百島ファンクラブ 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

月の顔。

2020年10月27日 | 千伝。
この頃、夕暮れになると、南の夜空を見上げます。

木星と土星が、光輝いています。

東の方向には、まもなく十三夜の満月となるお月様。

こんなに近くで、木星と土星が耀くのは、20年に一度だとか。

20年後・・・ちゃんと死んでるかな? まともに生きているかな?

車も、自分同様、老化現象です。

車を走らせていたら、向こう側から、どこかで見たような対向車が走って来ました。

運転しているのは若い男で、ずっとこっちを見ています。

何だろうな?

すれ違った時に、クラクションを鳴らされました❗

何か悪いことをしたかな?と思いながら、リアウィンドウで、相手側の車を目で追いましたが、何か言いたげにゆっくりと走っていました。

すると、スマホに電話が鳴りました。

息子からでした。

対向車は、息子だったのです。

僕は・・・呆けてしまったのかな?

もう1つ、気にかかる勘違い。

今年末には65歳になって年金も貰えるので嬉しく思っていたら、先日の定期診断の時、何を勘違いしていたのか、あと1年待たなければならない事に気がつきました。

まだ今日現在、63歳10ヵ月です。

車の窓が、動かなくなりました。

脳神経となるバッテリーを新品に替えたばかり、今度も部品交換で修理に3日程要するとのこと。

人間に例えるならば、延命治療です。

生きる、生かすのには、生活費、治療費も必要となります。

今日から三日間は、代車を使用です。

新車に乗っているような感覚です

71歳になるまで正職で働くか、65歳からフリーターで働くか?

ドライブ感覚で、近場を紅葉狩りです。



芝生広場には、常滑や瀬戸、備前の陶芸作家の作品を見ながら散策出来ました。







イサム・ノグチの作品。


岡本太郎の作品「月の顔」


冴えない顔をしています。

月は冴えていないとね❗

月や星からは、希望の光が見えないとね❗

百人一首 百番歌。

2020年10月25日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
百人一首、最後の百番目となる和歌は、百敷から始まります。

鎌倉時代初期、選者の藤原定家の面持ちを推し測ると、見事としか言い様がありません。

百番歌
百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)のしのぶにも なほ余りある昔なりけり
(順徳院)

〈意味〉
百敷とは、宮中(大宮)を意味します。
宮中の古い軒端に忍ぶ草を見て、遠く華やかだった昔の往時を偲ぶ刹那さ。

作者の順徳院は、第84代の天皇です。
父親の後鳥羽院と朝廷復権を旗印に「鎌倉を討て」と承久の乱を起こしますが、鎌倉側の武士に敗れて、後鳥羽院は隠岐の島に、順徳院は佐渡島へと流刑の身となります。

平安貴族の権力の終焉でもあります。

政治の実権は鎌倉幕府へと変わり、幕府と朝廷の力関係に配慮して、当時は、後鳥羽院、順徳院親子が詠んだ和歌も封印されたとのこと。

にもかかわらず、政治的立場を超えて、藤原定家(京極中納言)は、優れた歌人百人の中に、九十九番目に後鳥羽院、百番目に順徳院、流刑された二人を選んでいます。

現代風に例えるならば、政治力学よりも芸術文化を優先させたのでしょうが、それよりも、人間としての定家は、敗者にも弱者にも、必死で生きた者に対して、平等な立場の選者でいます。

優越的な上から目線で嘲笑う事はしていません。

僕の個人的な興味視点に戻ります。

昔昔、百人一首で「百敷」という言葉を見ても、余り深く考えもしなかったのですが、この頃、「百」が付く各地の地名を調べたりしていると、近くに大宮神社とかも現れます。

「百」という文字には、古くから宮中(大宮)に関連した「まつりごと」の意味合いもある事が判ります。

でも、「百」には、桃太郎の「桃」のように、鬼を退治して、人様を助けるようなパワーがない❗

昔を偲ぶだけの「百」では、寂しくなります。

先日、普通救命士講座に参加しました。

人様を助けるのには、体力もハートの強さも必要です。

災難に遭うときには、災難に遭うのがよい、これが災難から逃れる唯一の妙法と言ったのは、良寛和尚さんでした。

人間は、この世に裸で生まれてきたから、何も所有していないとのこと。

だから、人生には、不要なものが多すぎて、その不要なものを、何故か人間は多く必要とします。

剣の達人になると、刀で人を殺すことはしなくなり、剣術を教え人を生かそうとするようです。

つまり、人目のつかないところで、よい行いをする事に繋がるのでしょう。

平安時代の貴族の言葉、文字の情感に、驚かされてしまう小倉百人一首です。

17番歌
ちはやぶる神代(かみよ)もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは
(在原業平)

99番歌
人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふ故にもの思ふ身は
(後鳥羽院)

百は、表意文字です。

文字、言葉は、素晴らしい❗

その時の気持ちが、何百年過ぎた後も、文字通り今に伝わって来ます。



灯台 百の地を歩いて。

2020年10月20日 | 日本の百々巡り。

これは、あくまでも個人的な見解です。

不思議なのは、青山と白山という名称が、「百」が付く地域の近くによくあること。

そして、「百」が付く地域は例外はありますが、何故か街中にはありません。

過疎地域ばかりです。

しかし、百という地域への独特の愛着、誇りなのでしょう。

余所者が現れると、他者を寄せつけないような警戒心が動きます。

昨日、愛知県伊良湖岬から、フェリーに乗って、三重県鳥羽へと渡りました。



正確に言えば、35年ぶりの乗船でした。

バイクに乗って、東京から伊勢まで取材仕事に行きました。

あの当時の若い頃は、有名地、歴史検証、景勝地ばかりが目に入り、「百の地」は、映りませんでした。

35年昔の自分を思い出しながら、昨日の帰りは、大阪経由で福井へと帰りました。

あべのハルカスという、今は日本一高い高層ビルを眺めても、何だろうな?

伊勢湾に浮かぶ神島を思い出していました。

そして、伊賀の国名張(神屋)にある百々の里。



・・・潮騒、胸騒ぎ。

海の水賊は、山に移り住み苦労したと思います。

山の山賊も、海に移り住み苦労したと思います。

瀬戸内海の海賊が畿内に移り棲んで、その子孫が山賊、忍者になった。

畿内の山賊が瀬戸内に移り棲んで、その子孫が海賊、船乗りになった。

百々を歩いて巡って、間違いないと考えます。

ただ、今更ながら高齢になって歴史検証も学習もしたくないというのが本音です。

楽しく「百の地」への観光巡りで好いかなぁ。

仮称「百敷行き交う小さき行路(本部:尾道市百島)」。


伊賀国 名張市百々。

2020年10月19日 | 日本の百々巡り。

伊賀盆地と言えば、現在は伊賀市と名張市にまたがる伊賀忍者の拠点として知られています。

この地域には、「百」が付く地名が多いのです。

伊賀忍者は、上忍三家(服部、百地、藤林)を中心として、金銭による各地の雇い主と傭兵契約をしていました。
(因みに余談ですが、一方、ひとつ山を越えた甲賀忍者は合議制で成り立ち、主君が変われども、甲賀の支配大名に従い仕えていたとのこと。)

何故に、伊賀の里には、「百」が付くの地名が多いのかな?

百地三太夫(丹波)の百地家が実効支配していた伊賀盆地南部、現在の名張市まで出掛けて参りました。

まずは、名張市百々・・・ここに辿り着くのには大変でした。

カーナビ、スマホのマップが誤作動するのです。

役立つのは、やはり地図帳かもしれません。

奈良県に隣接した三重県の名張市。

伊勢湾沿いから考えると、山奥の三重県最深部の地域となりますが、そうでもあるようで、そうでもありません。

名張市は、大阪まで1時間弱で行ける通勤圏内に位置するのです。

だから、山の中腹にドンキーホーテのメガ店があり、何でこんな所に・・・??、と疑問に思いながら、道を上がると、ビックリです。

広島や横浜の郊外で現れるような、山の頂きまで続く宅地造成地が急に現れるのです❗



百々地区は、どこだ?

この宅地開発に呑まれたのかな?

と思いながら、カーナビの指示通り、迷路を進みます。

山の中へと向かう細い登り道に入れという指示・・・これはオカシイ。

カーナビを終了して、逆に下りの道を降りたら、人の姿があり、道順を聞いて、やっと到着。



美しく映える集落でした❗

現在の桃源郷かと見間違うほどでした。

狭い百々橋を渡り、百々地区に入ります。



誰も歩いていません。

春には桜、秋には紅葉が冴え渡るのだろうなぁ。

流れる川は、百々川です。



百々文化会館という建物がありました。



ですが、過疎地域なのでしょう。

住民が居ないのです。

しばらく、手入れもなく、使われていない雰囲気でした。

帰り道、柿ノ木の柿を取っている御夫婦かな?

ちょっこと挨拶して、百地三太夫の屋敷跡地を教えて頂きました。

ここ伊賀国名張の百々地区には、百地という名字が多いのです。

もう少し、お話しを訊いて見たかったのですが、やはり突然現れると不審者に映るのでしょう。

ほんとうに、自己紹介できる名刺が必要かもしれません。

秘境の桃源郷とは言いませんが、ほんとうに美しい百々地区でした。

百々地区から、約10キロ程、西に向かいます。

百地三太夫の屋敷跡地、秘境に入るような道をどんどんと上がります。

すると、急に開けた隠れ里のような農村が現れます。

地元の方によると、先祖代々から伝わる話では、この界隈にあったそうです。



ちなみに、この向こうの山の反対側には、女人高野「室生寺」があります。

直線距離にして、約5キロぐらいかな?



ちなみに、この後ろにある山の裏手には、景勝地「赤目四十八滝の渓谷」があります。

直線距離にして、約3キロとのこと。

おわりに、ここより、北方向約20キロ程離れた所にある百々苦離地蔵尊に参詣。



感謝。


田原市六連町百々(どうどう)。

2020年10月19日 | 日本の百々巡り。

田原市は渥美半島のほぼ丸ごとを市域としています。

その西南の先端が伊良湖岬となります。

東西約50キロの表浜沿岸(太平洋側側)のほぼ中央に、百々海岸があります。

この地では、どうどう(百々)と呼びます。

地元では、サーフィン、海亀の産卵地としても有名だとの事。

その百々地区まで、出掛けて参りました。



まず驚いたのは、地元の百々神社が大変立派だった事。





中段の中庭には、大きな池があり、鯉や鮒がいっぱい泳いでいました。

祭神は、天照大御神だとの事、さらに稲荷神社も鎮座、一緒に祭っておられるのです⁉





氏子に資産家が多いのかな?

この百々地区は、江戸時代には三河国吉田藩(現、豊橋市)の直轄地だったとのこと。

何かしら、昔から素晴らしい土地柄だったのでしょう。

百々陶器窯跡(国指定史跡)を見学。







百々集会場の傍らに、小さな花壇が植えられていました。





「百」への愛着が伝わってきます。

「もも」、「どど」から「どうどう」へと呼び名が変化した経緯に、何かしらの要因が過去にあったのでしょうが、それはそれ。

また、行きたくなる田原市の百々(どうどう)地区でした。



「椰子の実」を口ずさみながら、伊良湖岬をあとにしました。
 
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
 ふるさとの岸を離れて なれ(汝)はそも波に幾月

もとの木は お(生)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
 我もまた渚を枕 ひとりみ(孤身)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
 海の日の沈むを見れば たぎ(激)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々 いずれの日にか くに(故国)に帰らん


不二山裾野。

2020年10月10日 | 千伝。
昨日は、ノーベル平和賞の発表がありました。

今年の受賞は、世界食糧計画。

今年もノーベル平和賞逃したと言われてしまう日本被団協。

ノーベル平和賞を狙う為に核兵器廃絶運動を行っているのではありません。

平和な社会、平和の日々が、まだまだ何百年も続きますように、僕らは希望するのです。

さて、30年昔、40年昔から、学校も仕事も在宅なら嬉しいなぁ、それも週休3日制、4日制にならば尚更人生楽しいだろうなぁ🎵・・・子供の頃から、そんな事ばかり考えていました。

そんな生活環境に舵取り、経営努力をする企業の株価が上がる時代になりました。

やっと、そんな新しい生活の黎明期になりつつある今の日本社会です。



日本の未来は、明るいのかな?

5年後の2025年、大阪の此花区舞洲で開催予定の関西万博。

テーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Society for Our Lives)」

サブテーマは、「多様で心身ともに健康な生き方」と「持続可能な社会・経済システム」

つまりは、「人類の健康・長寿への挑戦」とのこと。

さらには、富士山山麓にある裾野市に、来年の2021年には、トヨタが、人とクルマ、人と社会が通信で繋がる未来のスマート・シティを着工予定だとのこと・・・未来型都市「WovenCity(ウーブン・シティ)」と呼ぶらしい。

未来の日本は、どんな国になりたいのかな?

ところで、日本学術会議は、今の時代、どんな役割、指針を示しているのかな?

例えば、東京一極集中の弊害を、東京にある日本学術会議は、どのように国民に説明したのかな?

日本の最高知識階級の学術会議として、政府、社会に対して、どんな提案をしているのだろうか?

会議の活動が見えないと言うと、学術会議のHP ホームページをご覧あれと答えていました。

社会や政治をよくする提案が沢山あると言うので、HP を覗いて見ました。

よく理解できないから、ノーベル賞レベルの高い国策を進言しているのでしょう。

日本学術会議は、きっと次のノーベル賞候補になるのかもしれません。

それでは、国民の分かりやすい安心安全な生活を維持する為に、何を会議しているのやら?

何故に、人災、犯罪が無くならないのか?

裾野に生きる多くの庶民は、不都合な事が起こらなければ、大抵は善良な楽しみを好みます。

高学歴のエリート学者も頭でっかちの政治家も、裾野に生きる在野の多くの国民の気持ちに寄り添い、百年の計を持って提案、政策を行うべきでしょう。

歴史の裾野を広げたような人生観、世界観があるリーダーを、日本は多く必要としています。

余談になりますが、さっきまで、NHK のブラタモリの番組で、伊豆大島の三原山が放映されていました。

三原山は、まだ誕生から2万年だとか・・・若い火山だとか。

思い出すのは、伊豆大島全島民が避難した1986年の三原山の大噴火。

あの時、約120キロ離れていた東京調布に暮らしていたアパートの窓ガラスが、噴火の衝撃波で揺れたのを思い出しました。

そう言えば、先日、NHK のEテレビを観ていると、火山列島、地震大国日本の未来です。。

縄文時代の想像した富士山の姿が映っていました。



溶岩流によって、このような山体崩壊していた状態だったとのこと。

記録として歴史に残る過去2000年間に、富士山は、65回ほど噴火爆発しているとのことです。

つまり、約30年に一度の間隔で噴火しているとのこと。

火山の寿命は、約100万年だとのこと。

富士山は、約10万年ぐらいだそうです。

人間で例えるならば、富士山は、まだ10歳程度の成長過程だとのこと。



前回の噴火は、江戸時代の宝永4年(1707年)、その後、300年間もの不気味な休止活動。

必ず近い将来100バーセントの確率で噴火するとのこと。

東日本大震災の際、マグマ溜まりの天井にヒビが入っているとのこと。

南海トラフの地震が発生すると、間違いなく富士山噴火を誘因するであろうとのこと。

その際、吹き出る溶岩は、太平洋沿岸まで流れ出て、日本の大動脈である新幹線、高速道路は東西に分断されるとのこと。

東京、関東地方は、約5センチの灰が降り積もり、都市生活機能が止まる大パニックが起きるだろうとのこと。

近い未来、科学の進歩によって、自動運転のトラック、バス、空飛ぶ車も現れるでしょうが、同じく、国体崩壊、山体崩壊の天災も間違いなく継続的にやって来ることを忘れてはなりません。

それが、明日なのか? 来年なのか? 5年後か? 百年後か?

平和な時代が続きますように。

大阪市西淀川区百島。

2020年10月07日 | 日本の百々巡り。

今日は、大きな病院で定期診断でした。

大動脈の幅(太さ)を測る検診で、約6センチ幅になると人工血管を代用するという事になるのですが、現状維持、様子見とのことで、大丈夫でした。

病院の玄関には、マスク着用したのみ来院という張り紙を張っていました。

コロナ禍は、いつ収束するのかな?



病院の待合室で観た今日のニュース。

早ければ今年12月から、みずほ銀行は、週休3日制、4日制を導入するとの事。
近い将来、住友三井銀行は、紙の口座手帳には管理としての利用料を請求するとの事。

デジタル化の時代、銀行員も飽和状態なんだろうなぁ。

はて、急に思い出したのは、みずほ銀行も三井住友銀行の両口座を所有している事。

ほとんど使う事もないのですが、何故、口座を開いたのかと言うと、もう20年近く昔。

大阪の西淀川区百島(ひゃくしま)を訪ねた時でした。

百島(ひゃくしま)への訪問記を書いた筈なのになぁ・・・見つかりません。

20年近く昔、子供が幼い時分、家族年間パスポートを買って、大阪の此花区桜島にあるUSJ (ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)へ、よく遊びに行きました。

百島(ひゃくしま)は、桜島のUSJ から歩いても、1時間少しで行けます。

USJ 前の宿泊先のホテルから、二度ぐらい訪ねました。

一度目は、早朝夜明け前に歩いての往復3時間ほどの散策気分でした。

淀川に架かる長い橋を歩いて渡りました。

対岸の淀川沿いの堤防を歩いていると野犬が絡んで来ました。

野犬と睨みながらも、朝陽が梅田界隈の高層ビル群から昇って来ました。

それから、小さな漁港辺りまで歩くと、堤防上の道には地元の十数人の方々が、日の出に手を合わせて、日々の夜明けに感謝しているのです。。

ラジオ体操をしたあとだったのかな?

佃島から来られてた方もいました。

この百島(ひゃくしま)界隈には、加島もあり、歌島(向島)もあり・・・「尾道にも、同じ地名があるんですよ」と、皆さんに説明した思い出があります。

二度目は、車で夜の百島(ひゃくしま)へ、小さな地域なので車でグルグル回っても1丁目か2丁目なのか分かりませんが、バッティングセンターがあって、そこに車を停めて、球を打って帰った記憶があります。

あれから、20年近く・・・ネットで調べると、西淀川区百島1丁目と2丁目の人口は半減していました。

現在は、僅か人口300人台になっていました。

この過疎化の原因は、工場、倉庫の進出なのかな?

とにもかくにも、僕は、USJ ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのある桜島よりも、百島の方が印象が強く残っています。

ユニバーサル・アイランド・ジャパンの百島、好きだなぁ🎵


愛荘町の百々町。

2020年10月06日 | 日本の百々巡り。

「朝には題目を、夕には念仏」

日々の一推しは、「百」です。

西武グループ創業者である堤康治郎の故郷は、滋賀県愛荘町。

愛荘町の百々町まで、出かけて参りました。



正式な住所名は、滋賀県愛知郡愛荘町川原(字)百々です。

愛荘町の町並みの中心部を新幹線が走り抜けているので、ちょっと煩い印象を持った愛荘町でしたが、郊外は、とても心地よい田園風景が広がっていました。

この百々町に辿り着くには、少々苦労しました。

車のナビにもデータがなく、途中途中下車して道順を訊きながら、やっと到着。

小さな集落で、しかも宅地整理したのでしょう。

20戸ほどしかない小さな地域で、どこから、どこまでが百々町なのか分かりません。

看板には、単なる百々ではなく、町として百々町として掲げている不思議。



・・・誰も歩いていません。

しかし、愛荘町の中心地から途中途中に尋ねた人全員が、この小さな百々町の地名も位置を誰もが知っているのです❗

これには、驚かされました。

だから、その期待感と現実のギャップに戸惑いもありました。



百々町から、荒神山(彦根市)が見えます。

例えば、百島の泊地区には、わたしな、中小路、脇小路、はら、等々、そして本村地区には、石堂、郷、坂、坂上(さこじょう)等々、福田地区にも勿論、このような小さな単位で集落を形成していた歴史があります。

この愛荘町の百々地区は、そのような小さな集落なのです。

にもかかわらず、百々町として、看板を掲げているのに意気揚々とした百々愛、郷土愛を感じました。

荒神山・・・百島本村の坂上(さこじょう)地区、百島小学校の真ん前にも荒神山があります。

荒神と言えば、河童、河童と言えば、孫悟空の沙悟浄(さこじょう)です。

そこは、赤松一門の五輪の石塔があったはずです。

百島の先人の何者・・・誰が、荒神山と名付けたのかなぁ?

十文字山山頂に仏像を隠し納めたものがあり、調べると滋賀県近江に関わる仏像だったと子ども心に記憶があります。

室町時代の嘉吉よりも遥か以前の大和時代から、瀬戸内海と畿内には人と人の行き来、交流は盛んだったのでしょう。

百々という地を巡っていると、共通項は、山賊やら敵軍相手に関所(城址)となるような場所で、守衛兵としての一団が百々一族だったような気もします。

ルーツは、瀬戸内海の水軍海賊に繋がるのです。

その後、京、近江、畿内を故郷とする百々一族の者が、室町時代に桃島(百島)に移り住んだ、あるいは逃げ延びたというのは十二分考えられます。

さて、誰も歩いていない愛荘町百々町。

小さな地区内を散策しても、10分程度で終わります。

どうしようかな?と考えていると、お一人高齢男性と話す機会を得ました。

はじめは、不審者か、どこかの営業マンだと思ったのでしょう。

態度にも警戒感がありありでした。

ただ、尾道の百島が故郷で「百」がつく地名を巡っていると言うと、態度が一変するのです。

さらに今まで得た「百」の歴史知識を語ると、百々に暮らす郷土愛が呼び起こされるのでしょう。

昔、この拙劣なブログを開設した時、百島出身の方から「勇気元気」を頂いた、故郷を誇りに想うというメールや、百島出身の亡くなった父への想いを綴った方からのメールを頂いた事を思い出しました。

多分、同じような「百」という故郷への郷愁愛かもしれません。

僕のような者が、突然「百」という場所に行き、百の地名の謂われを調べに来たとなれば、地元では直ぐに噂になり広がります。

・・・それも、善いかなぁ。

一層、今後は、「日本の百を巡る会」のようなものを立ち上げて、名刺持参で日本の百を訪ねてみようかとも考えています。

健康で、明るく、楽しい生き方です。

愛想よろしく、愛荘町。



健康で明るく楽しいまち、百々町に感謝❗


近江八幡市百々神社。

2020年10月04日 | 日本の百々巡り。

近江八幡市にある百々(もも)神社に参拝して詣りました。

嘘だと思うかも知れませんが、日本最古の神社の1つかも知れません。





道祖神を祭神とする百々神社・・・何を守っているかと言うと、かつては真向かいの「島」地区を守っているのです。

冗談のような話ですが、対岸には立派な近江八幡市立島小学校があります。





「(故郷に)誇りを持ち 瞳輝やく 島の子」というスロガーンを掲げていました。

僕自身、故郷の百島を懐かしみました。

この「島」地区、古代は奥津島と呼ばれ、かつては琵琶湖自体の化身である琵琶湖の神だったそうです。

伝説としては、第13代成務天皇の古墳時代まで遡るとのこと。

実際、大嶋神社、奥津嶋神社として、約1900年昔から、この地に鎮座されているとのこと。





今回は、この大嶋、奥津島神社、百々神社を含めて、この地域で八つの神社の宮司である深井先生と1時間程、談笑させたいただきました。

いろいろと貴重なお話を伺う事が出来ました。

感謝。





つまり、かつては島だったこの地域は、島神様だったとのこと。

島神様へ近づく悪霊、悪人を追い払い、同時期に建立されたのが、百々神社の役目だったとのこと。

当時、百々神社は、「どど神社」と呼んでいたとのこと。

「もも神社」への呼び方を変えたのは、近郊で織田信長が安土城を築城する際に、入門手前の堀に百々橋(どどはし)という名の橋を架けた時だったそうです。

時の権力者織田信長に遠慮して、百々(もも)という呼称に変更したとのこと。

織田信長が滅びた後も、そのまま現在に至るまで、百々(もも)神社と呼んでいるとのこと。

何故、そのまま百々(もも)と呼んでいるのだろう?

因みに、深井先生曰く、百々(どど)の語源は、川の流れのドッドッという音に起因するとの事。

では、何故、「百」という漢字が使われたのか?

東京にある等々力(とどろき)渓谷の「等々」やら「堂々」「轟」でいいのでは?

百という文字、形に、力が宿っているのでしょう。

僕個人の余談憶測ですが、信長のあと、豊臣秀吉の時代になると、この地域は、秀吉の甥、養子である豊臣家二代目関白となる秀次が治めるようになります。

近江商人発祥の地となるこの地域を発展させたのは、豊臣秀次の善き治世だとも言われています。

豊臣秀次は、個人判断なのか?朝鮮出兵に関しても出陣していません。
 
秀次の息子に、仙千代丸、百丸、十丸という幼児もいました。

その後、秀次は謀反の罪で、この幼き息子等を含めて一族悉く斬首となります。

千、百、十、の悲劇でもあります。

この悲しい狂気のような事件が無ければ、豊臣政権は長らく続き、徳川の時代は存在しなかったかも知れません。

豊臣秀吉の時代は、「万」の時代へ。

太閤検地に、刀狩り、後々、徳川時代へと続くよろずの士農工商の身分制度時代の基礎となります。

それは、百姓という刀を持たない何でも屋という万の職種が拡がります。

室町時代までは、百という文字には、水の精霊、何かしらの力が宿っていると、誰もが信じていたのではないかと考えます。

水は、恐ろしくもあり、生きるためには貴重な存在だからです。

刀を取り上げられて、百は、百姓へと変わります。

百から百々へ、百々から百がつく姓(苗字)へと増幅した意味合いもあります。

さて、百々神社。



多くの方が、手を合わせて通り過ぎます。

百々神社の傍らに、八幡山へのハイキングコースの入り口があります。



百々神社は、今尚、豊臣秀次の居城だった八幡山城を護っているのかも知れません。

深井先生、ご高齢にも関わらず冗談も言います。

百々神社は、北の方向に向いているとのこと。

その為、北から吹き付ける風にも立ち向かっているとのこと。

お陰様で、喘息の病を持つ方々も多く詣られるとのことでした。

昔、インターネットが普及していない頃、奈良県橿原市に暮らす百々さんという方が、自分のルーツを探し求めて、全国の電話帳を調べながら、ここに来られたと、僕を見ながら思い出すように話されていました。

百島も、百々も、自分探しの歴史の一部となるのでしょう。



近江八幡、歴史の重みを感じました。



もう一度、訪ねたくなる近江八幡の百々(もも)神社でした。


十六夜月に想う。

2020年10月02日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今宵の十六夜月、澄み渡っています。

昨夜は、琵琶湖湖畔の高月町で、中秋の名月を眺めていました。

冴え渡っていました❗

考えること、整理すること、淀む心が、浄化してゆくような面持ちでした。

さて、近江八幡市の百々(もも)神社に参拝。



宮司さんと1時間ほど談笑。

いろんな事を伺い教えていただきました。

織田信長が築城した安土城から、車で10分か15分程度の距離に百々神社があります。

信長が滅亡したあと、豊臣秀吉の時代には、百々神社の裏手の八幡山に城を築いたのは、この地を治めのが養子で甥である秀吉の跡継ぎとなる予定だった太閤豊臣秀次でした。

この界隈、かなり重要な地域だったのでしょう。

近江八幡の歴史を含めて、整理中です。

加えて、愛荘町の百々を訪ねました。



この近くには、荒神山があります。

思い出すのは、百島小学校のグランド前、坂上(さこじょう)側にある小山です。

誰が名付けたのか、百島の荒神山です。

赤松一門の五輪塔なるものが残っています。

此れまた、この事実を整理中です。

・・・後日に続く。

今朝の中秋の名月です。





明るい月が沈んで、夜が明けました。

夕日と朝陽が同時に来たような不思議です。

秋と夏がひっくり返ったような不思議です。



何か起こるような期待と予感です。

琵琶湖湖畔、高月町にて。