2010年09月02日 | 人生航海
高熱のため、当分の間、休むことになった。

それ以後、私の健康状態はBクラスとされ、労働作業は無理だということになった。

熱が下がっても、作業に出ることはなく炊事班で働くことになったのである。

その為に、食べる事には心配がなくなったが、その時は、幸か不幸かは分からなかった。

あのお腹が空いて困った時に、炊事場で働く者は、確かに役得だと皆は言っていたが、他の人達のことを思うと、後味の悪い思いもしたのである。

しかし、それらもみな、あとあと振り返れば・・「私は幸運であった」と言ってもよいのかもしれない。

そのお陰で、復員の日までに健康も取り戻して、帰国が出来たのである。

捕虜時代(俘虜生活) 5 ~マラリア~

2010年09月01日 | 人生航海
他には、恥を偲んで近くの農家に行き、畑の手伝いをするからと頼んで、どんな仕事でも嫌わずに働いた。

その見かえりに、芋類や野菜を貰ったりしたのである。

また、連合軍の指揮下にあっても、それまで通り、日本軍の軍規を維持して違反者には、当然厳しい罰則を定めていた。

一目でわかるように、階級章もそれまでと同じようにつけていた。

その為、私達初年兵は、いつまでも、皆からは一番下の兵隊として扱われて命令を守らされていたのである。

戦犯としての兵隊の扱いは、目立つほどではなく、ある程度の使役を割り当てられて、連合軍兵舎の掃除や炊事等をさせられたり、他に道路の掃除や草取りもあった。

私達は、時々、港の埠頭に連れて行かれては、倉庫の整理や色んな使役にも出て働かされた。

倉庫の整理に行った時など、水筒に米を入れて持ち帰る者もいたことを思い出す。

その頃、私は、疲れからか・・突然、高熱が出て倒れてしまった。

軍医の診断を受けると、テング熱かマラリアだと告げられた。

捕虜時代(俘虜生活) 4 ~かたつむり~

2010年08月20日 | 人生航海
何を言ってみても、敗戦国の軍人であり、捕虜として扱われるのは当然であり、案外軽い処分で済んだと思った。

捕虜として、まず自分達の住む場所を作る事から始めた。

近くのジャングルから適当な木を切り出して、棟木や柱等をつくり、手分けをして、茅をきり集めて、藁葺きの家を何棟も作った。

ゴム林は、幹の間隔が等しく植えられてあり、その幹と枝を利用して作るので、案外簡単に出来た。

僅かの日数で、全員の力によって、仮宿舎は出来上がったのである。

元工兵隊であったので、本業同然なので、建物を造るぐらいは、簡単な事であった。

他の悩みは、食べる事であった。

連合軍の配給では、とても足りるものではなかった。

生きる為、野草を探したり、ジャングルの川で魚を捕ったり、デンデン虫を食べた事もあった。

デンデン虫は、灰で揉んで、ヌルヌルを除いて、炊いて食べたのである。

捕虜時代(俘虜生活) 3 ~収容所~

2010年08月19日 | 人生航海
長い地獄の道程もようやく終わった。

何が何でも、その困難を乗り越えて、帰国できる事のみ願った。

そのせいか、一人の落伍者も出なかったのは不思議なぐらいであった。

着いた所は、ラヤンラヤンというゴム林で、そこが私達の収容所であった。

到着早々、休む暇もなく尋問が始まって、一人づつ個々に調べられる事になった。

特に、戦闘に関しての事を訊かれたが、私達初年兵には、何にも心配もなく終わったのである。

尋問は、一応何事もなく終わり、身体検査と所持品調べになった。

越中褌だけの裸で、野戦郵便貯金通帳を褌の紐に挟んで、他の私物品も調べられた。

腕時計やライター等の珍しいものは殆どが取り上げられて、残されたのは、背嚢と軍服類と毛布に日用品ぐらいであった。

こうして、最後の事情聴取と検査も何とか済んだが、戦犯は、連合軍の判断で三段階に分けられた。

ブラックとグレーとホワイトの三通りのテントがあったが、運良く私達初年兵はホワイトのテントに入れられた。

もし、ホワイト以外のテントならば、重労働が科せられたのである。

捕虜時代(俘虜生活) 2 ~地獄の道程~

2010年08月18日 | 人生航海
その後は、手足をもがれた蟹の如く、連合軍の指示で行動する他なかった。

仮の収容所に入り、此処で当分捕虜として扱われて、この先の収容所が決まるまで過ごした。

全ての乗り物は没収されて、大八車だけが認められた。

その大八車だけを頼りに、それまでの荷物全部と持っていた主食品等の全てを仕分けして、歩かされる事になった。

まず命の糧である食料が大事と思って、何台もの大八車に積んだ。

行く先も分からないままだったが、それも捕虜に対する罰則なのか・・昼夜の別なく歩かされた。

大八車を交代で引いたり押したりしながら、昼間に歩くには余りに暑いので、なるべく睡眠は、木陰で昼間にとったのである。

食事は飯盒炊飯で行い、主に夜の間と言っても、毎日歩き続ければ、足に豆が出来る。

痛んで歩けなくなって靴を脱いで、裸足で歩いてもみた。

少しの間は、足は軽くなった様でも、やはり長歩きをすると痛かった。

それは、地下足袋に替えても同じだった。

そんな状態で、どのくらい道を歩いたかも、よく憶えてない。

人間は、不思議である。

疲れた時には、眠くなると・・大八車に手を添えたまま、歩きながらもぐっすりと寝込める事も、この時に分かったのである。

昼間は、少し歩いては、小休止と大休止を繰り返し、日暮れを待って、また歩き続けていたのである。

捕虜時代(俘虜生活) 1 ~武装解除~

2010年08月17日 | 人生航海
悪夢のガス弾投棄は漸く終わったが、隊内では、武装解除問題が起きた。

血気盛んな兵隊達が大勢いて、大和魂を誇りとして、如何に終戦になったと雖も、陛下よりお預かりした兵器を敵に渡すのは偲び難いと言う。

菊のご紋章の刻印を、敵に汚されないようにと、ご紋を全部削り落としたのである。

何と言っても、敗戦は事実であり、戦争に負けた事は変わりなく、どうする事も出来ない儘に、その後も色んな情報が飛んでいた。

そのうち、連合軍の指揮下に入った事を知り、近々武装解除を行う事も決まったが、武装解除の場所は、しばらく何処になるのか、皆わからなかった。

そして、クアランプールの駅に行って汽車に乗る時であった。

その際、日本軍に対して、それまでの感情が一気に噴出したのか、現地人達が駅のホームなで押し寄せて、いろんな罵倒を浴びせられて、窓ガラス越しに唾を吐いて、小石を投げる者もいて、一時、不穏な空気が漂ったのである。

その時は、まだ武装解除前で、小銃等の武器は皆持っていたので、下士官の誰かが、腹立ち紛れに「この野郎、一発ぶっ放そうか」と銃を手にして興奮したりもした。

上官に「我慢しろ」となだめられて、その場は何とか収まり、そのうちに汽車が動き出した。

我々は、どこかの小さな駅で降ろされて、そこで武装解除が行われた。

既に、会場は準備が出来ていて、印度(インド)軍側の隊長は少佐であり、我が方の部隊長は中佐であった。

そして、敗戦国の悲しさで、我が方の部隊長が、先に敬礼する。

武装解除の儀式は、部隊長が相手の隊長に敬礼して、軍刀を渡して終わったのである。

初年兵時代 6 ~悪夢~

2010年08月16日 | 人生航海
ようやくして、本隊に復帰したが、そこではまだ、大きな動きはなかった。

それから、数日過ぎた頃に、隊内でも古年兵が両手を掲げて見せ「どうも日本軍は、これらしいぞ」と広まった。

そして、敵の飛行機が日本軍敗戦のビラを空から落とすようにまでになった。

それでも、中隊長は、隊全員に訓示を行い「日本軍はまだ戦争に負けていない。敵のデマにのるな」とビラの回収に躍起となっていた。

さらに、各民家を廻り、ビラの回収を命じたのである。

そんな事をしても何の役に立たず、遂には、当時に南方軍最高司令官であった寺内元帥の戦闘行為の停止命令が発せられた。

事実上、戦争は終結したのであるが、それ以後は、中隊は、大きな問題を背負わされる事になったのである。

国際法違反を恐れた上層部の命令で、多くの違法ガス弾を舟艇で海洋放棄することになり、その役目が、私達の船舶隊に課せられたのである。

船舶工作隊であった為に、各部隊から終戦処理として、その後当分の間、秘密に海洋投棄を行う事になったのである。

その為、各部隊は、毎日、ガス弾を運び込み、大発艇や小発艇に積んで、沖の船台から海中に捨てた。

その現場を見られないように、各所で見張りの舟艇を配置して厳重に監視した。

しかし、そんな事とは露知らない現地の漁船が漁に出ていたが、監視船に見つかれば、絶対に見逃してはいけないという命令があったのである。

その船台に連れて来られたら最後で、幾ら可哀想と思っても、命令を曲げられないと云って殺害をしたのである。

何の罪もない漁師達を、初年兵達に命じて、無理に縛って弾薬庫とともに海中に突き落としたのである。

罪のない命を奪った・・軍刀で試し斬りとばかりに阿鼻叫喚と化した地獄図絵でもあった。

突然に捕われて命を奪われた人達の中には、その直前に何かを観念したのか、諦めて、静かに目を閉じて、両手を合わせる人もいた。

それほど、哀れで、可哀想に思ったことはなく、当時の私達新兵は、何も出来ず、何の術もなかったのである。