ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月30日 | 書評

筑波山の夜明け

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第12回

第5章 大乱の決着 (その1)

1221年6月12日北條時房・泰時は野路に陣を取り、翌13日時房は瀬田、泰時は宇治へ、毛利季光と三浦義村は淀・芋洗に向けて出陣した。時房が瀬田に着くと、橋の中ほどに山田重忠と比叡山の僧兵3000騎が楯を並べて矢を引いた。鎌倉方の宇都宮頼業は損害の大きな橋上の戦いをせず100mほど上流の岸より京方を側面攻撃した。激戦で矢が尽きるのを恐れた時房はいったん戦闘を中止した。宇治に向かった泰時は岩橋に陣を取った。そこには京方の主力二万騎が待ち受けていた。泰時は翌日合戦をするつもりであったが、三浦泰村と足利義氏は勝手に宇治橋を攻めた。宇治橋に駆け付けた泰時は損害も大きいので平等院に陣をとりいったん戦闘を中止することにした。翌14日宇治川渡河を芝田兼義、春日貞幸に命じ佐々木信綱、中山重継、安東らが従った。承久の乱の最大で最後の合戦が始まろうとしていた。川に入った鎌倉勢に京方は矢を射って攻撃した。増流に飲まれたり著しい損害が出たが泰時は長男時氏に決死隊を組んで敵の中央突破を命令した。これも損害が甚大で96人が負傷したという。尾藤景綱は筏を組んで渡河し泰時、足利義氏は対岸に渡った。こうして形勢は次第に鎌倉方に傾き、京方の将軍源有雅と高倉範茂jは闘わずして戦場を放棄した。一方瀬田においても時房の鎌倉勢が優勢になり京方の大江大江親広、藤原秀康、三浦胤義らは陣を棄てて京都に逃げ帰った。淀・芋洗では毛利と三浦義村が京都方を撃破し、宇治・瀬田・淀の合戦は鎌倉の勝利に帰した。北條泰時は深草に陣を取り、京の使者三善長衡と面会した。明日入京する旨を告げ、西園寺公経の屋敷を警護させるため南条時員を使者に随行させた。6月14日の夜敗残の将兵が続々帰郷したが、院の御所は堅く門を閉ざして敗残の兵を入れなかった。後鳥羽は彼らに、どことなりとも立ち去れと言い放ったという。胤義は後鳥羽の仕打ちにあきれ果て、命を棄てるため東寺に立ち籠った。ここで最後の戦いをしたうえ各自何処ともなく落ちて行った。胤義は15日朝自害した。6月15日北條時房・泰時を始め東海・東山道軍は入京を果たした。勅使の小槻国宗が六条河原で鎌倉方と対面した。院の勅諚は、義時追討宣旨の撤回、都での狼藉禁止、要請に応じで院が判断するという内容であった。三浦義村は宮中守護の命を鎌倉から受けているので、右近将監源頼重を差し遣わした。後鳥羽の言い訳は、この度は謀反を企む謀臣の仕業で、これからは泰時らの申請通りに宣下するという。責任転嫁・責任回避に終始した。鎌倉方の兵は六波羅に収容し、6月20日前後に北陸勢も入京した。残党狩が始まった。疑わしい者の刑は軽くすると発表して世の評判を得た。6月19日藤原秀康以下を追討する宣旨が出され、錦織義継が逮捕され、6月20日には美濃の神地頼経が逮捕され、6月28日には伊予の河野通信追討令がだされ、9月には藤原秀康・秀澄兄弟が南都に隠れているので追討隊が出され10月6日逮捕され六波羅に護送された。六年後の1227年6月院近臣の僧侶二位法印尊長を逮捕した。6月14日和田朝盛も逮捕された。また後藤基綱らは勲功を挙げた武士、討ち取られた武士の「交名」をまとめて鎌倉に送付した。6月13日14日の合戦で鎌倉の討ち取った京方は255人、鎌倉堅の負傷者は132人、宇治川で溺死した人は鎌倉方で96人であった。6月16日に泰時が鎌倉に送った戦傷報告は6月20日に到着した。鎌倉残留組の幕府首脳特に北条義時の喜びは例えようがなかった。しかし北條義時ら幕府首脳には、後鳥羽を始め京方の公卿の処罰、朝廷人事の刷新など厳格迅速に断行しなければならない戦後処理の課題が山積していた。大江広元が平家滅亡後の戦後処理を例にした案をまとめ24日の使者安東光成に託して京に送った。北条義時の指示は、持明院宮を院に定め、茂仁親王を次の天皇に立て、後鳥羽は隠岐に流罪、雅成・頼仁親王は泰時に判断で適当な国に配流、公卿らは鎌倉へ移送せよ、それ以外の身分の低いものは首を斬れ、都での狼藉を禁止し、近衛家、西園寺家とその周辺の人々は警護せよというものであった。この指示が届く前から北條時房・泰時、三浦義村の京駐留組は動いた。6月19日後鳥羽を四辻殿に幽閉、土御門、順徳・雅成親王を御所に戻した。6月20日仲恭天皇を閑院内裏に遷した。6月24日・25日には謀臣の公卿、藤原光親、源有雅、中御門宗行、高倉頼茂、坊門忠信、一条信能、僧長厳・観厳らが六波羅に移され有力後家人預かりとなった。6月29日鎌倉からの使者安東光成が六波羅に入った。指示の内容を実地に移した。7月1日公卿らを断罪するため鎌倉へ護送されることになった。西面の武士として京方に加わった御家人、後藤基清、五条有範、佐々木広綱、大江能範の首を切った。

(つづく)

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月29日 | 書評
筑波山の夜明け

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第12回

第4章 承久の乱 (その2)

さらに京都攻撃軍の組織について議論が移り、北條義時は安保実光ら武蔵国勢の到来を待ち都に上るため、関東8か国と陸奥・出羽に動員命令を出した。5月21日一条頼氏が鎌倉に下向し、京都情勢を伝えると幕府首脳は再度作戦会議を開いた。御家人の動揺不安が表面化したので、大江広元は武蔵国勢の到来を待っている時間はない、泰時一人でも出撃すれば御家人はそれに続くだろうという意見であった。宿老三善康信の意見も同じでじりじり待っているほど武士の緊張感は絶えられない。時間の拷問に苦しむよりは大将軍一人でも出発すべきであるという意見であった。こうして態度は決まった。5月22日早朝北條泰時が京都に向けて出発した。従ったのは北條時氏・有時・実義、尾藤景綱・関実忠・南条時員らわずか18騎で出撃した。さらに5月22日中に、東海道軍として北條時房、足利義氏、三浦義村・康村親子らが出発し、北條季時、北陸道大将軍として北條朝時も出発した。一方北條義時、大江広元、三吉康信、二階堂行村、葛西清重、小山朝政、宇都宮頼綱らは鎌倉に留まり、兵站の準備、諸連絡、軍勢の徴発にあたった。5月25日までに出撃した東国武士は、東海・東山・北陸三道に分かれて上洛した軍勢の総数は19万騎だとされた。軍勢の攻勢は以下に記す。
① 東海道十万騎 大将軍は北條時房・泰時、時氏、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱
② 東山道五万騎 大将軍は武田信光、小笠原長清、小山朝長、結城朝光
③ 北陸道四万騎 大将軍は北條朝時、結城朝広、佐々木信実
これだけの軍勢が京都に向かっていることは、京都後鳥羽側では、5月26日美濃に派遣した藤原秀澄からの使者で知った。幕府が院宣に対する返事を持たせて返された押松が6月1日京に帰り、義時からの手紙には19万騎の軍勢が京都を攻める。院はとくと御覧ぜよという挑発であった。初動態勢で決定的な機動力を発揮したキーパーソンは三浦義村であった。また迎撃か出撃かの戦術で宿老大江広元・三善康信の意見を採用した北條義時・政子の英断が際立っていた。己の経験と信念に基づいて意見をいえる優れた人材が揃っていた幕府側の現実的対応力に軍配が上がった。それに比べると京方後醍醐上皇と公家貴族には鎌倉や東国武士に対する現実的な理解が欠けていた。1221年6月3日鎌倉方が遠江国府に着いたという報が入り、公卿詮議が行われ藤原秀康を追悼使とする追討軍の軍勢の派遣が決められた。一万九千騎であったという。ところが海道将軍藤原秀澄はこの軍勢で12か所の柵の砦に兵を分散配置した。院方でも美濃源氏重宗流の山田重忠は分散策を愚策として、一つに集中して鎌倉まで攻め込む策を献上したが、墨俣で鎌倉軍を迎えつ消極策を選択した。大勢の鎌倉が積極策をとり、無勢の院方が消極策を取るという失策である。6月5日鎌倉東海と東山道両軍が尾張一宮で合流した。長良川を渡り院方の柵には対応するが主力は墨俣を攻めることを決定した。こうして美濃の合戦が展開され、大井戸、板橋、鵜沼、池瀬、摩免戸の柵は打ち破られ、わずか2日で京方はことごとく敗退した。6月7日垂井で軍議を開き、三浦義村の意見に従い北陸道軍の合流前に要害に兵を派遣する事を決定した。瀬田には北條時房、手上には安達景盛、宇治には北條泰時、芋洗いには毛利季光、淀渡には結城朝光、三浦義村とした。6月8日北陸道軍の北条朝時らは越中において院方の宮崎定範らの軍を破った。主戦場は都周辺に移った。後鳥羽ら院側の公卿は比叡山に逃れようと坂本に遷ったが、山門はこれを拒絶した。そして6月10日には西園寺親子の勅勘を解き幕府と親密な彼らを使って和平交渉を始めようとした。同時に後鳥羽は瀬田から淀までの要所に兵二万数千騎を配して防御に備えた。

(つづく)

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月28日 | 書評
アザレア

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第11回

第4章 承久の乱 (その1)

承久三年(1221) は京都では相変わらず火事が続き、卿二位邸、後鳥羽の母七条院御所、宗像社、宝荘厳院が焼失した。一月早々院の御所には順徳が頻繁に訪れた。正月儀礼訪問ではなく、譲位や義時追討に関する打ち合わせでなかったかと思われる。鳥羽は1月27日鳥羽の城南寺で笠懸を行わせた。2月4日29回目の熊野詣に出かけた。4月20日、順徳から懐成への譲位が行われ、仲恭天皇4歳が践祚した。左大臣九条道家が摂政となり、4月26日順徳は院御所高陽院殿に御幸された。後鳥羽は御家人を幕府と分断して操ることは簡単だと思い込んでいた。御家人の取り込み工作が勝敗を決するので、反幕府に利用できる御家人として在京中の判官三浦胤義をターゲットに選んだ。胤義勧誘の担当は藤原秀康であった。一族にとって在京奉公と在地経営の分業体制が東国御家人の特徴であった。三浦胤義が在京奉公に、兄義村は在地経営の分業の担い手であったが、そこへ後醍醐は公家の官職を餌に兄弟間の競争と分断を狙ったのである。院近臣の貴族・僧侶に後鳥羽の「勅諚」が出され、在京御家人や西面衆、畿内の武士には「廻文」が出された。1221年4月28日一千余騎が院御所高陽殿に集結し、上皇後鳥羽、中院土御門、薪院順徳、六条宮雅成、冷泉宮頼仁が御所に入った。北条義時調伏の修法が始められた。陰陽師に勝敗を占わせたが吉と出た。後鳥羽は秀康に幕府の京都守護式伊賀光季を討つよう命じた。幕府方の西園寺公経は5月14日御所内に幽閉された。5月15日出頭呼び出しのあった伊賀光季はそれに応じなかったので、三浦胤義・小野成時・佐々木広綱らの武士勢800騎が差し向けられた。合戦に臨んだ伊賀光季の武士は31騎で多勢に無勢、光季親子らは館に火を放って自害した。次いで後鳥羽は「北条義時追討の院宣」(執筆は藤原光親)を下した。院宣の論理は、後鳥羽の政治で御家人の不満は解消できる。つまり義時排除という一点で御家人と後鳥羽は一致するという分断乖離策であった。この院宣が幕府方の有力御家人8人に宛てて出されたという。在京中に後鳥羽と接点のあった人である。同日「北條義時追討の官宣旨」という官の発給する命令書が出された。論理は院宣と同じであるが、①宛先が諸国荘園の守護人と地頭、②意見をがあれば院庁で奏上することを許可する、③国司や荘園領主は乱暴行為、無法行為を禁止するという。ところが院宣は出たものの追討使の任命、追討軍の編成と派遣といった具体的な記述がない。「命令」をするだけで大勢はそう動くと過信した(現実を何も知らない)後鳥羽の見通しの粗雑さ、甘さにはあきれるばかりである。夢と現実の区別もない。自ら実現に向かって努力する姿勢は全くない。ひょっとしたら合戦になるとも考えていなかったようで、命令一つで上皇の意思を示すことによって幕府は自分に靡いてくると思い込んでいたようだ。北条義時追討軍を構築することを怠り、最初に集まった一千余騎は、院御所の警護に充てている。誰がどうして義時を討つかという戦略をまるで考えないで、自分の思い通りに世界は動くと思い込んだ自己中の典型である。ばかばかしくてお話にもならない。北条義時追討の宣旨と官宣旨は1221年5月16日未明押松という下部に託されて鎌倉に向けて京都を発った。しかし前日5月15日兄義村を院方に誘う胤義の使者、伊賀光季が討伐直前に鎌倉へ送った使者、そして西園寺公経の家司三善長衡が公経幽閉と院宣旨と官宣旨が下されたこと知らせる使いがすでに鎌倉に向けて出発していた。4人の使者はほぼ同時に5月19日夕刻までには鎌倉に着いた。光季と長衡の手紙を見た鎌倉幕府は驚愕し、押松の潜伏を知った三浦義村は義時に押松の捜索逮捕と院宣の没収を進言した。ほどなく押松は捕縛され院宣・官宣旨が東国の御家人たちに伝わる事を未然に防いだ。5月19日夜緊急の有力御家人の合議が行われ、北條時房・泰時・大江広元・安達景盛・武田信光・小笠原長清・宇都宮朝綱・長沼宗政・足利義氏らが参上した。一同を前にした尼将軍政子の有名な演説は、院宣を隠して北條義時排除の論理を鎌倉幕府討伐にすり替え一致団結を図ったものである。さらに義時邸において北條時房・泰時・大江広元・三浦義村・安達景盛らが戦の詮議(戦術会議)を行った。追討軍を足柄・箱根で迎撃する案と追討軍が京都を出る前に逆に攻勢をかける案が議論され、京都の追討軍が組織されるには時間がかかるだろうと読んだ幕府首脳は、相手が整う先に攻撃をかけるのが最善の唯一の策であると決定した。

(つづく)

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月27日 | 書評
カメリア

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第10回

第3章 鎌倉幕府と後鳥羽の葛藤 (その2)

1219年8月4日後鳥羽は臨時の除目を行い、北面の武士で院近臣であった藤原秀康に、北陸道・山陽道の国務を担当させた。これは国守を調整して大内裏の造営に当たらせる人事であったという。院近臣で按察使藤原光親と組んで秀康は大内裏造営に当たった。後鳥羽は次々と除目を行い大内裏造営の人事異動を行った。健康が回復すると10月10日最勝四天王寺で名所和歌会を開催した。ここで武家にはない文化面での帝王ぶりを見せつけたかったのであろう。建築を忌む期間が過ぎたので12月18日内裏造営に本格的に取り組むことになった。1220年1月22日藤原公頼を行事参議に、23日頼資を行事弁に、そして藤原光俊を加えて造内裏行事所を発足させた。造内裏という国家事業には莫大な国費が必要であり、当然課税強化策がとられた。造内裏役という一国平均役を荘園・公領にも課税する方式がとられた。朝廷の支配が及ぶ国は畿内と西国が中心で、越後と加賀国は北條家の直轄地であり造内裏役は拒否されたのをはじめとして、尾張より東北は幕府支配になるので徴収はできなかった。造内裏役の徴収は、国衙が田の面積に従って賦課割り当て書である切符を作成し、公領の場合は国司が、荘園の場合は領家を通じて徴収した。摂津国のように田の数が減少しているので賦課通りには納入できないと抵抗するところが多かった。地頭が領家の下知に従わないという場面もあった。さらに朝廷が認めた免除基準である「四箇神領」、「三代御起請地」、「保元の免除証文」などを乱発したつけが回って、国司、領家。地頭の別なく造内裏役を拒否する抵抗運動が盛んとなった。こうして1220年12月公頼の辞任、造内裏行事所の解散となり、これは完成したことを意味するのかというと、むしろ工事が中断・挫折した気配が濃厚である。近い過去の例では造内裏造営の工期は、後白河天皇の時は7か月半、閑院内裏の場合7か月であった。ところが後鳥羽の場合1219年10月に行事所が開設され、立柱棟上げは1220年10月であり院宣が下されてから1年以上が経過している。そして棟上げから行事所の解散まで1か月である。普通は院宣から行事所の開設まで1か月、さらに完成まで半年であるが、後醍醐の内裏造営は明らかに進捗状況が逆転している。これは準備過程で齟齬があり本工事を断念したとしか思えない。まさに壮大な無駄であった。建築途上の柱だけの殿をそのまま野ざらしにして放置したのであろう。建築会社で言えば、資金集めに苦労し工事を始めたところ資金が枯渇して無残にも捨て置かれた建築途上の家という感じである。後醍醐の人格を見るうえで、この時期、1220年藤原定家にたいして春の歌会出席停止処分、4月順徳天皇の指導不十分で道家に対する叱責という事態がみられた。後醍醐のヒステリーの頻度が上がってきたと思われる。後醍醐は位ばかりが高くて、自身の尊厳を傷つける者に対して容赦ない激怒ぶりは目に余るものがあった。コンプレックスが高じて裏返しの専横ぶりを発揮する手に負えない独裁者の面影がみられる。大内裏造営を進める中で苛立ちを募らせた後鳥羽が幕府をコントロール下に置くために、妥協よりは北條義時の武力追討にかじを切ったのである。1220年12月院近臣で法勝寺執行の法印尊長が出羽国羽黒山総に赴任された。尊長を通じて羽黒山の調伏の修法を行わせるためであったとみられる。日本では密教という仏法が山岳修験道と習合している。朝廷や公家は何か困難な事態が起きると、呪いや祈祷に明け暮れる。そんな暇があるならまじめに努力したらと思うのだが、中世では政治とは祭りの事でしかなかった。本書ではいろいろ修法の事が書かれているが、陰陽師や密教の理論はバカバカしいので割愛する。1220年10月ごろ後醍醐は城南離宮にいることが多くなった。城南寺の行事を名目にして兵を招集する計画を思いついたようだ。そうした中にあって、幕府は1220年4月禅曉を京都において誅殺した。源氏系の将軍候補者を完全に粛清し終えたのである。12月1日3歳の三寅の元服の儀があり、翌年将軍に就任するのである。

(つづく)

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月26日 | 書評
シャコバサボテン

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第9回

第3章 鎌倉幕府と後鳥羽の葛藤 (その1)

1219年1月27日の実朝の横死は衝撃であった。幕府内の動揺は激しかった。実朝横死を知らせる使者が鎌倉を発った。急使は5日間の行程である。御台所を始め大江親広・安達景盛・二階堂行村ら御家人百余名が出家した。29日より共犯者の捜索が行われたが、黒幕の気配はなかった。将軍を失った幕府の求心力の低下が心配された。2月11日実朝の叔父阿野全成の子時元が駿河国阿野で反旗を翻した。幕府は尼将軍政子が指揮を執り15日に追討軍を送り22日には時元を自害させた。同様の源氏の反乱を未然に防ぐため3月27日時元の兄弟で駿河の実相寺の僧侶道曉を死に追いやった。4月15日には公暁に加担したかどで頼家の遺児禅曉を京都で殺害した。こうして義朝を祖とする河内源氏は、頼朝・頼家・公暁・禅曉・実朝・時元・道曉が消え去って全滅した。鎌倉幕府首脳は源氏一族を粛正し、将軍空位を埋める策に集中した。2月9日実朝横死を朝廷に伝えた使者が鎌倉に戻ると洛中の衝撃と動揺を伝え、政子は2月13日二階堂行光が使者となり後醍醐の親王の鎌倉下向を申請した。翌日伊賀光季、大江親広を京都警護のために上洛させた。1219年1月28日鎌倉を発った使者の報を受けた大納言西園寺公経が急報を受け水無瀬殿にいた後鳥羽に実朝横死を知らせた。6日後鳥羽は院御所高陽院殿で五壇法等を修し国家安泰・玉体安泰を祈らせた。実朝の祈祷をしていた祈祷師全員を解任した。2月23日後醍醐は体調を崩し一か月以上病床に伏した。二階堂が使者となった幕府の皇子将軍下向申請は院御所で審議が行われ、2月4日に後鳥羽は「下向させる意思はあるが今すぐではない」という結論を下した。つまりゼロ回答であった。後醍醐の態度が実朝横死で変わったのである。後醍醐は日本を二つに分ける(朝廷と幕府に分断する)ことはしないという意思であった。実朝亡き後、後鳥羽は幕府への不信感を増大させたようである。親王下向要請にゼロ回答を出す選択肢を後鳥羽は選んだ。1219年3月9日院近臣の北面の武士で内蔵頭藤原忠綱を実朝弔問使として鎌倉に送った。忠綱は政子にあって後鳥羽の弔意を伝え、義時に会って「摂津国長江・倉橋」の荘園の引き渡しを要求する院宣を伝えた。この荘園は後鳥羽が遊女亀菊に与えたものであるが、交通の要衝に置かれた地頭職を手放すよう圧力をかけたのである。これは実朝なき幕府の実力をみる試金石である。3月11日政子・義時・泰時ら幕府首脳は審議を行い、結論は北条時房が政子の使者として一千騎を率いて上洛し、地頭改補を拒否したうえで、親王の下向後鳥羽に要請するという強硬策を採用した。3月15日時房は武装した千余騎で都に入り後鳥羽を武威で迫ったが、後鳥羽は親王下向は認めない方針は撤回しなかった。そこで後鳥羽の頭に浮かび上がったのが摂関家将軍の下向である。幕府の三浦義村は親幕派の摂関家九条道家の2歳の頼経(三寅)に白羽の矢を立てた。朝廷と幕府の交渉に尽力したのが三寅の母方の祖父西園寺公経であった。西園寺は閑院流藤原氏である。6月3日鎌倉下向の宣旨があり、6月25日三寅は北條時房・泰時。三浦義村の武士とともに六波羅を出発した。摂関家からの具奉人は10人であった。7月19日三寅は鎌倉に着き、「二品禅尼」政子が若君に代わって聖断する「尼将軍」となった。後鳥羽との駆け引きでは幕府側と西園寺家が終始リードした。しかも京都ではとんでもない事件が勃発した。源三位頼政の孫である右馬権頭源頼茂は大内の守護を代々務めてきた摂津源氏の名門で、実朝時代には政所別当に就任していたことから、将軍になろうという意思が強かった。ところが三寅を後継将軍とする妥協が成立したことから頼茂は謀反に至った。1219年7月13日在京武士らは大内裏に籠る頼茂を攻めた。頼茂は内裏の諸殿に火をかけ自害した。兵火によって大内裏が焼失したことは前代未聞の椿事であった。この内裏焼失のショックで後醍醐は再尉か月ほど寝込んでしまった。幕府内の権力闘争が京都に持ち込まれた形であるが、後醍醐が三寅を後継将軍と認めた以上、それに反対する頼茂に追討の宣旨を出した。その結果在京御家人・西面武士らが院宣を受けて軍事行動を起こして御所を焼いたのである。後鳥羽は在京御家人の在京奉公を組み込み、京武士を合わせて朝廷が組織しうる立場にあった。しかも今回の場合は在京武士たちの独自判断で後鳥羽を動かし院宣を得て軍事功を起こした。つまり在京武士団が鎌倉幕府の指揮権を離れたところで行動し、後鳥羽の権力の一部となったことが重要である。1219年の秋から幕府に対する後鳥羽の気持ちは、妥協から敵対に大きく舵を切ったようである。

(つづく)