ブログ 「ごまめの歯軋り」

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兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月31日 | 書評
京都六大禅寺 妙心寺 4  方丈

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第27回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第13回

4)建武の中興と王政復古 (その2)

それは足利政権の「建武式目」の思想であり、北畠親房の「神皇正統記」にも共通する思想であった。そのような正名・名分論から、臣下の名分を無視する後醍醐天皇の政治手法は両勢力から非難される。臣下の名分を認めない天皇の専制は当然否定されるのである。南北朝の動乱が打ち続く世相にあって、北朝方の大名らが「無礼、邪欲、大酒、遊宴、バサラ、傾城、双六、博奕」などを好み、流行する様子は「太平記」後半部の世界である。その中心がバサラ大名の佐々木道誉であった。「太平記」第21巻で佐々木道誉のバサラの振る舞いが語られる。傍若無人の佐々木道誉のふるまいが書かれているが、「一見美々しくみえたり」と評されている。傲慢であり、かっこいいと言うのである。このアンビヴァレントな評価は「太平記」という作品が儒教臭い政道論だけではなく、時代の空気を鋭敏に受けた作者の存在が伺えられる。「太平記」によると1361年将軍執事(管領)の細川清氏が失脚・没落したのは佐々木道誉が催した茶会がきっかけになったという。細川は第二代将軍義詮を招くべく歌会を計画したが、道誉は「七所の粧り」をして豪華な茶会を催し義詮の出席を奪い取った。面目を失った細川清氏は道誉の讒言で失脚するという物語である。道誉の最も派手な空間が1366年の「大原野の花見」である。管領斯波道朝が御所で将軍義詮の花見の会を計画したが、道誉は都の芸人どもを全員大原野に引き連れて花見を開催し斯波道朝の面目を潰した。このように芸能空間の演出はその政治的な企てと不可分に行われ、将軍義詮に取り入り相手の面目を潰し讒言で失脚に追い込む手法であった。道誉に仕えた「道の上手たち」は「同朋衆」と諸道に秀でた遁世者である。この時代の諸芸・諸道のオルガナイザーとしての道誉の非凡さが際立っている。能、茶、花、香、連歌など諸芸に通じていた。「菟玖波集」を後光厳天皇に奏請したのも道誉であった。道誉の総合芸術としての茶寄合は安土桃山時代の千利休の茶の湯に受け継がれた。「同朋衆」として三代将軍義満に仕えた観阿弥、世阿弥親子が有名であり、義政に仕えた能阿弥、芸阿弥、相阿弥親子三代は絵師であった。作庭師も同朋衆として抱えた。後醍醐天皇の「無礼講」の茶会にも芸人(会衆)が参加し西大寺の律僧智暁はそのコーディネーターであった。今日最も日本的として考えられる諸芸諸道の文化は、室町期のバサラと無礼講の芸能空間に源を発する。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月30日 | 書評
京都六大禅寺 妙心寺 3  仏殿

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第26回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第12回

4)建武の中興と王政復古 (その1)

「二条河原落書」にやり玉に挙げられている世の風潮として「エセ連歌」、「田楽」、「茶番寄合」がある。誰でも点者になって品評する乱脈な連歌会の盛行をを批判したものである。「太平記」は鎌倉幕府が滅んだ理由として、北条高時の田楽狂いと闘犬狂いを挙げている。田楽師の華美ないでたちと演技は鎌倉時代末期から流行していたようだ。「太平記」第27巻は1349年6月四条河原の田楽興行において桟敷席の倒壊事故を語っている。身分を超えた、下克上する成り上がりものによる「自由狼藉」の世界が語られている。茶の寄り合いは闘茶であり、茶を飲んで産地・品種を言い当てる賭け競技であった。後醍醐天皇とその側近たちが催した「無礼講」が茶寄合(茶事と飲食酒宴)であったことは「花園院宸記」にも描かれている。中国宋代の新しい抹茶法は、栄西らの禅僧によって鎌倉時代に伝えられた。南北朝時代に流行を迎えた。この茶寄合は今日の「京懐石」の総合芸術に引き継がれた。仏画、襖絵、香炉、生花、飲食、庭園散歩を総合的に配置した世界を楽しみ、最後に茶が出て闘茶の「四種十服の勝負」となる。また茶会の後には酒宴と歌舞管弦の宴が続く。南北朝の茶寄合を今日の茶会と区別する最大の特徴は、唐物趣味の横溢した茶寄合の空間をおおう非日常的な気分であり、それが引き起こす無秩序な自由狼藉の行為である。茶寄合の会衆は身元を一時的に不明化することで身分から解放された非日常の遊びの空間を現出することである。これらは単に芸能的寄合だけではなく、後醍醐天皇の新政の企てに不可分に呼応した文化的現象である。無礼講の寄合の場を設定して、それを隠れ蓑にして天皇と側近らは倒幕の密議を重ねたらしい。天皇と臣下という序列枠組みを超えて、天皇が直接民と結びつく政治原理の擬態である。後醍醐の側近である千種忠顕が毎日のように遊興に耽るさまは「太平記}第12巻に批判される。「堂上に300人を超える大夫らが酒肉珍膳の費用は万銭を超え、宴が終ったあと数百騎で北山で小鷹狩りを行う。僭上無礼は国の凶賊なり」と記される。建武政権で雑訴決断所の寄人についた千種忠顕は三ヵ国の国司に任じられ多くの所領を得た。文観僧正も太平記では「怪僧」のイメージで非難される。これらは足利幕府の訂正が盛り込まれた場所である。千種忠顕の装束については「バサラの装い」という、華美この上ない出で立ち振る舞いであった。「バサラ」とは梵語で金剛ダイヤモンドのことである。絹織物や豹・虎の皮を惜しげもなく使った装束であり、既存の秩序や服制の規範を逸脱した装いである。まさにこの時代の「自由狼藉」を象徴する文化現象は、「無礼講」の延長線上にある「バサラ」であった。それは建武政権崩壊後の足利幕府においても、佐々木道誉らのバサラ大名により大規模に受け継がれた。こういう分化現象については南朝と同様北朝でも盛大に行われた。1336年2月足利政権が公布した「建武式目」は第一条に「倹約を行はるべきこと」とバサラを厳しく規制している。第二条「群飲遊興を制せられるべきこと」では色に耽り博奕に及ぶ茶寄合、連歌会などを厳禁している。第十三条「礼節を専らにすべきこと」では、治国のかなめである君の礼、臣の礼を守れという。「建武式目」は北条泰時・義時の時代を「武家全盛の跡」と政治の手本とした。「建武式目」の起草者のひとりである玄恵上人は足利直義の命を受けて「太平記」の校閲改定に携わった人物だとされる。太平記は君臣上下の礼を政道の基本的枠組みとしている。鎌倉幕府滅亡の原因を後醍醐天皇と北条高時の君臣の礼の崩壊から説き起こしている。

(つづき)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月29日 | 書評
京都六大禅寺 妙心寺 2 山門

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第25回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第11回

3)建武の新政の諸矛盾 (その4)

鎌倉時代の武家政権時代を通じて、門閥貴族層は閉鎖的になり、門閥を固定化する礼式はむしろ鎌倉期に制度化され、建武政権下では既存門閥層は根強い抵抗勢力を形成した。後醍醐天皇の新政に対する不満は既得権益を奪われた上級貴族層のみならず、恩恵を受けられなかった広汎な武家階層は敵に回った。一部の寵臣(功臣)と閨閥(寵姫)には旧北条家の所領は分配されたが、鎌倉幕府打倒に働いた武士(御家人)には公平な配分は行われなかった。そこから足利尊氏のような武家は強い不満を抱き、後醍醐政権打倒に動いた。1333年6月源氏武家の頭目である足利尊氏(高氏)は鎮守府将軍に任じられた。高氏は高師直や師泰らを雑訴決断所の奉行に送り込んだが、自身は後醍醐政権からは一定の距離を置いた。1335年北条高時の遺児時行が信濃で挙兵し(中先代の乱)武蔵・相模一帯を支配した。尊氏は後醍醐から北条時行追討を命じられたが、征夷大将軍への任官を望み、後醍醐は征夷将軍の称号を与えた。反乱を制圧した尊氏は次第に関東における新田荘も配下に置き、事実上の武家政権が再興されていった。新田義貞と足利尊氏の頭目争いは決定的段階を迎え、両方から後醍醐天皇に「追悼」の宣旨の要請がなされた。讒言によって鎌倉に禁獄中の護良親王が足利直義によって無断で殺害された。これによって後醍醐天皇と足利尊氏の対決となり、尊氏追討宣旨が下された。1335年11月新田義貞は総大将として関東へ向かったが敗北し、逆に尊氏が京都に入り合戦となり、1336年京合戦に敗れた尊氏は九州に下って九州全土を支配し、東上した。湊川の戦いで楠正成は戦死し、後醍醐天皇は比叡山に逃げ、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立した(北朝)。後醍醐天皇は12月に吉野に朝廷を開いた(南朝)。新田義貞は越前に逃げた。こうして南北朝時代が始まった。高氏は天皇側との全面対決を避け、新田義貞追討という形をとった。「太平記」第13-21巻は足利・新田両家の戦いと図式化して語るが、尊氏はライバルとして新田義貞を源氏一流の棟梁として考えていない。対立相手はあくまで後醍醐天皇である。しかし天皇を敵にすると抗争の大義名分(錦の御旗)が立たないのを畏れ、臣同士の抗争と称したまでのことである。持明院統の天皇(北朝)を立てたのも大義名分を得るためである。北朝の天皇は軍事・行政の全てを足利将軍に委任している。後醍醐天皇が争うべき相手はあくまで足利の武家政権である。北朝の天皇は統治者たる将軍の威光を補完する「共生」的存在であった。そうした「共生」としての天皇制の在り方こそが、摂関政治の時代から院政時代、さらに鎌倉の武家政権時代へ引き継がれた天皇の伝統的なありかたであろう。既存の身分制社会や世俗的な序列を解体して、天皇がすべての民に等しく君臨する一君万民の統治形態は、あらゆる改革・革命のメタファーとして、やがて幕末から近代へ引き継がれた統治形態の儀制である。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月28日 | 書評
京都六大禅寺 妙心寺 1 南大門

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第25回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第11回

3)建武の新政の諸矛盾 (その4)

平安後期以降、官職は特定の家の専有物で、地方の行政権は鎌倉時代には名門家の私領と化していた。平安後期から鎌倉時代には公卿の名門家が自らの家人を名義上の国司にたてその収益を私有化する知行国の制度が一般化していた。知行国の慣行に対して後醍醐天皇は3位以上の公卿を国司に任命し、知行国を無力化し国務の私領化を一掃する目的であった。諸国の国衙を中央の直轄化に置く企てである。鎌倉期には中央の官職は特定の氏族が請け負う私領的な性格となっていたが、後醍醐はそれに大ナタを振るおうとした。官職の任命を流動的なものとし、その私物化を抑制する姿勢は建武政権で徹底して行われた。中原氏の家職であった造酒正に清原頼元を任命したり、中原氏の家職であった東市司長官を名和長年が任命された。京都の商業と流通経済を管轄した東市正名和長年は検非違使尉を兼ね、京都の市政権をも握った。建武の功臣であった名和に中央権力が集中した。1335年12月太政官八省の卿(長官)が全員更迭され、新たに公卿大臣クラスが任命された。後醍醐天皇の目玉人事であるといえる。太政官八卿の位階は4位に相当する。大・中納言クラスは正3位、または従3位である。上の位階の者が卿に降りて来るのは論外の人事である。(今でいうと大臣が事務次官や政務次官に降りるようなこと) 従来の職務では大臣クラスは議政局の構成メンバーである。合議制の政務大臣が解任され、実務長官である卿になった人事である。後醍醐天皇にとって新政に介入する合議制は不要であり、直轄の官僚だけで十分だということである。天皇自らが行政機構を総括する体制を作ったことになる。後醍醐が目指した親政とは、君と民の間に介在する臣下の機構を簡素化しヒエラルヒー(門閥、家格、既成貴族の無力化)を解体することであった。南朝の重臣北畠親房がイメージした公家一統政治とはおよそ異なった「同床異夢」であった。北畠親房に「神皇正統記」は、後醍醐天皇の没後に書かれた。親房は建武親政下で土地所有が流動化したことを批判し、勲功に追いやられて累家も名ばかりになってしまったと嘆いた。「累家」や「門閥貴族」の世襲化された既得権益を否定することが後醍醐天皇の「勅裁」の意味であった。親房は「公家の古き御政に帰るべき世」をイメージしたが、後醍醐親政時代は批判勢力となり新興中下級貴族の推進勢力と対立した。親房の政治力が発揮されたのは後醍醐亡き後の南朝二代目後村上天皇の時代であった。南朝の衰退が決定的となったとき、後醍醐親政の治世はネガティブな遺産として眺められた。北朝の三条公忠は1370年「御愚昧記」に「後醍醐の御行事、物狂の沙汰なり。後代豈因准すべけんや」と切り捨てている。後醍醐の政治的な企てを「正理に叶う」とした日野資朝らの天皇親政の理想は、14世紀の日本の現実を前に挫折せざるを得なかった。条件が整わない時代制約の下で、建武の中興が2年余りで瓦解した理由である。中国の官制は模倣しても、科挙による人材登用は根付かず、家職・家格や名門の出自のみが絶対視される官僚制では公正な人材育成はできず、知識層は一握りの中下級貴族と僧侶を除いてはほぼ皆無であった。

(つづく)

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月27日 | 書評
鬼怒川の夕暮れと富士山

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第24回

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 (岩波新書 2018年6月) 第10回

3)建武の新政の諸矛盾 (その3)

建武の政権の実情を見てゆこう。「謀綸旨」とは天皇の意を対して蔵人が発給する文書であり、行政府より出される太政官宣旨とはより天皇の意思を下達する文書である。(今日「首相案件」と称して官庁より先行する文書で発言力が重いとされる) 5月に六波羅探題が陥落し鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京に入った。6月に二条富小路内裏に帰った後醍醐天皇は、天皇重祚儀式も行わず、1331年以降の光厳天皇時代の任官叙位をすべて無効とした。現実に存在したものを頭から否定する態度は、後醍醐天皇の政治姿勢の根本にかかわる。後醍醐天皇の「新たなる勅裁」がすべての出発点となった。政治的な決定や訴訟の裁決は天皇の意思下達手段である綸旨で行われた。1333年6月元弘の変で鎌倉幕府に没収された所領を旧主に戻す旧領回復令宣旨は「御成敗式目」の無効となって土地所有権は流動化し社会不安を巻き起こした。そして新たな所有権には天皇の綸旨が必要とされた。土地訴状を持った「本領ハナルル訴訟人」は都に溢れた。都の行政機能は処理できず、諸国の国司が担当することや北条高時一族の所領に限る「諸国平均安堵法」が布達され朝令暮改の混乱となった。天皇がすべて訴状を裁決できるわけもなく「雑訴決断所」を新設し、「記録所」、「恩賞方」に任せるなど天皇の裁決は後退した。実勢は天皇の意思とは近臣や後宮の都合による「内奏」によって左右された。「諸人の浮沈掌を返すがごとし」というように「内奏」によって朝令暮改が甚だしかった。特に「内奏」においては肉親の讒言が天皇の逆鱗に触れて死に追いやられる例が多かった。護良親王を失脚させて死なせたのも阿野廉子の讒言と太平記第12巻は記している。後醍醐天皇の綸旨が「内奏」によって歪められるという批判は政権内部において発せられた。1338年北畠顕家が提出した「諫奏状」には「卿士、官女、僧侶が朝廷の政事を穢している」と訴えた。天皇の綸旨の真偽さえ疑われ「謀綸旨」の横行が沙汰された。落書にいう「俄大名」、「下克上する成出者」は出自、家柄、慣習を無視した後醍醐人事を批判したものである。楠や名和のような出自も怪しげな成り上がり者が内裏に出入りする様子を見た既成貴族の北畠顕家の不満が爆発したようである。内裏に上がれる殿上人は5位以上、政権の要職である卿になれるのは4位以上という「官爵の登用」が、功があったと言え上下の秩序を無視した後醍醐のやり方に旧貴族層は耐えられなかったのであろう。北畠顕家の父北畠親房の「職原鈔」(1340年)でも、家柄・家格に相応した任官叙位は政事の根幹に位置付けられるべき問題であった。官職とそれぞれがに相当する位階が明記されている。建武の後醍醐天皇親政下ではこの相当規定を無視した人事が行われ、それが建武政権を崩壊させたと考えた親房がその轍を踏まないように、南朝二代の後村上天皇に献上した官職の故実書である。例えば前醍醐帝の時代大納言吉田定房が准大臣に任じられたのは無念であるという。大納言家は名家(大納言を上限とする)として大臣に任じられるべきではないという。親房は南朝方の拠点として常陸の小田城を拠点として大宝城と転戦していた。小田治久ら東国武士の官位要求には応じなかった。これが東国経営の失敗した一因であったことも確かであるが、断じて安易に官位を与えなかった。北畠家は清華家(大臣、大将を経て太政大臣に至る家格)の立場からする公家故実の思想である。これらの既成公家の主張は、後醍醐天皇の新政の思想と明らかに対立した。

(つづく)