ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年11月04日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロード 最南端

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第10回

第3章) 「神学的徳」としての信仰と希望 (その2)

この信仰と知性の関係はトマスの信仰論の神髄であるので少し詳しく考えてゆこう。知性が承認を与える場合、「直知」とは「理論理性の第1原理」(同時に肯定し否定することはできない)とか「実践理性の第1原理」(善はなすべき、悪は避けるべき)のように自明的正しさを持つからであり、「学知」とは知的徳の一つとして何らかの理性的推論に基づいて結論を得る知性の力である。第2の「知性による承認」の方法とは、固有の対象によって知性が動かされるのではなく、選択によって意志的に承認を与える場合である。「臆見」(推測)と「信仰」である。「臆見」は多少の疑い、恐れを伴うが、「信仰」は恐れなく確信をもってなされるという違いがある。トマスは「信じること」を「知ること」の一形態と見る。信じることは理性の働きであると、キリスト教学とアリストテレス哲学を統合するする。アウグスティウスは「神を見ること」について、承認の確固たることにおいて、承認は認識である。信仰は知ることや見ることであるという。信仰とは人間の知性の受容力を越えた神秘に係わるものであり、神秘そのものである神を現前に見ることはない。パウロは「鏡を通じて謎において見ている。そのとき顔と顔を合わせてみることになる」といい、現世における人間の神認識の間接性と曖昧性を語っている。ぼやけて隠された者が神の神秘に触れることにより、人間は自らの知性の受容力を越えて存在することを確固として承認する。そうした承認を通じて我々は豊かで確固とした知に導かれる。これは「知の認識」とみなすことができるとトマスは考えた。「信」の原点には「知」がなければならない、それゆえ我々は高次な神について人間の認識が存在する、信仰は「神の知への参与」である。信の連鎖が人間共同社会の根源事項である。ヨハネ福音書には「いまだかって、神を見た者はいない。父の懐にある一人子の神、キリストがこのことを知らせたのである」と書いてある。人間の神認識に関する「信の構造」を理解することは、トマス神学の基本構造を理解するために重要である。トマスの信仰論を理解する最大の鍵の一つは、「信仰と理性」、「信仰と知」が不可分の関係にあることを理解することである。「徴、暗示、シグナル」はキリスト教学の基本概念に一つである。トマスは「信仰に属する事柄に承認を与えることは理性を越えているが、しかし間違ってはいない」ともいう。信じることと知ることはの間には決定的な距離があるが、トマスは証明することはできないが、諸々のふさわしい証拠によって暗示されていることから知ることができるという。「神の受肉」、「キリストの受難」は説明不可能であるが、人間救済の妨げになる事柄ではない。むしろ「徴」に積極的な意義が持たされているのである。

(つづく)