運輸本部に退院報告をして、総ての手続きを宇品の司令部に依頼した。
約一ヶ月位の入院生活であったが、運輸部に戻ってみると軍属の募集や徴用で大勢の軍属や工員達がいて、転用組も含めて次期作戦に備えている事が直ぐ分かる雰囲気だった。
退院後、一度休暇を貰って、父母の墓参りに帰りたいと思ったが、そんな様子の折、個人的な休暇を申請するのも無理だと思った。
休暇申請は、取り止める事にして、退院した事やその頃の状況、墓参りも無理な事を伝えて、いずれ近いうちに必ず帰省するからと・・百島の実家に手紙を書いて送った。
その頃、軍属と工員の新しい編隊が出来ていた。
その新しい編隊の教育指導の責任者となる教官が、運輸部に赴任してきた。
教官は、戦地で片腕を無くした元退役将校で、傷痍軍人として、ある上司に推薦された立派な人格者だった。
その当時は、「軍国の花嫁」と言う言葉が、一般に流行っていた頃だった。
その教官の奥さんもその一人で、毎日、宇品近くの家から、夫の教官に弁当を持って通う軍国の花嫁だと尊敬されていた。
そんな折に、全員に自筆で住所と氏名を丁寧に書いて司令部に提出する様にとの通達がああったのである。
その後、三名に事務所から呼び出しがあり、その中に私の名前もあった。
提出された文字の筆跡やその他を総合して、三名を選んだと言われた。
そして、事務職員として働くようにとの採用通知の指示書を渡されたのである。
約一ヶ月位の入院生活であったが、運輸部に戻ってみると軍属の募集や徴用で大勢の軍属や工員達がいて、転用組も含めて次期作戦に備えている事が直ぐ分かる雰囲気だった。
退院後、一度休暇を貰って、父母の墓参りに帰りたいと思ったが、そんな様子の折、個人的な休暇を申請するのも無理だと思った。
休暇申請は、取り止める事にして、退院した事やその頃の状況、墓参りも無理な事を伝えて、いずれ近いうちに必ず帰省するからと・・百島の実家に手紙を書いて送った。
その頃、軍属と工員の新しい編隊が出来ていた。
その新しい編隊の教育指導の責任者となる教官が、運輸部に赴任してきた。
教官は、戦地で片腕を無くした元退役将校で、傷痍軍人として、ある上司に推薦された立派な人格者だった。
その当時は、「軍国の花嫁」と言う言葉が、一般に流行っていた頃だった。
その教官の奥さんもその一人で、毎日、宇品近くの家から、夫の教官に弁当を持って通う軍国の花嫁だと尊敬されていた。
そんな折に、全員に自筆で住所と氏名を丁寧に書いて司令部に提出する様にとの通達がああったのである。
その後、三名に事務所から呼び出しがあり、その中に私の名前もあった。
提出された文字の筆跡やその他を総合して、三名を選んだと言われた。
そして、事務職員として働くようにとの採用通知の指示書を渡されたのである。