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広島宇品編 8 ~太平洋戦争勃発~

2010年06月17日 | 人生航海
いよいよ、宇品港からの移動となった。

初めは行き先を明らかにせず、南支の広東とかと聞いていたが、台湾の高雄に行く事になり、乗船する船名も決まっていた。

大阪商船の佐倉丸で通称「サ型」と言って佐渡丸、讃岐丸、相模丸、佐賀丸・・他に何隻もあったが、当時の新型貨物船で20ノット以上の速力があり、その頃では優秀な貨物船だった。

当時、大阪商船の大の字マークは有名だったが、黒く塗られていた。

私達軍属隊は約50名で編成されていて、停泊部隊の分隊であったが、私達が乗船した佐倉丸には他の兵隊も多く乗船していた。

数日後、台湾の高雄港に入港して、その日に下船となったのである。

そして、トラックに乗せられて、着いた所は、とある小学校だった。

そこで当分滞在したのである。

しかし、その後の事は一切分からずに、ただ待機という他に何も知らされないまま、何事もなく毎日を過ごしたのである。

そんな退屈な日々が当分続いて、早く行き先が決まればよいと思っていた。

それから、しばらく過ぎたある日、広東方面に行くと聞いたが、行く先も何も分からないままに、その夜のうちに全員乗船して、翌早朝に高雄を出港した。

一昼夜ぐらい航走して、何処かに停泊したように思ったが、上陸の気配は全くなく、詳しい事は何も知らされず、船内にて二日間ほど待機して待った。

そして、再び行く先が変更になったのである。

此処まで来て、また、宇品に引き返すと聞いたのである。

いかに、軍の作戦と云えども、無駄な事をするものと思った。

そんな日々の折り、あの昭和十六年十二月八日を迎えたのである。

日本海軍が、ハワイの真珠湾攻撃を行ったのを機に、アメリカ、英国に宣戦布告を遂に発したのである。

戦争となる事は、既に予期した事であって、宇品港では慌しさも増して、軍人、軍属の移動も目立っていた。

日本全国が、一致団結して、非常事態にあたり戦争に備えていたのであった。